太宰 治 (だざい おさむ)

出生日時:1909年6月19日 16:44
出生場所:青森県北津軽郡金木村
経歴、職業:作家
業績:『人間失格』
データソース:2ちゃんねる

 

 

太宰治は作家として大変有名であるが、私の記憶の中には自殺をした作家で、『人間失格』という作品を書いたという以上の情報はなかった。然し、彼の墓には今なお、多くの人が墓参りに訪れるほど、人気の作家のようである。インターネット上を検索すると、多くの作家が彼の文学の魅力について語り、彼を読んでいることを後ろめたい恥ずかしい気持ちでいながら、彼の作品から感銘を受けたことを語っている。

私自身も彼の作品と言えば、教科書に出てきた『走れメロス』の短編小説を読んだのみである。然し、『走れメロス』の言葉に無駄のない軽快で完成された文章は今なお記憶の中に残っている。

チャートを作成してみると、2チャンネルからの信用度に不安のあるデータでありながら、私はこの出生時間が正しいことを感じたのである。

それは、彼が青森県下有数の大地主の父親の息子であり、彼の生家が現在、太宰治記念の「斜陽館」として、残っているのであるが、見た目、非常に大きな屋敷であることから、彼の4室には火星が在住していることが妥当に思えたからである。

太宰治の生家・太宰治記念館『斜陽館』

火星は2、5室支配で10室在住の木星からアスペクトされており、4−10室の軸でラージャヨーガを形成している。家と社会的仕事で発展する配置である。家は立派な屋敷で、裕福であり、社会的には彼は大変な有名人になったのであり、彼の名声(10室)が生家(4室)を通して、残されているのであり、これこそが4−10室の軸でのラージャヨーガである。

因みに生家、故郷というのは4室の象意である。そして、彼の作家としての作品や名声は10室が表している。彼の作品は弱さの文学などと、批判されもするが、然し、最終的には社会的人気と名声を勝ち得ているのである。人々の記憶に今も残っているのであるから、社会的成功、地位、名声と言うことが出来る。

ここで10室の木星は5室の支配星で10室に在住して強く、ナヴァムシャでも5室の支配星でラグナに在住し、月からも5室に在住している。木星は大変強いようである。10室の木星はとにかく有名になるようであり、社会的名声を勝ち得る配置である。最も目立ち、注目を浴びる部屋が10室である。彼は、自殺をした作家で決してその生き方は褒められるものではなかったとしても、その知名度は高く、有名人であることから、やはり10室の象意を体現していると思われる。

インターネット上を検索していても皆、彼を褒める意見ばかりである。彼のマイナス面を見つつも、それでも彼を評価し、賞賛せざるを得ないといった意見が多い。私はこうした意見に触れつつ、これが10室で強い木星の影響であることを感じたのである。

そして、さらに見ていくと、8室に月と太陽が在住し、8室に惑星集中している。
8室は孤独、突然の災難、苦悩を表し、幸運を損失し父親(神)の恩寵を失う部屋である。

そこに外部からの強制的な意志を表す冥王星や薬物中毒、放浪の海王星が在住し、パートナーを表す7室支配の金星も在住して、非常に8室が強調されている。

そして、7室と8室が星座交換しているのは最も注目すべきポイントである。
パートナー(7室)を通しての苦悩や不幸(8室)という象意がここで確認できる。

この辺りで、太宰治の青年期からの自殺未遂の繰り返しや、薬物中毒、女性との心中事件、これらが抗うことの出来ない強制的な運命の力として彼に襲い掛かっているのである。

ここまで見てくると、もうこのチャートのラグナが正しいということが分かってくるのである。

さらに細かいところで言えば、ラグナにケートゥが在住しており、彼の顔つきや姿からは非常に覇気がなく貧相な印象を受けるのであるが、これがケートゥの顔つき、容姿であると言える。

彼は、貧相でありながらも、感受性鋭く、直感的で、内に秘めたる強い思いがあるように見えるのはやはり、蠍座の象意である。従って、蠍座ラグナで正しいと思われる。どう考えても明るく快活な射手座ではないし、またプレイボーイで社交的な天秤座でもない。感情をずるずると引きずり、内なる想いを内に隠し持っているようなそんな根暗な印象が写真から伝わってくる。これこそが蠍座ラグナである。

ここまで見てくると、もう蠍座ラグナで間違いはないという確信にさえなってくる。大体、このくらいの材料があれば、ラグナの検証は可能であると思われる。

然し、もっとも注目すべきなのは、この7室と8室の星座交換であり、これこそが彼の数回に渡る女性との心中(未遂)を表していると言える。

1回目は、1930年に東京帝国大学仏文科在学中にカフェの女給田部シメ子と起こした心中であるが、ウィキペディアの略年譜には以下のように書かれている。

『1930年(昭和5年) 東京帝国大学仏文科入学。門人として井伏鱒二のもとに出入りするようになる。同年カフェの女給田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手のシメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、長兄文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類だったことや、担当の刑事がたまたま金木出身だったことが太宰にとって有利に作用したという説もある(中畑慶吉の談話)。 』

そして、2回目は、1937年に妻である小山初代の浮気を苦にして、妻を道ずれにして心中を図ったものであり、ウィキペディアの略年譜には以下のように書かれている。

『1937年(昭和12年) 小山初代が津島家の親類の画学生小舘善四郎と密通していたことを知り、初代と心中未遂、離別。 』

そして、最後は1948年に愛人の山崎富栄と玉川上水で入水心中を図ったのである。

『1948年(昭和23年) 『人間失格』を発表。山崎富栄と玉川上水で入水。ふたりの遺体は紐で固く結ばれていたが、太宰が激しく抵抗した形跡が歴然と残っていた。このため一部では「太宰は決行直前になって気が変わったが、山崎が強引に水の中へ引きずり込んだのだ」との説もささやかれた。・・・』

この最後の入水心中で、『・・・ふたりの遺体は紐で固く結ばれていたが、太宰が激しく抵抗した形跡が歴然と残っていた。このため一部では「太宰は決行直前になって気が変わったが、山崎が強引に水の中へ引きずり込んだのだ・・・』と書かれている箇所がもし本当だとすれば、ちょっと想像するだけで恐ろしくなるような悲しく壮絶な最後である。

お互いに相手を拘束し合い、強制的にお互いを道ずれにするような、そんな不幸な関係なのであり、非常におどろおどろしい風景である。

これこそが、7室と8室の星座交換なのであり、つまり、男女関係(7室)を通じた苦悩や不幸、悲劇(8室)なのだと言える。

この太宰治のケースは7室と8室の星座交換が何を意味するかを示唆する一つの典型例であると言える。

そして、ウィキペディアには続けてこう書かれている。

『2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。 この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、三鷹の禅林寺を多くの愛好家が訪れる。 太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。 金木の生家は、太宰治記念館「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。 』

これが非常に理解しにくいことが、世間的に少しも褒められた行為ではない心中を行いながら、自殺をした6月19日が桜桃忌(おうとうき)と呼ばれて、三鷹の禅林寺を多くの愛好家が訪れるという事実である。そして、この行事は後に『太宰治生誕祭』と名称を改められ、それが人を集める行事として、いまだに成立しているという事実である。また、金木の生家が太宰治記念館「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている事実である。

自殺未遂という世間的に見て、ほとんど尊敬に値しないような行為を繰り返していた人物が、その後、敬遠されないどころか、大きな名誉や人気を得て今日でも人々をひきつけているという事実である。

おそらく、これが木星が10室に在住している効果なのである。

 

西暦 年月 出来事 ダシャー
1909年 6月19日 青森県北津軽郡金木村(現在の青森県五所川原市、旧金木町)に、県下有数の大地主である津島源右衛門(1871-1923)、タ子(たね)(1873-1942)の6男として生まれた。二人の間には11人の子供がおり、10番目であった(但し、太宰が生まれた時点で既に長兄・次兄は他界)。父・源右衛門は松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員をつとめた地元の名士であった。 津島家の先祖について、「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた」と書いている。惣助は油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。また、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする説もある。 木星/木星
1916年   町立金木尋常小学校に入学。 木星/金星
1923年   県立青森中学校(1950年以降は県立青森高校)入学。英語作文の成績に優れていた。 青森県立青森中学校入学直前の3月、父が死去した。 木星/ラーフ→土星/土星
1925年   中学の校友会誌に習作『最後の太閤』掲載。友人と同人誌『星座』発行。作家を志望するようになる。官立弘前高等学校文科甲類時代には泉鏡花や芥川龍之介の作品に傾倒すると共に、左翼運動に傾倒。 土星/土星
1927年   第一高等学校(現在東京大学教養学部)受験に失敗し、弘前高等学校(現在弘前大学)の文科甲類(文系の英語クラス)に入学。 土星/水星
1928年   同人誌『細胞文芸』を創刊。潤沢な資金を背景に、舟橋聖一や吉屋信子など多数の有名作家から原稿を貰った。このころ井伏鱒二の作品を知り、『細胞文芸』への執筆を依頼。井伏の『薬局室挿話』はこの時の作品である。この頃は他に小菅銀吉、または本名でも文章を書いていた。 土星/水星
  12月 みずからの階級に悩みカルモチン自殺を図る。 土星/水星
1930年  

東京帝国大学仏文科入学。門人として井伏鱒二のもとに出入りするようになる。弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学仏文科に入学したが、高水準の講義内容が全く理解できなかった上、非合法の左翼運動にのめり込んで学業を怠け、留年を繰り返した挙句に除籍。卒業に際して口頭試問を受けたとき、教官の一人から、教員の名前が言えたら卒業させてやる、と冗談を言われたが、講義に出なかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。

同年カフェの女給田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こす。相手のシメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けたが、長兄文治たちの奔走が実って起訴猶予となった。なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類だったことや、担当の刑事がたまたま金木出身だったことが太宰にとって有利に作用したという説もある(中畑慶吉の談話)。

土星/ケートゥ→土星/金星
1931年   津島家から除籍され、小山初代と結婚。 土星/金星
1933年   『東奥日報』紙に短編『列車』を太宰治の筆名で発表。 同人誌『海豹』に参加し、『魚服記』を発表。 土星/金星→土星/太陽
1934年   檀一雄、木山捷平、中原中也、津村信夫等と文芸誌『青い花』を創刊するも、創刊号のみで廃刊。 土星/太陽→土星/月
1935年   『逆行』を『文藝』に発表。初めて同人誌以外の雑誌に発表したこの作品は、第1回芥川賞候補となった。だが、都新聞社に入社できず、またも自殺を図るも失敗。また、この年、佐藤春夫を知り師事する。 土星/月
1936年   前年のバビナール中毒が進行し治療に専念するも、処女作品集『晩年』を刊行。 土星/月→土星/火星
1937年   小山初代が津島家の親類の画学生小舘善四郎と密通していたことを知り、初代と心中未遂(カルモチン自殺未遂)、離別。 土星/火星→土星/ラーフ
1938年   石原美知子と婚約。 土星/ラーフ
1941年   長女・園子誕生。 土星/木星
1944年   長男・正樹誕生。 水星/水星
1947年   次女・里子(津島佑子)誕生。太田静子(1913-1982)との間に女児(太田治子)誕生。 『斜陽』を刊行。 生活のために、黒木舜平という筆名で心理サスペンス小説『断崖の錯覚』を書いたこともあるが、太宰自身はこの作品を恥じていた。 水星/金星
1948年  

『人間失格』を発表。山崎富栄と玉川上水で入水。ふたりの遺体は紐で固く結ばれていたが、太宰が激しく抵抗した形跡が歴然と残っていた。このため一部では「太宰は決行直前になって気が変わったが、山崎が強引に水の中へ引きずり込んだのだ」との説もささやかれた。この事件は当時からさまざまな憶測を生み、愛人による無理心中説、狂言心中失敗説等が唱えられている。2人の遺体が発見されたのは、奇しくも太宰の誕生日である6月19日の事であった。 この日は桜桃忌(おうとうき)として知られ、三鷹の禅林寺を多くの愛好家が訪れる。 太宰治の出身地・青森県金木町でも桜桃忌の行事をおこなっていたが、生地金木には生誕を祝う祭りの方が相応しいとして、生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。 金木の生家は、太宰治記念館「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。

『朝日新聞』に連載中だったユーモア小説『グッド・バイ』が遺作となった。奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクスを暗示した、太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。遺書には「小説が書けなくなった」旨が記されていたが、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の原因のひとつだったとする説もある。既成文壇に対する宣戦布告とも言うべき連載評論『如是我聞』の最終回は、死後に掲載された。

水星/金星
※年表はウィキペディアからのデータを引用、一部編集

出来事を時系列に追っていき、ヴィムショッタリダシャーと事象が一致しているか確認すると、ほぼ、一致しているのではないかと思われる結果が得られた。

まず、幼少期から中学に入学するまではマハダシャー木星期である。この頃のことについては経歴に詳しく書かれていないようである。
出生時間が正しければ、木星は2、5室支配で10室に在住しており、月、太陽から見て、7、10室の支配星で3室に在住している。

経歴に何も書かれていないということはこの頃は実家が裕福ということもあり、何不自由ない生活を送り、地元でも地主の息子として、 多くの人から知られており、恵まれた生活を送っていたという予想ができる。2室(両親、実家)、5室(学習、娯楽、文化活動)が10室(地位、社会生活)に在住しており、両親の力にちょって、恵まれた生活を送っていたと自然に考えられる。

そして、中学に入学する直前の1923年3月頃、父親が亡くなるが、この頃を境にマハダシャー土星期に移行していくようである。
土星期に入ってから、作家を志望したようであるが、土星は3室(文筆)の支配星で5室(創作活動)に在住している。

然し、土星は機能的凶星であり、5室に在住して5室を傷つけている。
従って、土星期に入ってから、1927年頃に第一高等学校(現在東京大学教養学部)受験に失敗したり、1930年頃に東京帝国大学仏文科に入学しても講義の内容についていけなかったり、非合法の左翼運動にのめり込んで学業を怠け、留年を繰り返して除籍処分になるなど、土星期は学業の遅滞や中断が生じて、学習がスムーズに捗らない様子が見られる。これは5室に在住する土星の影響と思われる。また左翼運動に見られる共産主義思想は、土星が表している。5室は知性や識別力も表し、その5室が機能的凶星化した土星によって傷つけられていることから、非合法な質の悪い左翼運動に傾倒したと解釈できる。

また土星/水星期に自らの階級に悩みカルチモン自殺を図っているが、これも自分の実家が地主という資本家階級の立場であることから、共産主義思想と矛盾することを悩んだものと思われるが、土星が5室に在住して識別力を失い、また土星が8、11室支配の機能的凶星化した水星にアスペクトしていることから、思想的に悩み(8室)の傾向が出てきて、それは共産主義思想(土星)の影響によるものと解釈できる。

この時期に質の悪い共産主義思想によって、識別力を失い、自らの立場を悲観して、自殺を図ったことは土星/水星期を検討すると、非常に理解できる。

また水星はトリシャダ(11室)とドゥシュタナ(8室)を支配する最悪の凶星であり、7室(マラカ)支配の金星と星座交換して、マラカの7室に在住しており、さらに3、4室支配の機能的凶星からアスペクトされ、6室支配の火星からもアスペクトされており、さらに逆行して、ラーフに傷つけられており、木星からの保護のアスペクトも受けていないという、非常に厳しい条件下にある。

この水星のダシャーが来る時には状況が非常に悪くなることが考えられる。
実際、水星期に入ってから、彼はその寿命を終えている。

水星/水星期はまだ最初のアンタルダシャーということもあり、吉凶が顕現していないが、セカンドアンタルダシャーの水星/金星期になった時、彼は『斜陽』を刊行しているが、このタイトルが彼の状況を物語っている。この時、黒木舜平という筆名で心理サスペンス小説『断崖の錯覚』を執筆したようであるが、これは生活(金銭)のために仕方なく書いたのであり、太宰がこの作品を恥じていたとウィキペディアにも書かれている。

そして、水星/金星期になると、彼は『人間失格』を発表し、その後、山崎富栄と玉川上水で入水自殺を遂げている。
金星は7室支配のマラカであり、8室に在住して、8室支配の水星と星座交換している。パートナー(7室)との苦悩(8室)の伴う不幸な結末である。

つまり、このアンタル金星期にパートナーとの関わり(7室)と、7室(生命を損失する)の象意である死が同時に生じている。

1930年の土星/金星期にも、カフェの女給田部シメ子と鎌倉の小動岬で心中未遂を起こしているが、『相手のシメ子のみ死亡したため、自殺幇助の容疑で検事から取調べを受けた』とウィキペディアには書かれている。

7室を支配する金星はパートナーの表示体であり、不幸な状況を表す8室に在住している。このアンタル金星期にもパートナーとの関わりと8室の表す苦悩や不幸な状況が同時におとずれている。

そして、1930年に、津島家から除籍されて、小山初代と結婚しているが、この時もアンタルダシャー金星期(土星/金星)であることが分かる。

1937年には、『小山初代が津島家の親類の画学生小舘善四郎と密通していたことを知り、初代と心中未遂(カルモチン自殺未遂)、離別。』とあるが、この時期は、土星/火星→土星/ラーフ期であることが確認できる。ラーフはマラカの7室に在住し、7室の支配星のように振舞い、また8室支配の水星とコンジャンクトして水星の影響を強く受けている。また土星、火星のアスペクトもあるため、水星に劣らない凶星となっている。

このラーフ期に再び、パートナーと心中未遂を起こしているのも7室と絡み、8室支配の水星や土星、火星の凶星と絡んで傷ついたラーフ期であるからだと考えると納得できる。

そして、翌年1938年に石原美知子と婚約しているが、この時期もまだ土星/ラーフ期であり、7室の在住星の時期に結婚したことは結婚のタイミングとしては分かりやすい。また1941年、44年には長女と長男が誕生している。 このラーフ期の結婚相手である石原美知子は、生活のための相手という性質があるようであり、アンタル金星期に出会い泥沼の心中劇となった相手とは性質の違う相手のようである。 人はしばしばラーフ期に結婚し、ラーフ期に子供を授かるという一般法則も当てはまっているようである。

1947年には上述したように水星/金星期にシフトするが、愛人の太田静子(1913-1982)との間に女児(太田治子)が誕生している。この大田静子との恋愛も妻子がいながらの恋愛であり、内縁関係のまま娘が誕生するという不幸な関係である。
翌1948年には、また別の愛人である山崎富栄と玉川上水で入水心中をするのであり、金星期に出会う相手とは、常に泥沼の心中劇に発展したようである。

このように8室と強く絡んだ7室支配の金星期は愛人との泥沼の心中劇を生み出すことが分かる。そのことが太宰治の経歴における時系列の中でダシャーの支配星との相関の中できちんと説明可能なため、おそらく、出生時間はこれで間違いないと思われる。

 

因みにここまで見てきたところで、私は全くトランジットについて検討していない。
トランジットを全く検討していないが、上記のように出生図の分析とダシャーの支配星の検討だけで、人生でどんなテーマの出来事が起こるか、だいたい予測可能である。

念のため、トランジットを見てみると、石原美知子と婚約した1938年頃は土星と木星が7室にダブルトランジットしていた。ダシャーは土星/ラーフ期でアンタルダシャーが7室の在住星である。従って、結婚の時期としては納得できるタイミングである。

長女・園子が誕生したのが、1941年頃だが、1940年12月ぐらいに土星と木星が6室を逆行して、5室に対して在住の効果を与えており、またトランジットの木星は出生の5室支配の木星にアスペクトし、土星は9室支配の月にアスペクトしていた。出産の9ヶ月前における土星と木星の5室と9室に対するトランジットの条件を満たしている。

1941年6月頃には木星と土星が7室に在住して、ダブルトランジットが形成されており、1942年5月ぐらいまで続いたようである。
この頃は長女・園子が誕生した直後で、パートナーとの関係が良好で、結婚生活の恩恵を最大限得ている様子が推測される。

1943年8月頃に再び、土星と木星が5室にダブルトランジットするが、一度、逆行しつつ、再び、1944年4月半ば頃から6月頃まで土星と木星が5室にダブルトランジットしていたことが確認できる。土星は9室支配の月にコンジャンクトし、5室支配の木星にもアスペクトしている。そして、1944年11月終わり頃に3たび、5室に対して、ダブルトランジットしている。

1944年頃に長男・正樹が誕生しており、この時も土星と木星が少なくとも出産の9ヶ月前に5室や9室と絡んでいるという条件に合致している。

1947年に次女・里子が誕生し、愛人・太田静子との間にも女児が誕生しているが、1946年4月半ば頃から6月初めぐらいまで、木星と土星が5室にトランジットしており、この時も少なくとも9ヶ月前までに土星と木星が5室や5室の支配星、9室や9室の支配星に絡んでいるという条件に合致している。

然し、女性と出会い心中事件を起こした1930年の時はラグナから7室ではなく、月、太陽、金星から見た7室に土星と木星がダブルトランジットしていた。月、太陽、金星が在住する双子座には木星がトランジットし、土星は射手座にトランジットして、2−8室で土星と木星が相互アスペクトしていたようである。

津島家から除籍され、小山初代と結婚した1931年には、同年6月ぐらいまで土星と木星が月、太陽、金星から7室にダブルトランジットしていた。

1948年に山崎富栄と玉川上水で入水心中しているが、この時は7月終わりごろに土星と木星が7室にトランジットするが、6月19日に心中を遂げているため、微妙にタイミングがずれている。

前年の1947年には、太田静子(1913-1982)との間に女児をもうけているが、この1947年には7室に対するダブルトランジットは見られない。

このように見てくると、ラグナからの7室に綺麗にダブルトランジットが形成されたのは、石原美知子との婚約時だけであり、この結婚を通して、太宰は精神的な安定を得たようであり、その事は経歴にも記されている。

その他の女性たちとは何れも、心中をするなどの不幸な関係にしか終わっていない。
そして、トランジットを確認しても7室に対するダブルトランジットは見られず、月、太陽、金星から7室に対するダブルトランジットが生じている場合でも、ラグナから見れば、2−8室の軸で木星と土星が相互アスペクトしていたのであり、実際には8室などの象意が活性化していたようである。

こうして見てくると、トランジットはダシャーでの解釈を補うのに有効であり、ダシャーとトランジットで確認できるハウスのテーマはほぼ現象化すると考えることが出来そうである。

そして、例え7室のテーマのダシャーであっても、トランジットを含めて、また他の支配星との絡みなどを含めて、よく検討しないと、その事象の質までは分からないと思われる。