占星コラム


2010/11/10 開運のための理論-『バガヴァッドギータの世界』より-

ジョーティッシュの実践を重ねていくと、ダシャーやトランジットによって、 起こる事象の吉凶などがおよそ分かるようになってくるのだが、もしこれから機能的凶星のダシャーがやってくる人やドゥシュタナとトリシャダハウスが絡んでいるようなダシャーが来る人に、どのようにアドバイスをしたらよいか、どのようにその困難な時期を乗り越えていけばいいのか、積極的な前向きな生き方が出来るようにアドバイスするかということは非常に大きな課題である。

ジョーティッシュの初心者はおそらくダシャーと起こる経験の一致の精度について、自分や他人のホロスコープを調べることによって発見し、驚愕して、多かれ少なかれ、運命論者に近い状態となってしまうのではないかと思うのである。

私が最初に陥ったのはそのような状態である。

プラサンナンヘルケ氏のセミナーの中で聞いたことであるが、霊的実践をしている人は7割運命が決まっていても残り3割は運命を変えることが可能であり、霊的実践をしていない人は、100%カルマに飲み込まれて自由意志は働かないとのこと
である。

然し、実際にダシャーと事象を調べてみて、特に私の場合は日々のプラーナダシャーが事象と一致していることを確認したので、自由意志というものはあるのかどうかと色々考える結果となったのである。

それで、私は最近、以前、購入していた『バガヴァッド・ギーターの世界』(上村勝彦著 ちくま学芸文庫)を手にとって読んでみて、ここに1つの答えが記されているのではないかと思ったのである。



『バカヴァッド・ギータ』というのは、聖賢ヴィヤーサによる大叙事詩『マハーバーラタ』の中の一遍であり、ヴェーダ聖典(サーマ・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ)と並ぶヒンドゥー教の聖典であるとされている。

内容は、クルクシュトラの戦いで、敵味方が対峙してこれから戦争が始まるという時に敵方に自分がお世話になった人たちや親戚の人たちがいるのを見て、戦意を喪失した勇者アルジュナに対して、御者に扮したクリシュナが、カルマヨーガ(行為のヨーガ)の教えを説くという内容である。

その要約は、「結果に執着せずに行為を為せ」というものである。



『バガヴァッド・ギーターの世界』の中では次の箇所が引用されている。

 『あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。』(2.47)

 『知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達する。』(2.51)

 『諸々の行為は私を汚すことはない。私には行為の結果に対する願望はない。このように私を理解する人は、諸行為により束縛されない。解脱を求めた先人たちは、このように理解して行為をなした。それ故、かつて先人たちが行為したように、あなたも行為をせよ。』(4.14、15)

そこで私が改めて読んでみて気づいたことは、バガヴァッドギータでクリシュナが言及するカルマヨーガ(行為のヨーガ)の教えでは、結果に対する願望や執着がない状態で行った行為というものは、新たな原因(カルマ)をつくらないということである。

これは1つの新鮮な再発見であった。

ジョーティッシュはヒンドゥー教の価値観と非常に密接に関連しており、ヒンドゥー教を深く理解しなければ、ジョーティッシュも結局、理解することは難しいのではないかと思われる。

例えば、ダルマ(正義)、アルタ(富)、カーマ(モクシャ)、モクシャ(解脱)といったプルシャルタ(人生の目的)でのハウスの分類や、ケンドラ、トリコーナ、トリシャダといったハウスを分類するサンスクリットの用語は、ヒンドゥー教の思想や理想から来ている概念である。

従って、ラオ先生がヴェーディックアストロロジーという呼称は間違いで、本当は、ヒンドゥーアストロロジーと呼ぶのが正しいのであるというのはそういうことではないかと思われる。

ジョーティッシュはヒンドゥー教の概念と密接に関わりあっている。


そして、何を言いたいのかというと、

結果に対する願望や執着がない状態で行った行為というものは、新たな原因(カルマ)をつくらないで解脱に至るということは、ジョーティッシュの考え方と関連させて考えるとよく分かるのである。

例えば、ジョーティッシュで、トリシャダハウスは最も凶ハウスとされている。

それらは3室(欲望)、6室(怒り)、11室(貪欲)であるが、

これらのハウスを支配する時、トリシャダヤ原理により、惑星は機能的凶星となるのである。

これはヒンドゥー教では、三欲(欲望、怒り、貪欲)が解脱の妨げになるものとして、よくないものとされているからである。

そして、私が思ったのは、行為の結果に対する執着や願望を持たずに為した行為は束縛をもたらさないというのは、逆に、執着や願望を持って行われた行為は、新たな原因を生み出し、カルマを形成するということである。

そのことはジョーティッシュによれば、トリシャダハウスとドゥシュタナハウスの絡みは、欲望の苦しみから更にカルマを築いてしまう絡みであると説明されている。

以下の展開は私の仮説となるのであるが、

おそらく3、6、11室(欲望、怒り、貪欲)の支配星の時期にはこれらの三欲を動機とする行為を行いがちであり、特にドゥシュタナと絡んでいる場合は、欲望と苦しみとの相乗効果で新たなカルマを築いていくということである。

従って、もし仮に以下の計算式が成り立つとすると、

★(トリシャダ)×(ドゥシュタナ)= 新たな否定的なカルマ


(トリシャダ)の数値を0(ゼロ)に近づけていけば、

★ 0(ゼロ)×(ドゥシュタナ)= 0(ゼロ)


で新たなカルマを形成しないのである。

3、6、11室といっても、その発現の仕方には個人差があるのであって、

最も精神的発達が遅れている人は、非常にこれらのハウスの力が強力であり、

これらのハウスの力に振り回されることになるため、トリシャダの数値が大きいのであるが、聖者とか聖賢の場合、おそらく、これらのハウスの力にはそれほど振り回されないのではないかと思われ、トリシャダの値が小さくなるのである。

従って、ラオ先生が聖者のチャートを見る時は、注意が必要であると言っているのは、おそらくそのためである。

おそらく通常、一般に用いられるジョーティッシュの法則が、聖者においては、ハウスの絡みから同じ分析をしたとしても、同じ結果とはならないのである。

それは聖者においては、3、6、11室というハウスの象意が純化され、内容が異なっており、全く普通の一般人に対して適合するのとは違ったようにハウスの法則が働くのではないかと思うからである。

例えば、3室は食欲、性欲、睡眠欲などの低次の肉体的欲求を表わすが、聖者においては、肉体が純化して、これらの欲求に振舞わされないのである。従って、そのような聖者における3室はトリシャダハウスとしての凶意を発揮する度合いが少なくなり、おそらくドゥシュタナと絡んでもそれ程、凶意を発揮しないのである。結果、新たなカルマも形成しないのである。

6室は怒り、暴力のハウスであるが、6室に対立するハウスが8室であるため、私は6室は支配欲ではないかと考えている。自分の支配に反発してくる人間、自分の期待通りにならない人間に対して、怒りを感じるのである。これも聖者においては正しい人間関係を確立しているため、支配欲としてそれらを表現することは少なくなるのではないかと思われる。

従って、ドゥシュタナと絡んでも凶意を発揮する度合いは少ないのである。逆に聖者においては6室の象意が怒りや暴力ではなく、奉仕、献身として表現されるのではないかと思われる。この怒り、暴力から、奉仕、献身への6室の象意の転換がポイントである。

最後に11室であるが、これは貪りのハウスであるが、11室は高い地位、収入、名声、称号を得られるし、また求めるハウスである。それらを求めるために競争もするので6室(競争)から6室目で6室の本質のハウスである。

然し、聖者においてはまず6室の象意が、奉仕、献身に転換してしまったため、6室から6室目の11室も、名誉や称号など他人からの評価を求める激しい欲求やそのための競争心、そしてお金を稼ぎたいという欲求からも自由ではないかと思われ、この11室の象意も何か違うものに転換されているはずである。例えば、これは聖者間の交流や、科学的、芸術的な交流や、国際的な活動とそのコミュニティーとして表現されるかもしれない。

従って、結論としては、バガヴァッド・ギータでクリシュナが言う、結果に執着しないで行為を為した人は、その結果に束縛されない(新たなカルマをつくらない)ということは、3室、6室、11室がトリシャダとしての悪い働きをしないということに等しいのではないかと思ったのである。

もう1つ、『バガヴァッド・ギーターの世界』(P.58〜)には、欲望が破滅をもたらすプロセスについて、ギータを引用して説明している。

(略)人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が彼に生ずる。執着から欲望が生じ、欲望から怒りが生ずる。
 怒りから迷妄が生じ、迷妄から記憶の混乱が生ずる。記憶の混乱から知性の喪失が生じ、知性の喪失から人は破滅する。』(2.62、63)

 ここでは、諸々の対象に対する執着から欲望が生ずるとされます。そして欲望から怒りが生じ、怒りから迷妄(愚かしさ)が生じます。好ましい対象を自分のものにしておきたい。それがかなわないと怒る。そして迷妄が生ずるのです。仏教でもこの三つを貪欲、瞋恚、愚痴(貪瞋痴)の三毒といい、この三つが最大の悪であるとされます。  「記憶の混乱」とは、学習や師の教えにより過去に積み重ねた潜在的な知識を忘れてしまうことである、と解釈されています。(略)


この箇所を読んで思ったことは、これはトリシャダとドゥシュタナの絡みで、欲望の苦しみから更に新たなカルマを築いてしまうプロセスについて非常に鮮やかに描き出しているのではないかということである。

因みにここで言及されている仏教でいう三毒(貪欲、瞋恚、愚痴)とは、トリシャダヤ原理(欲望、怒り、貪欲)に大体、対応しているのではないかと思われる。(注:瞋恚=怒り)


【欲望が破滅をもたらすプロセス】

★@【感官の対象に対する想い】⇒A【執着】⇒B【欲望】⇒C【怒り】⇒D【迷妄(愚かしさ)】⇒E【記憶の混乱】⇒F【知性の喪失】⇒G【破滅】

非常に分かりやすく、私たちの日頃の経験と照らし合わせても思い当たる節があるプロセスである。

例えば、男女の泥沼の恋愛劇に関して考えてみると、以下のようなプロセスが考えられる。

@【恋愛相手との甘美な精神的肉体的体験】⇒A【その快楽への執着心】⇒B【もう一度、経験したいという欲望】⇒C【恋愛相手が自分の思い通りにしてくれないことへの怒り】⇒D【何度も恋愛相手のことを繰り返し考え、相手との情事の空想に耽ってはエネルギーを浪費する】⇒E【空想が現実であるかのように錯覚する、空想と現実の区別がつかなくなる】⇒F【相手は自分と一緒になれば幸せになれるなどと勝手に解釈して理論化する】⇒G【相手にストーカー行為を繰り返して逮捕、監禁】


世の中でよく事件になるストーカー事件とはこのようなプロセスをたどっているのではないかと思われる。

もう1つ例を挙げると、保険金殺人のケースだとすると以下のように考えられる。

@【飲む、打つ、買うなどの低次の欲求に振り回されている状態】⇒A【そうした快楽に対する執着】⇒B【お金があればそれらを実現できることから、お金に対する欲望】⇒C【お金が思い通りに得られず、結果として快楽が得られずに怒る】⇒D【お金を手っ取り早く稼ぐ方法を繰り返し考え、空想する】⇒E【現実と空想の区別がつかなくなる】⇒F【この人(想定被害者)は私に保険金をもたらすことで私への恩返しが出来るのだなどと勝手な解釈や理論化をする】⇒F【殺人を実行して逮捕、無期懲役】


非常に物騒な例を2つ挙げたが、程度の差こそあれ、このようなプロセスを多少なりとも経験したことがある人はいるのではないかと思うのである。

普通は私たちはCやDぐらいまで経験したとしてもその後までは行かないはずである。それくらいのコントロール能力は現代人は常識的に備えているからである。

E以上行ってしまったら、それは異常であり、おそらく精神的に未発達でトリシャダヤ原理(欲望、怒り、貪り)が強く、それらに振り回される状態の人で、出生図を見ると、トリシャダハウスにドゥシュタナハウスや土星や火星などの凶星が強く何重にも絡んでいることが確認できるのかもしれない。

欲望が破滅へと至る精神内のプロセスについてのバガヴァッドギーターの解説を引用したが、非常に鮮やかにこの現象を説明していると思うのである。

そして、何が言いたいかというと、この破滅へのプロセスを経ないためには、やはり、3、6、11室(欲望、怒り、貪欲)のトリシャダヤ原理に振り回されない為に、これらの象意を純化することである。

これらの象意が純化されていれば、執着や願望を持って行為を為さなくなるのであり、結果として、新たな否定的なカルマを築くことがなくなり、バガヴァド・ギータの中で言われるように行為の結果に束縛されなくなるのである。

この3、6、11室(欲望、怒り、貪欲)の強度には個人差があり、どのようにして、これらのハウスが否定的な振る舞いをする度合い(数値)を小さくしていくかが問題なのであるが、その前にどうして人間がこうした3、6、11室のトリシャダヤ原理を持つことになったのかが、『バガヴァッド・ギーターの世界』(P.63〜)の中で解説してあるため、以下に引用する。

行為は無為よりも優れている

『ギーター』第三章の冒頭で、アルジュナはクリシュナに、「もし行為よりも知性が優れているというなら、なぜ自分を恐ろしい行為に駆り立てるのか」と尋ねます。それに対しクリシュナは、「人は行為を企てずして、行為の超越に達することはなく、また単なる行為の放棄によって行為の超越(成就)に達することはない」と説きます。そもそも我々はすべて、何らかの行為をしなければ生きていけません。

 実に、一瞬の間でも行為をしないでいる人は誰もいない。というのは、すべての人は、プラクリティ(根本原質)から生ずる要素により、否応なく行為をさせられるから。(3.5)

(中略)そのプラクリティ(根本原質)を構成する三つの構成要素(グナ)は、純質(サットヴァ)激質(ラジャス)暗質(タマス)です。プラクリティは、この三つの要素からなりますが、それから開展した個々の被造物(人間、動植物など)もこの三つの要素から成り立っています。ただし、それらはどの要素が優勢であるかによって、あらわれ方が異なります。人間の性質と行動も、これらの三つの要素の組み合わせによって定められています。肉体を持つものは、三つの要素の働きにより、否応なく種々の行為をさせられるといいます。
 自分が運動器官を抑制して行為を停止したと考えても、その人の思考器官(マナス、「意」)が働いている。これも一つの行為であり、その思考器官で感覚器官の対象のことを考えている。例えば目や耳の対象に執着している。そのような修行者は、似非行者であるといわれています。ちなみに、ヒンドゥー教や仏教では、身体でする行為だけでなく、何かを言うこと何かを思考することも、行為と考えられました(「身口意の三業」)。(略)

つまり、この『バガヴァッド・ギーターの世界』の解説を読むと、人間はプラクリティ(根本原質)を構成する三つの構成要素[グナ](サットヴァ、ラジャス、タマス)で創られており、これらの組み合わせによって、性質や行動が決まるということである。

そして、人間の行為とは、行動、言葉、思考を指し、これらの行為が三つの構成要素(サットヴァ、ラジャス、タマス)の割合によって、否応なしにカルマを生み出していくようである。

ここで、次の箇所(P.70〜)を読んでいくと、悪(否定的なカルマを積んでしまう)が行なわれる理由について解説してある。

(略)アルジュナはクリシュナに、「人間は何に命じられて悪を行うのか。望みもしないのに。まるで力ずくで駆り立てられたように」(3.36)と尋ねます。それに対してクリシュナは、次のように答えます。

 それは欲望である。それは怒りである激質という要素から生じたものである。それは大食で非常に邪悪である。この世で、それが敵であると知れ。火が煙に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世はそれ(欲望、怒り)に覆われている。
 知識ある者の知識は、この永遠の敵に覆われている。アルジュナよ、欲望という満たし難い火によって。(3.37〜39)

 人間は欲望(カーマ)に命じられて悪を行うのであり、また怒りに命じられて悪を行います。その欲望とは、三つの構成要素(グナ)の一つである激質(ラジャス)から生じたものです。それは大食で、非常に邪悪で、この世でそれが最大の敵であるとされます。(略)


上記で、悪は、激質(ラジャス)から生じた欲望や怒りに命じられて行われると書かれている。

ここで言う欲望や怒りとは、つまりは、3、6、11室(欲望、怒り、貪欲)のトリシャダヤ原理と同じことを指していることは明白である。

従って、3、6、11室は、激質(ラジャス)から生じた欲望、怒り、貪欲といった三欲の受け皿となるハウスのようである。

結論としては、3、6、11室がドゥシュタナと絡んで新たな否定的なカルマを築かないようにするには、欲望、怒り、貪欲に振り回される度合いを少なくしなければならない為、人間の性質や行動を規定する激質(ラジャス)の構成割合を少なくしなければならないのである。

それは、激質(ラジャス)が欲望、怒り、貪欲となって3、6、11室を経由して、人間の行為(思考、言葉、行動)を執着や欲望、願望で一杯にしてしまい、そうした行為が行為の結果としてのカルマを再び生み出してしまうからである。

その為には、まず人間の肉体に取り入れる食事が激質(ラジャス)ではなく、純質(サットヴァ)となることが好ましいのであり、霊性実践においては肉食(激質)から菜食(純質)に移行するのが好ましいのである。あるいは暴飲暴食を避け、アルコール、煙草、ジャンクフード(ハンバーガー、コカコーラetc)などを避けた方がいいのかもしれない。

こうした食事に気を使うことによって肉体から激質(ラジャス)を取り除くというアプローチがまず一つあるのである。然し、これは本質的ではないと考えられている。

本当に重要なことは、行為(思考、言葉、行動)が激質(ラジャス)から生み出された欲望、怒り、貪欲に色づけらないことが重要である。

この中で、比較的容易に出来るのは、行動と言葉のコントロールであり、ある程度の社会生活を積んで訓練が出来てくれば、否定的なことを言わないようにしたり、行動として現さないようにしたりということは、常識的な社会人であればするのである。

これらの行動と言葉において自制できるというのは衝動を抑えるといった肉体の制御の分野であり、おそらく、これは先に述べた口から入る食事に気を使うといったことが有効である。また現代の洗練された文明人であれば普通の意味での自制心として養われる分野ではないかと思われる。

然し、これらは今回の議論において全く本質的ではないのである。

ここで私はクリシュナムルティの『自我の終焉-絶対自由への道-』 (根木宏・山口圭三郎訳 篠崎書林)を思い出したのであるが、行為の結果に対する執着や願望というものは思考によって生み出されたものである。

思考も行為なのであり、思考そのものは自制心ではどうにも出来ない分野なのである。思考しても、行動しなかったり、言葉に出さなかったりすることは簡単にできるが、願望をもってしまう、執着をもってしまうというのは思考の分野であり、思考は自制することが出来ないのである。思考を静めようとして努力すれば、返って、その思考が強くなってしまうのである。

バガヴァッド・ギータで言及される「結果に執着せずに行為を為す」ということの意味は、執着や願望から行為を行わないということである。そうすれば行為の結果に束縛されないのである。

我々は言葉や行動は何とか自制できても思考は努力によって自制することが出来ないのである。従って、思考と同一である執着や願望も努力によっては自制できず、努力によって抑えることは難しいのである。

クリシュナムルティによれば、我々が思考を静めることができるのは、ただありのままの思考を見つめて、否定も肯定もせずに凝視して、それを理解した時なのだと言っている。

そしてクリシュナムルティはありのままの思考の動きを凝視して思考が静まった時に、動機なき行為があるのだと言っている。そしてそれが愛なのだと言っている。

その動機なき行為とは、おそらく周りの状況に対する注意深い気づきを伴った感応なのだと思われる。頼まれればいつでも周りの必要に応じることが出来る敏感で意識的な状態である。

その時は、おそらくバガヴァッド・ギータで言及するような、ただ行為の為にのみ行為を為している状態なのではないかと思われる。

そして、その状態の時は、執着や欲望の苦しみというものはなく、ただ楽しく、夢中になっている状態で、純質(サットヴァ)な状態にあるのではないかと思われる。

ここまでのポイントと、私の仮説となる理論を整理してみたいと思うのである。

・欲望、怒りは激質(ラジャス)から生じている。

・3、6、11室は欲望、怒り、貪欲のハウスである。従って、3、6、11室は激質(ラジャス)の受け皿である。

・トリシャダハウスとドゥシュタナハウスが絡むと欲望の苦しみから新たなカルマを築く傾向があると解説されている。

・3、6、11室が欲望、怒り、貪欲を表わす程度には個人差があり、聖者の場合、これらのハウスが欲望、怒り、貪欲を表わす程度の数値が低いため、トリシャダとドゥシュタナが絡んでも新たなカルマを築かない。

・バガヴァッド・ギータには、行為の結果に執着せずに行為を為した場合、行為の結果に束縛されないと書かれている。これは新たなカルマをつくらないと解釈できるのではないかと思われる。

・霊的実践により3、6、11室の欲望、怒り、貪欲の強度を弱めている人は、執着や願望から行為を行うことが少なくなっており、新たなカルマを築くことが少なくなっていく。

・結果として、そのことは、プラサンナン氏が言及するように霊的実践をしている人は7割は運命で決まっていても残り3割は運命を改善することが可能であるということが理解できる。霊的実践をしている人は、行為を行っている過程においても、欲望、怒り、貪欲の働く余地を少なくしつつあり、新たなカルマを築かずに行為の結果の束縛から解放されているため、急速に自己の運命を改善していくことが可能となる。

・そうした霊的実践とは激質(ラジャス)を少なくして、純質(サットヴァ)を多くすることである。例を挙げれば、肉食から菜食への転換などはその一例であるが本質的ではない。

・純質(サットヴァ)から行われる行為は、楽しく夢中になれるもので、動機なく全く苦痛がないが、激質(ラジャス)から行われる行為は、執着や願望に動機付けられており、結果に執着して苦痛を伴うものである。

・執着や願望の伴う行為とは、結果に対する思考を伴っている。思考は努力によって制御できない為、ただありのままを凝視して理解することによってのみ、解消可能である。ただ行為のためにのみ行為を為すこととは、実は、クリシュナムルティの言う、動機なき行為と同じことである。それは愛という状態である。


このように整理すると、3、6、11室が、トリシャダヤ原理を発揮して、新たなカルマを築かないようにするためには、欲望、怒り、貪欲といった激質(ラジャス)から生じる性質を改善する為に食事に気をつけて、行動や言葉に注意することがまず必要であり、その次に執着や願望を伴う行為を為さないために思考に注目する必要がある。

その際、思考は努力によって抑制したり、矯正することは出来ないのであって、思考を静めるには、ありのままの思考を肯定も否定もせずに凝視して、思考を理解することが必要である。そして思考が静まると、周囲に対する敏感な注意深い気づきや感応、そして、動機なき行為が生じてくるのである。

それこそが愛であり、バガヴァッド・ギータで言うところの、ただ行為のためのみに行為をなすことに近い状態である。その時には純質(サットヴァ)が優勢であり、ただ楽しいだけで苦痛は全くなく我を忘れた状態である。

ということで、思考を凝視することが重要になるのであるが、これは自己啓発セミナーなどでも、こうした気づきをもたらす教程が盛んに行われている。

そう考えると、行為の結果に執着せずにただ行為を為すことに導くようなセミナーは常に行われており、そうしたセミナーが運命の改善に導く余地はある訳である。

こうしたことを考えた結果、私はラディカルな運命決定論から徐々に抜け出しつつあるのである。

もちろん、こうしたセミナーなどで自らの気づきなどを深めようとしたり、自己実現しようとする行為自体が既に決まっていたことであると言ってしまえば、それまでであるが、実際、神(創造主)というものが、無限の存在であり、我々自身も神であることを考えると、その運命決定論という仮説で運命に対して受動的になってしまうことはあまりにも危険である。

自由意志があるという可能性を信じて、我々の自己実現や自己啓発などの霊的実践が、我々を束縛から解放し、我々を高めていくと考えながら、常に行動していくことが生き方として必要なのである。

バカバッドギーターの教えは、願望や執着から行動をするな、行為の動機というものは、ただ行為そのものに求められるべきである。ただ行為をすることそのもののみのために行為をなせというものである。

そうした願望や執着が伴わない行為、結果を求めない行為とは、どのような行為なのかというと、科学者や芸術家が研究や創作活動に打ち込んでいる時、奉仕家が奉仕に打ち込んでいる時、あるいは普通のレベルで言えば、趣味とか好きなことに打ち込んでいる時である。その時には人は結果については考えずにただ行為そのもののために行為をしているのである。[※そうした行為は純質(サットヴァ)な行為と呼ぶことが出来ると思われる]

その行為をすることが楽しく没頭して時間が経つのも忘れているのである。それは一つの瞑想の過程である。瞑想とは、思考が静まり、時間の経過も、瞑想した結果や報酬も考えずに、ただ瞑想することそのものが瞑想の動機であり、目的であるような過程であり、そしてその状態が平安や至福なのである。

そうした状態をもたらすのが、1、5、9室のトリコーナであり、純質 (サットヴァ)がもたらす、喜びであぶれた楽しい活動である。

このようにバガバッドギータの教えとは、行為の動機が重要であるという教えなのである。

動機が欲望、怒り、貪欲で汚染されていなければ、結果はどうであれ、カルマを積み増すことはないということなのである。

しかし、現代人にとっては、この行為の動機に無自覚で、中には潜在意識の中に本当の動機などが潜んでいたり、心的機構が複雑である。幼少期のトラウマなどで、特定の信念や思考傾向が形成され、それに動機づけられて行動しているのにそれに全く気づいていないということがほとんどである。だから自分の本当の動機や信念、トラウマなどに無自覚で、まず、これらを見つめて発見することから始めなければならないのである。

そして、クリシュナムルティが言うように、これらのありのままの動機を凝視して、ただそれを否定も肯定もせずに見て、その動機の構造、仕組み、パターン、発生起源などの全体像を理解した時に、それは自動的に消失して、解消していくのである。

そのように本当の動機を見ることが出来て初めて、動機なき行為、行為の結果を求めない行為に取組むことが出来るのである。

バガバッドギータで言及されるカルマヨーガを追求する前に動機について正直であることがまず求められ、その後で初めて、その動機から行為を行なう場合、どういう結果(カルマ)がもたらされるのかを検討出来るのである。

その為、自己啓発セミナーやセラピストなどが役に立つ場合が出てくると思われる。

まず、カルマヨーガを実践する前に、自分が行為の結果に執着したり、願望していることをまず発見する必要があるし、その執着や願望の内容についてもありのままに認識する必要があるのである。

そうした気づきをもたらすものは瞑想であり、ありのままをありのままに凝視する注意深さ、意識の覚醒状態である。そして、動機なき行為、行為の結果への執着や願望のない、ただ行為そのもののための行為とは、研究活動や創作活動、奉仕活動なのである。

だから結局、開運の王道というのは、瞑想と奉仕ということになるのであるが、これらは何か宗教的実践を意味しているのではなく、私たちが本来、幸福を感じ、楽しさとか、喜びを感じる行為のことなのである。ただ行為をすることそのもののための行為とは、3、6、11室が媒体となる欲望、怒り、貪欲の影響下にない行為なのである。

自己啓発セミナーでは、幼少時のトラウマや否定的な信念に気づかせた後で、本人に本当の望みや理想に気づかせ、新しい目標や理想を設定させるのである。

そして、これらの目標や理想を実現させる為の具体的行動を起こさせるのである。

執着や願望が行為や不行為(行為しないという行為)を生み出していることにまず気づかせた上で、本当の望み、そのことそのものが行為の目的であるような行為の実践に導くのである。

従って、おそらく自己啓発セミナーなどは、もしそれが効果的に行われた場合、カルマヨーガの強烈な集中的な実践に結びつくのである。

我々の元々持っているプラクリティ(サットヴァ、ラジャス、タマス)とそれらの結果である過去世のカルマの積み重ねにより、我々に起こってくる状況(カルマの発現)と我々の反応(行為)は決まってしまうのであるが、カルマヨーガの教えでは、そうした我々が行わなければならなくなった行為(仕事)をする際に結果に対する執着や願望なしにその行為(仕事)を為すように勧めているのである。

それは動機を純粋に保てということである。
然し、動機とはその人のプラクリティ(サットヴァ、ラジャス、タマス)と経験の蓄積である記憶(思考)によって決まってくるので、我々に出来ることはその動機(願望、執着)をありのままに否定も肯定もせず凝視することだけである。

そして、我々がその動機の存在をはっきりと見ることが出来た時に、その動機が変容し、消失する、あるいは問題にならなくなると、クリシュナムルティは言っている。

カルマヨーガの教えと、クリシュナムルティの教えは必ずしも同じものではないが、そのエッセンスは同じではないかと思われる。

行為の結果に執着するのは思考があるからである。

思考が静まって、ただ今やっていることに集中しているとき、結果への執着や願望はないのである。

従って、思考が静まった動機なき行為、クリシュナムルティの言う愛という状態は、カルマヨーガの実践と同じことである。

動機なき行為においては我々はカルマをつくらないのである。

そしてカルマのくびき、カルマの連鎖から解放される一歩を歩み出すのである。

それらをもたらすものが、ヨーガ[カルマヨーガ(行為のヨーガ)、バクティヨーガ(献身のヨーガ)、ジャニューニャヨーガ(知識のヨーガ)]であり、瞑想である。

これらの実践が動機なき行為、結果への執着や願望なき行為に急速に導くのである。

カルマの連鎖、思考(過去)から解放するのは、こうした動機なき行為であり、もう少し簡単に言えば、サットヴァ(純質)な楽しくて我を忘れて夢中になれる活動(芸術、科学)である。

ジョーティッシュというものは結局の所、自分の運命に対する鎮静剤といった役割しかないのであって、それが執着、願望なき行為、思考に条件付けられた行為(愛)に導くものでなければ意味がないのかもしれないのである。

そのことが真のカルマからの解放であり、本当の意味での自己啓発、自己実現である。

ジョーティッシュというものは法則の探求であり、ジョーティッシュの研究者に運命学の最高峰というべき驚異の知識として純粋で夢中にさせる分野を提供し、忘我の喜びを与えるものである。

ジョーティッシュはサンスクリット語で、光の知識という意味であるが、これはジョーティッシュの研究者、学習者自体に光をもたらすのである。

ジョーティッシュはサーダナ(修行)と言われるが、これは他人に鑑定をして啓発するというばかりでなく、ジョーティッシュを研究する人に結果に執着しない、ただ楽しいから研究するという純粋な喜びをもたらすのであり、そのことが瞑想なのである。

ジョーティッシュを受けることは人生に対する鎮静剤でしかないが、それは人生に希望をもたらすという意味で役に立つ場合もあるが、結局は鎮静剤でしかないことに変わりはないのである。

道の角を曲がると車にひかれることが分かってしまい、先々の結果に執着して生きるような人生に導くなら、ジョーティッシュ(占星術)はマイナスである。

ジョーティッシュ(占星術)をきっかけとして、それが運命改善への動機づけや、結果への執着や願望のない、動機なき行為、ただ行為そのもののためにのみ行為することに導くのであれば、ジョーティッシュ(占星術)はプラスである。

学問としてのジョーティッシュは法則の探求であり、瞑想であり、探求者に純粋な喜びや、忘我の喜びを与えるものであるが、

ジョーティッシュの知識を用いて、人にコンサルテーションする行為自体は単なる技術であり、諸刃の剣であり、使い方によって良い結果も悪い結果ももたらすものである。

自己実現セミナー、自己啓発セミナーで行われているのは、結局の所、自分の本当の動機に気づかせること、そして記憶や過去の経験(思考)のくびき、つまりはカルマから解放すること、あるいは、思考の正しい使い方、一度、目標を決めたら、結果に執着せずに行為に没頭する必要性などである。

それを射手座的な実に火の凄まじい過激さで行うのが自己啓発セミナーではないかと思うのである。

つまり、ビジネスにおける瞑想的集中的実践を教えているのが、自己啓発セミナーである。それはヨーガ[カルマヨーガ(行為のヨーガ)、バクティヨーガ(献身のヨーガ)、ジャニューニャヨーガ(知識のヨーガ)]のビジネス場面での応用である。

ジョーティッシュを学んで、その用語を学習すると、ヒンドゥー教の価値観、理想、教えと不可分ではないことが分かり、結果、『バガヴァッドギータ』というヒンドゥー教の優れた古典とも関連性が出てくるのである。

ヒンドゥー教の古典の中の最高峰に位置する『バガヴァッドギータ』の教えを、ジョーティッシュの用語と関連させて、私独自の解釈で色づけしているため、あくまでも仮説として読んで頂ければと思うのである。

『バガヴァッドギータ』のカルマヨーガの教えを、クリシュナムルティの教えと関連づけることが正しいのかどうかも分からず、行為のヨーガの意味とはずれるのかもしれないが、本文は 『バガヴァッドギータの世界』を読んで浮かんだ考えを記したものである。




(参考文献)

『バガヴァッド・ギータの世界』

ジッドゥ・クリシュナムルティ wikipedia

『自我の終焉』 根木宏・山口圭三郎訳 篠崎書林