占星コラム


2010/7/10 数学界の天才-グレゴリー・ペレルマン-


以前、NHKスペシャルで再放送されていた『100年の難問はなぜ解けたのか 〜天才数学者 失踪の謎〜』という番組を見て、”ポアンカレ予想”という100年の間、数学者の頭を悩ませてきた難問を解決したというこの天才数学者の人生に興味を持った。


彼はポアンカレ予想の解決によって、数学界のノーベル賞といわれるフィールズ賞を受賞したが、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」として受賞を辞退し、賞金の100万ドルにも興味を示さないそうである。

2006年8月23日付の記事が以下のようにペレルマンの受賞拒否を伝えている。

ロシアの数学者、数学界での孤独感からフィールズ賞受賞拒否
2006年08月23日 IBTimes

 ロシア数学者グレゴリー・ペレルマン氏(40)が、100年間未解決であった数学界の難問「ポアンカレ予想」を解いたことで数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞受賞の栄誉を与えられる予定であったが、本人は受賞を拒否した。

 今回のペレルマン氏の「ポアンカレ予想」解決によって、科学者らが「宇宙の形」を理解するのに役立つことになると考えられており、宇宙物理学が進展するといわれている。

   国際数学連合(IMU)会長のジョン・ボール氏は、ペレルマン氏にフィールズ賞を受けるように促したが、ペレルマン氏は数学界で孤独感を感じており、自分が孤独感を感じている数学界でシンボル的存在としてみなされたくないとして受賞を拒否したという。
 ペレルマン氏が解き明かしたといわれている「ポアンカレ予想」は、「解決したら100万ドル出す」と宣言されていた数学界の7大難問の一つであるが、ペレルマン氏の同僚によると、ペレルマン氏はもともとこのような賞金に興味がない様子であったという。
 フィールズ賞受賞者は4年に1度の国際数学者会議で発表され、40歳以下の数学者に与えられる。今回ペレルマン氏の他にも、数学界の他分野において顕著な業績を収めた数学者として、ロシアの数学者アンドレイ・オコウンコフ氏、フランスの数学者ウェンデリン・ワーナー氏、オーストラリアの数学者テレンス・タオ氏がフィールズ賞を受賞した。

 ペレルマン氏はロシア科学アカデミー・ステクロフ数学研究所サンクトペテルブルク支所に勤務していたが、昨年12月に自主退職を申し出た。その後、1月以来同研究所に姿を見せておらず、現在彼の所在は特定できない状態にある。おそらくは母親と共にサンクトペテルブルグに暮らしていると思われている。今回ペレルマン氏の母親宅に受賞に関して何度も電話をかけたが、一度も電話に出なかったと言う。

 ペレルマン氏はメディアと接触を取るのを拒否しており、ペレルマン氏の知人も彼の連絡先を教えることを拒否している。

彼が受賞を拒否して、誰とも会わずに母親と隠遁生活を送っているということから、印象として、モクシャハウスの影響や、12室の影響が感じられ、ダシャーにもそれが表れていると思ったのである。

そこで、12時でペレルマンのチャートを作成してみると、彼が何故、フィールズ賞を受賞した頃から、失踪して引き籠っているかの理由が分かる気がしたのである。

それは、おそらく、ペレルマンの出生の月に土星が接合しており、そのことが強い厭離の心情を引き起こしていると思われ、それで、富も名声も世間の評価も拒絶する姿勢につながっているということは、予想されることである。

出生時間を00:00:01に設定すると、2010年現在は、金星期の終わりから太陽期への移行期である。

一方、出生時間を23:59:59に設定すると、現在は月期の終わり頃である。

従って、ペレルマンが現在、故郷で母親と共に年金で生活し、一切、マスコミの取材に応じようとせずに隠遁生活を送っている現在のマハダシャーのとり得る範囲としては、金星期〜月期の間である。

『ポアンカレ予想』(早川書房 ジョージ・G・スピーロ著)によれば、彼が2003年にポアンカレ予想の解決を導く論文をインターネット上に発表する前の8年間ぐらいは、ステクロフ研究所に引きこもって、たった一人で、誰にも秘密を打ち明けることなく、このポアンカレ問題の難問に取り組んでいたそうである。

そして、その後で、フィールズ章を受賞したり、ミレニアム賞を受賞しても、受賞を辞退して、受賞式にも出てこないことを考えると、おそらく、ペレルマンは現在、土星と接合しているマハダシャー月期にいるのである。

出生時間を00:00:01〜23:59:59までのあらゆる可能性を検討してみても、2010年現在に該当するマハダシャーのとり得る範囲としては、金星、月、太陽のどれかしかないのである。

すると、彼がステクロフ研究所に引きこもって、ポアンカレ問題に取り組む前の1992年〜1994年はペレルマンが海外の研究所や大学に勤め口を得て、名誉や名声を得た時期である。

1992年にニューヨークのクーランド研究所に勤め口を得て、1993年の春は、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校で迎え、また1994年には、チューリッヒで催された国際数学者会議で、講演をして大いに注目を浴びている。

従って、 まだこの時点は、おそらく、マハダシャー金星期の終わり頃ではなかったかと思われ、まだ社交的に振舞っていた時期である。

そして、その後、奨学金の期限が切れる頃になって、1995年から、ペレルマンはロシアのステクロフ研究所に戻って、他のことには一切、関心を払わずにひたすらこのポアンカレ予想の解決に向けての研究に打ち込む時期に入ったのである。

この頃からペレルマンの人格は一変し、余計な社交を嫌って、ひたすら研究に打ち込むようになったようである。

(略)サンクトペテルブルクに戻ったペレルマン博士は、ステクロフ数学研究所に勤務し、何かに取り憑かれたかのように研究に没頭した。学生時代の博士を知る同僚たちは、その変わりように唖然としたという。 「大学院で一緒に勉強していた頃、ペレルマン先輩は明るい普通の若者でした。私たちは一緒にパーティーに参加したり、新年をお祝いしたりしたんです。夏休みには勤労奉仕でコルホーズ(集団農場)にも行きました。他の仲間となんら変わることはなかったんです。 でもアメリカから戻ってきた彼は、まるで別人でした。ほとんど人と交流しなくなったのです。昔みたいに声をかけることもできない。私たちとお茶を飲んで議論することもなければ、祝日を祝うこともありません。驚きました。以前はあんな人じゃなかったのに」  ペレルマン博士はセミナーなどの共同作業がある日以外、研究所に顔を出さなくなっていった。人付き合いを極力避け、研究に打ち込む日々が続いた。(略)
『100年の難問はなぜ解けたのか - 天才数学者の光と影 -』 NHK出版 春日真人著 p.175-176

おそらく、この研究に打ち込みだした時期がマハダシャー太陽期への移行期である。

太陽は数学を表す惑星であり、この頃、ペレルマンからの質問を受けた研究者によれば、この頃の彼には才気がみなぎっていたそうである。

もし射手座ラグナであるとすれば、太陽は9室の支配星で6室に在住しており、6室ウパチャヤ凶星の太陽は、異常なまでの集中力をもたらしたと思われる。9室の支配星のため、神からのインスピレーションというものに恵まれる時期で、それでマハダシャー太陽期に入った時に問題の突破口が見つかったのだと思われる。

そして、そのマハダシャー太陽期の間に才気がみなぎり、問題の解決と一人格闘し、最終的に問題を解決して勝利(Victory)したのである。6室が強い人は障害との格闘の末に勝利するのであり、6室の栄光とは勝利である。

この太陽には5室支配で自室にアスペクトバックする強い火星が接合しており、この5室と9室の絡みが創造的研究にとって、最高の絡みである。

この1995年から2001年までのマハダシャー太陽期において、ペレルマンは数学における最も創造的な仕事を成し遂げたのである。

ペレルマンの研究者仲間であるガン・ティアン博士によれば、ペレルマンは既に2000年の時点で、ポアンカレ予想の問題を解決していたそうである。

(略)・・・短い散歩の間に、ペレルマン博士は驚くべき事実を次々と打ち明けた。博士によればロシアに帰国してまもなく、1996年の2月には問題の突破口が見つかり、本格的に研究に取り組む決心をしたという。さらに驚いたことには、論文を発表する2年も前に既に問題を解決していたというのだ。2000年には問題を解いていたことになる。万が一ミスがあってはいけないと考え、証明が正しいと確信できるまで発表しなかったのだという。・・・(略)
『100年の難問はなぜ解けたのか - 天才数学者の光と影 -』 NHK出版 春日真人著 p.193

そして、2000年に問題を解決していたものの、万全を期して間違いがないことを確認し、2年後の2002年末に、ポアンカレ予想の解決を宣言する論文をインターネット上に発表したのである。

そして、発表と同時にマハダシャー月期に移行したのだと思われる。
彼は太陽期に最も創造的な仕事を成し遂げて、その太陽期が終わる頃までに仕事を終えて、その後、マハダシャー月期に移行したのである。

現在、彼は、 「・・・故郷で母親と共にわずかな貯金と母親の年金で細々と生活している・・・」ということから、母親と一緒に生活していて、母親の年金に頼って生活しているということがポイントである。この母親と生活して、誰とも付き合いをしないということ自体が、まさに土星と接合したマハダシャー月期の象意である。

射手座ラグナであるとすれば、月は8室の支配星で、物事の中断を表わし、その8室支配の月が4室に在住して、土星と接合していることから、4室の象意において拘束されるという象意である。8室は年金などの給付金を働かずして貰うことを表わしており、母親の年金に頼って生活しているということにそれが現れている。

この4室に在住する8室支配の月に土星が接合して、4室の象意を傷つけており、母親の元で、隠遁的に生活して、マスコミの取材に一切応じず、社会に参加しようとしないのはこのためである。4室はプライベートのハウスであり、母親や故郷を表わすハウスである。

マハダシャー月期の開始時期は最大でも2001年3月20日以前には設定できないため、彼がポアンカレ予想の解決を宣言した時期に、マハダシャー月期に移行したと考えるのが妥当である。

彼が学生時代までは笑顔の絶えない学生であったと記憶されているのは、おそらくその時期がマハダシャー金星期であったからである。金星はラグナから6、11室支配で5室に在住しており、それなりに娯楽を求めたり、社交性があった時期ではないかと思われる。

そして、次に太陽期となって、数学の本格的な研究に取り組んで業績を残し、そして、その業績を残した後で、月期に移行して、母親との隠遁生活に入ったというのが、人生の大きな流れではないかと思われるのである。

そうした観点から検討して、可能性としてあり得るのが、射手座ラグナの可能性ではないかと思われる。

『Planet and Education』(Naval Singh著 Guide and Editor K.N.Rao)によれば、数学者としての才能、および、専門教育は、太陽が表わすようである。太陽が5室と絡んで、強い水星や火星のサポートを得る時に、数学者としての才能を表わすようである。もし、強い水星や火星のサポートを受けないで、テクニカルプラネットの影響を太陽が受けていない場合は、太陽は政治学を表すのである。

※因みにこのNaval Singh氏はヴァラーティアヴィディアヴァヴァンの優秀な生徒であり、ラオ先生の惑星と教育の関係についての研究成果を引き継いで、この研究をさらに推し進めているようである。このNaval Singh氏が最近、出版した本が『Planet and Education』である。

従って、こうしたことから考えて、太陽は5室と絡んでいると考えるのが妥当である。

チャンドララグナで検討すると、4室に4、7室支配の水星が4室で自室に在住して、バドラヨーガを形成しており、そこにラグナロードで、10室支配の木星が在住して、1−4、1−7のラージャヨーガを形成している。

まず、バドラヨーガということでこの配置は強力であり、また月から木星が4室ケンドラに在住しており、ガージャケーサリーヨーガ(学者のヨーガ)を形成している。

この水星と木星が4室ケンドラで強い配置を持ち、アールドラーに在住しているが、アールドラーの支配星はラーフである。
ラーフは牡牛座で高揚し、太陽と、火星と接合して、土星からアスペクトされている。

ここで一つ興味深い事柄は、ペレルマンがポアンカレ予想を解決した手法は、多くの他の研究者たちが用いるトポロジーという手法ではなく、微分幾何学を用いて証明したのだという。

彼の証明には、「エネルギー」、「エントロピー」、「温度」などといった言葉が頻繁に登場し、物理学の延長線上にある熱力学の知識まで用いており、多くの数学者たちは、トポロジーこそが数学の王様であると信じてきたが、ペレルマンが微分幾何学といった物理学の手法で、証明するのを見て、衝撃を受けたそうである。

Naval Singh氏によれば、5室と太陽の絡みが、強い水星や強い火星のサポートを受けて、数学の能力を表わし、一方で、物理学の能力は、5室+太陽+水星+土星なのだという。

つまり、縦×横×高さというユークリッド幾何学の空間認識というものには土星が必要なのである。

おそらく、土星が立体的な空間認識を与えるのである。

ペレルマンは数学と物理学の天才であるが、数学を表わす太陽が9室を支配して、鋭い論理やロジックを表わす5室支配の火星と接合し、高揚するラーフと接合しているということは、その能力を説明するものとして納得できるのである。

火星は自室にアスペクトバックして強く、更に、太陽は土星からアスペクトされている。

太陽はテクニカルプラネット(ラーフ、火星、土星)の影響を受けて、数学や物理学の素養を与えたと思われるのである。

そして、その太陽をサポートするものとして、ラグナと月からみてケンドラで自室に在住して、マハープルシャヨーガを形成する強い水星のサポートがあったことは太陽が数学の素養を与えたもう一つの理由として考えられる。

その水星はラーフのナクシャトラに在住して、テクニカルプラネットの影響を受け、ラーフは牡牛座で高揚して、太陽、火星と接合して、強い水星と、太陽との絡みを生み出している。

ペレルマンの金星期⇒太陽期⇒月期というダシャーの流れと、人生の出来事の一致を確認し、さらにマハダシャー太陽期に創造的な業績を残したことを考えると、やはり、太陽は5室や9室などのトリコーナであり、ダルマハウスであり、最も創造的なこれらのハウスに絡んでいなければならないと考えられるのである。

この太陽期に偉大な真理を明らかにしたからには、太陽は5室や9室の支配星でなければならないと考えられる。
このような神から授かった才能によって、また神からのインスピレーションを受けて、神が創った自然界の真理を明らかにするというような偉大な行為は、5室や9室の働きなくして不可能である。

従って、その観点から、射手座ラグナであると考えるのが妥当である。

彼がお金や地位のためではなく、純粋に数学の真理への探究心から、ポアンカレ予想に取り組んでいたのは明らかである。

しかし、彼は受賞を辞退する理由として、 数学界のやや冷たい不公平なあり方についての批判的な気持ちを明らかにしている。

ペレルマンは彼に賞を与えようとする数学界の権威ある人々に対して、攻撃的で、批判的な態度が見られるが、おそらく、太陽が6室に在住し、6室に3つの凶星が集中しているためである。6室の凶星は敵を粉砕する配置である。

従って、自分の研究を理解しない、数学界の権威ある人々やマスコミの人々を軽蔑し、相手にしないという態度は、そうした配置がもたらしていると思われる。

数学界の権威ある人々もそうした彼の選択を尊重するしかないようである。

この6室の凶星群は12室にアスペクトして、12室を傷つけているため、これが損失や隠遁的態度につながっているようである。
もしこの凶星群が例えば5室に在住して、11室にアスペクトしていたら、その配置は、地位や評価や受賞や利益(賞金)をもたらし、 彼は有名になり、世界中から招待され、講演を依頼され、世界の有力者や重要人物と会見したり、社交したりしたことと思われる。

しかし、彼は全くそうした世間の評価を望んでおらず、お祭り騒ぎとして、軽蔑していたようである。

そして、結果として、彼は世間から隠遁(12室)し、全く誰とも関わりを持っていないのである。

しかし、そんなペレルマンでも、学生時代には数学オリンピックに出場して、金メダルを獲得しており、
その頃は、マハダシャー金星期である。

射手座ラグナとすれば、金星は11室の支配星で5室に在住しており、彼がこの頃はまだ快活で明るく、数学オリンピックで優勝して、金メダルを受賞したことを素直に喜ぶような青年だったようである。

しかし、太陽期には、ポアンカレ問題と格闘し、最終的にその解決をして、問題に勝利したものの、彼の性格には孤独で厳しい戦いを勝ち抜いたことによるゆがんだ、いびつな精神構造が残ってしまったようである。

それこそが、マハダシャーの太陽が6室に在住し、ラーフや火星や土星などの凶星から傷つけられている意味である。

因みにペレルマンが政治に詳しく、音楽好きだったこと、また車に乗ることを嫌い、いつも歩いていたというエピソードがあるが、それらもまたチャートと照らし合わせて納得できることである。

(略)ティアン博士はペレリマン博士より8歳年上で、専門は同じ微分幾何学だったが、興味のある研究対象はだいぶ違っていた。ふたりとも決して口数の多いタイプではないのだが、不思議に気が合ったという。 「ペレリマンと話すと豊富な知識に圧倒されました。例えば世界の歴史は何でも知っていましたし、あるときはロシアの流動的な政治状況について熱く語りました。そのうち、彼は音楽が大好きなことがわかってきました。しかし残念なことに、オペラやクラシック音楽を楽しむチャンスに恵まれたニューヨークに住んでいながら、一緒にコンサートに行ったことはありません。  びっくりしたのは彼が遠くまでパンを買いに行った話です。マンハッタンからブルックリン橋を渡って、ブライトンビーチのロシア人街にあるベーカリーへ行ったそうです。黒パンひとつのために40キロ近い距離を歩いたと楽しそうに話してくれました。パンへのこだわりはともかく、人並み外れて散歩が好きでした」 ペレルマン博士は車に乗ることを嫌い、いつもリュックサックを背負って歩いていた。 どうしても遠出しなければならないときは、ティアン博士が自分の車に乗せていったという。(略)
『100年の難問はなぜ解けたのか - 天才数学者の光と影 -』 NHK出版 春日真人著 p.166

射手座ラグナであるとすれば、5室に金星が在住し、音楽の趣味を表わしている。
5室は音楽のハウスであり、金星は音楽の表示体である。

また5室の支配星に太陽が接合している為、政治学に関しての造詣もあると考えることができるのである。

また車が嫌いで、いつも歩いているというのは、乗り物を表わす4室に8室支配の月が在住し、土星が接合して、傷つけているからである。4室は傷ついており、そして、8室は苦手なものを表わしている。

またペレルマンは1992年からソ連の崩壊がきっかけとなって渡米し、ニューヨークのクーランド数理科学研究所に赴任したのであるが、その時が金星/水星期である。そこで、中国出身のガン・ティアン博士と親しく交流したようである。

水星はラグナからみても月からみても7室の支配星であり、7室は外国を表わしている。
7室は10室から10室目のハウスであり、ペレルマンはニューヨークに勤め口を探して赴任したのである。

この水星はラグナから見ても月からみてもパンチャマハープルシャ・バドラヨーガを形成し、ラグナロードの木星と接合して強力な配置である。

この渡米によって、 当時、ニューヨークに在住していたグロモフ博士やチーガー博士、ハミルトン博士などの一流の数学者たちに接する機会が得られたという為、おそらく、この時期がアンタル水星期で間違いないのである。

結論として、ペレルマンのラグナは射手座でほぼ間違いないと考えられる。

彼はラグナと月から見て、バドラヨーガを形成する強い水星のサポートの下、9室支配の太陽が、5室支配で自室にアスペクトバックする強い火星と接合することによって、数学における究めて優れた才能の持ち主であったと思われる。

そして、その太陽に土星、あるいはラーフも接合することにより、物理学において、あるいは言及されてはいないがおそらく、工学の分野も含めた際立った才能を有していたのである。




(資料-ウィキペディアより引用抜粋)


グリゴリー・ペレルマン

元ステクロフ数学研究所数理物理学研究室所属。専門は幾何学・大域解析学・数理物理学。数学教師だった母親から幼少の頃から数学の英才教育を受け、サンクトペテルブルク大学で学びアレクサンドル・アレクサンドロフのもとでカンジダート(欧米では博士号に相当)を取得。

学生時代、当時の最年少記録である16歳で国際数学オリンピックの出場権を獲得し、全問満点の金メダルを授与された。この時、物理学にも興味を持っており、その才能は友人曰く「もし国際物理オリンピックに出場していれば(国際数学オリンピックを優先するよう仕組まれた為、国際物理オリンピックには出場しなかった)そちらでも満点(金メダル)を取っていたに違いありません」というほどのものだった。その後、ソ連崩壊を受けニューヨーク州立大学ストニーブルック校、カリフォルニア大学バークレー校で研究をした。ロシア帰国後はステクロフ数学研究所に所属していたが2005年12月に退職届を提出し、2006年1月以降は同研究所に現れていない。実家で母親の年金で生活している。

ポアンカレ予想の解決以前にも、ユーリ・ブラゴ、ミハイル・グロモフとともにアレクサンドロフ空間の幾何学を構築したことで、既に著名な業績を残していた。アレクサンドロフ空間の構造論を生み出し、リーマン多様体の安定性定理を与えた。この分野におけるグロモフの予想、cheeger-gromoll soul予想の解決もペレルマンの仕事である。


ペレルマンとポアンカレ予想

arXivで以下の3つのプレプリントを発表しポアンカレ予想を解決したと宣言した。

The entropy formula for the Ricci flow and its geometric applications、2002年11月11日

Ricci flow with surgery on three-manifolds、2003年3月10日

Finite extinction time for the solutions to the Ricci flow on certain three-manifolds、2003年7月17日

真に驚くべきなのはウィリアム・サーストンの幾何化予想(ポアンカレ予想を含む)を解決してその系としてポアンカレ予想を解決したことである。手法もリッチ・フロー(ハミルトン・ペレルマンのリッチ・フロー理論)と統計力学を用いた大変独創的なものである。ペレルマン論文に対する他の数学者達による検証は、国際的な数学者の助力の元2006年夏頃まで続いたが、結論として少なくともポアンカレ予想についてはペレルマンの証明は正しかったと考えられている。

2006年度、ポアンカレ予想解決の貢献により「数学界のノーベル賞」と言われているフィールズ賞(幾何学への貢献とリッチ・フローの解析的かつ幾何的構造への革命的な洞察力に対して)を受賞したが、「自分の証明が正しければ賞は必要ない」として受賞を辞退した。アメリカの雑誌の取材に対して「有名になると何も言えなくなってしまう」と答えている。フィールズ賞の辞退は彼が初めてである。また、これ以前にも昇進や欧州の若手数学者に贈られる賞などを辞退したりしている。その他100万ドルに全く興味を示さなかったり、自分の論文をあまり公表したがらない。

現在は、無職。故郷で母親と共にわずかな貯金と母親の年金で細々と生活しているらしく消息は不明だが、ひそかにケーラー・アインシュタイン計量の存在問題に取り組んでおり、数学者としての研究はいまだ放棄していないと言われ、趣味はキノコ狩りとされている。人付き合いを嫌い、ほとんど人前に姿を見せないなど変わった人物であるが、学生時代までは笑顔の耐えなかった少年として周囲から記憶されている。

2010年3月18日に、クレイ数学研究所は、ペレルマンがポアンカレ予想を解決したと認定して、ミレニアム賞(副賞として100万ドル)授賞を発表した。彼は2010年6月8日の授賞式に姿を見せなかったが、クレイ数学研究所の所長は「選択を尊重する」と声明を発表し、賞金と賞品は保管されるという[1]。同年7月1日にロシアのインテルファクス通信がペレルマンの話として伝えたところによると、受賞を断った理由は複数あるが、ハミルトンのリッチ・フローに対する評価が十分でないことなど、数学界の不公平さに異議があることをその主たるものとしてあげたという[2]。これをうけてクレイ数学研究所は、同年秋までに賞金の使途を数学界の利益になるかたちで決定すると述べた。

1966年 - ロシアに生まれる。その後サンクトペテルブルク第239高校卒。
1982年 - 国際数学オリンピックにおいて全問満点で金メダルを獲得。
1996年 - ヨーロッパ数学会賞受賞を辞退。
2003年 - サーストン幾何化予想、及びその系としてポアンカレ予想の解決を宣言。
2005年 - ステクロフ数学研究所を退職。
2006年 - フィールズ賞受賞を辞退。
2010年 - ミレニアム賞受賞を辞退。


(参考資料)

「ポアンカレ予想」は解決 露の“隠遁数学者”に注目集まる
2010年3月21日21時50分配信 産経新聞

 【モスクワ=佐藤貴生】国営ロシア通信によると、米クレイ数学研究所は、数学上の未解決問題だった「ポアンカレ予想」をロシア人数学者、グリゴリー・ペレリマン氏(43)が証明したと認定した。同研究所は2000年、ポアンカレ予想など7つの難題を「ミレニアム問題」として発表、各問題に100万ドル(約9千万円)の賞金をかけているが、同氏は賞に関心を示さぬ孤高の天才として知られ、「受賞を承諾するかは不明」(国営ロシアテレビ)という。

 ポアンカレ予想とは、仏の数学者、アンリ・ポアンカレ(1854〜1912)が1904年に提示した、位相幾何学(トポロジー)に関する予想。

 クレイ研究所のカールソン所長は、公式サイトで「ほぼ1世紀にわたり続いたポアンカレ予想の解法の探求は、ペレリマン氏の証明により終了した。数学史上、著しい進歩で、長く人々の記憶にとどまるだろう」と述べた。7つのミレニアム問題のうち証明が認定されたのは初めて。

 ペレリマン氏は2002年、ポアンカレ予想を証明したとする論文をインターネット上に公表、他の数学者が検証を続けてきた。同氏は06年、その証明に多大な貢献をしたとして「数学のノーベル賞」と呼ばれるフィールズ賞に選ばれたが、受賞を辞退していた。

 ペレリマン氏は1966年、旧ソ連レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれのユダヤ系ロシア人。大学卒業後、米国で研究生活をへて地元の研究所に職を得たが、05年に退職。以来、故郷で母親との“隠とん生活”に入り、人前に姿を見せなくなった。

 欧米では、氏に関する著書がしばしば刊行されるなど注目を集めている。

どんぐりの背比べ 2007.10.23 天才数学者

『ポアンカレ予想 - 世紀の謎を掛けた数学者、解き明かした数学者 -』 早川書房 ジョージ・G・スピーロ著

永瀬輝男・志摩亜希子 監修
鍛原多恵子・坂井星之・塩原通緒・松井信彦訳

p.247〜 12章 葉巻の手術より引用抜粋

(略)・・・ハミルトンは立ち往生していた。これまで20年間、研究は順調に進んできたのだが、ここに来てどんなに奮闘しても前に進めなくなっていた。葉巻型特異点が、どうにも動かせない障害だった。そのとき、グリゴーリー・ペレルマンという名のロシア人数学者がどこからともなく登場した。

 ペレルマンは人付き合いがきわめて苦手だ。1章で述べたように、彼は人前に出るのを嫌い、栄えあるフィールズ賞を辞退し、マスコミを避けている。彼は灰色にくすんだサンクトペテルブルク近郊の高層アパートに、母親と一緒に住んでいる。2005年12月には、ロシア科学アカデミーのステクロフ数学研究所も辞職してしまった。パリ近郊にある高等科学研究所(IHES)の数学者で、数年間ペレルマンと一緒に働いたことのあるミハイル・グロモフは、彼の行動に同情を示して電子メールのメッセージの中でこういっている。「彼は科学でも一般社会でも、倫理的な問題にとても敏感です。私の見るところでは、彼は数学界の道徳基準が低下していることに批判的です。しかし論争に巻き込まれるのがいやなので、仕事以外のつきあいを制限しているのです」。別の数学者は、「ペレルマンは魅力的な人物ですね。彼の清廉で孤高なところに敬服しています」と熱っぽく語っている。21世紀の数学の象徴のひとりに――否応なしに――なろうとしているこのミステリアスな男とは、いったいどんな人物だろうか?
「グリーシャ」――家族や友人からそう呼ばれていた――は、子どものころから大科学者になるよう運命づけられているかのようだった。彼はサンクトペテルブルク(当時はレニングラード)から移住してきたユダヤ人夫婦の、2人の子どものうちの長子で、父親は電気系技術者、母親は数学の教師をしていた。まだ幼いときから父親に論理クイズや数学パズルで鍛えられたグリーシャは、そうした問題を解くことに熟達するようになった。彼は、特に有能な子どもたちを対象に設立されて10年になる理工系専門校の市立第二三九中等学校に通った。16回目の誕生日のちょうど一ヵ月後、彼は初めて国際的な注目を集めることになった。ブダペストで開かれた国際数学オリンピックで六つの質問すべてに完璧に回答し、42点の最高点で金メダルを獲得したのだ。

 その年、彼は大学へ入学願書を提出した。当時ユダヤ人学生に対して厳しい入数制限が行なわれていたが、彼はサンクトペテルブルク州立大学で数学を勉強するための入学許可を、あっさりと取得した。博士号を取得したペレルマンは、ステクロフ研究所の幾何学・トポロジー部門で地位も賃金も低い研究職についた。やがて彼は上司の幾何学者ユーリー・ブラゴと衝突し、偏微分方程式部門に異動させられた。ブラゴは口論になった理由については口を閉ざしたが、電話によるインタビューにこう答えている。「われわれがうまくいかなかった原因は、ペレルマンの気難しい性格にありました。おわかりでしょうが、優れた個性の持ち主にはよくあることでしてね」。しかし、研究所でのこのいさかいには少なくともひとつの有益な結果があった。ペレルマンが幾何学と微分方程式の両方の部署で得た経験が、あとで大いに役立ったのだ。

 グリーシャの妹エレーナは、兄と同じサンクトペテルブルクの学校に通い、同じように数学者になった。彼女は、離婚してイスラエルに移住した父を追ってイスラエルに渡った。そしてワイツマン科学研究所で博士号を取得した。彼女は結婚とともにスウェーデンに移り、ストックホルムのカロリンスカ研究所で生物統計学者として働いている。  ステクロフに2年間勤めたあとペレルマンは海を渡った――大半の科学者や数学者と同様、彼の行先もアメリカだった。彼は1992年の秋にニューヨークのクーラント研究所に勤め口を得ると、1993年の春はニューヨーク州立大学ストーニーブルック校で迎えた。彼と同僚の中国人教授、田剛(ティエン・ガン)はしばしばプリンストンまでドライブして、高等研究所のセミナーに出席していた。そんなあるときリチャード・ハミルトンが招かれて、リッチ・フローに関する講演を行なった。ペレルマンは、テーマに直接の関心はなかったがハミルトンの論文は読んでいたので、講演の終了後、ある疑問点を解明してもらおうとハミルトンのところへ行った。ハミルトンは親切で気前がよく、まだ公表していない結果まで話してくれた。

 1993年秋、ペレルマンはカリフォルニア大学バークレー校で2年間のミラー奨学金を受けることになった。彼は幾何学ではめざましい業績をあげていたので、すでに多くの同僚たちは彼の才能を認めていた。特に、20年間も未解決のままだった問題を驚くほど短くエレガントな証明で解いてしまったことで、仲間うちでは彼は次代のきらびやかな担い手と目されていた。じつをいえば、彼は発表できるような形で結果を書き留めようとしないことが多かったため、彼が手にした珠玉の成果は、懸命に探さなければ見つけられなかった。証明など些細なことであり発表する必要などないと感じていたのか、あるいは単に同僚に告げるだけで済んだと思っていたのかもしれない。彼は終身在職権も昇進も求めていなかったし、栄誉のためだけにさらに別の論文を発表することは、彼の信念に反していた。今日の大学に広がっている「論文を出さずば去れ」という空気の中で、ペレルマンはさわやかな例外だった。

 バークレーでは、ペレルマンはある意味では仲間たちに完全にとけ込んでいたと言えるが、明らかに浮いているところもあった。彼は髪を長くのばしていて、それは特に変ではないが、爪まで切らないままにしているのは異常だった。この性癖は、髪や爪が切られることは自然が意図したことではないという、彼の信念ゆえのものである。特にその自動車嫌いは、カリフォルニアの住人にはまったく似つかわしくないものだった。ある日バークレーのスーパーマーケットで、彼は少し前に知り合ったばかりのイスラエル人の同僚、ジリル・セラに出会った。カリフォルニアに移ってきたばかりのセラは、ペレルマンに通路のわきに連れて行かれて、彼のしつこい講義を30分間も聞かされるはめになった。講義のテーマは、車は不必要で、なしで済ますべきものだから、セラはどんなことがあっても車を買うべきではない、というものだった。

 このイスラエル人数学者はペレルマンに、取り憑かれたかのように一つ事に――それは数学とは限らない――入れあげる、話のしやすい同僚という印象を抱いた。セラによれば、彼は多くのものに興味を持っていて、決して無口でも反社会的でもなかった。そして政治の進展、特に父親の住むイスラエルの政治についての情報をいつも聞きたがった。ペレルマンの車嫌いは筋金入りで、彼はいつでもどこへでもバックパックに本を入れて徒歩で行くことにしていた。生活は質素で、いつも同じ服を着て、ある大きな理由のためにできるかぎり出費をおさえていた。研究奨励金の一部は、サンクトペテルブルクに住む母親と妹を援助するために家に送っていた。節約できるものはすべて節約して、将来のためにたくわえていたのだ。

 彼はそのつましさのために危険な状況に陥ったこともあった。ある夜ドイツ人の同僚とキャンパスを歩いていると、暗闇から強盗が現れ、銃をつきつけて現金を要求した。同僚はすばやく財布を渡したが、渡す気のないペレルマンは財布がなかなか見つからないふりをした。ぐずぐずできない強盗は、ペレルマンが貯めこんだ金には手をつけないまま、結局逃走した。

 1994年にチューリッヒで催された国際数学者会議でペレルマンは講演し、専門家たちから大いに注目を浴びた。彼には金がなく、ステクロフ研究所も旅費を出さなかったため、スイスの航空会社スイスエアが無料航空券を提供した。2年後、ヨーロッパ数学会は彼に賞を授与した・・・というか、授与しようとして果たせなかった。4年ごとに、将来を約束された10名の若い数学者が学会から栄誉を与えられる。ステクロフ研究所での高名な年上の同僚であるアナトーリー・ヴェルシクは受賞者選考委員会にペレルマンを提案し、委員たちもペレルマンが確かにふさわしい人物であることを認めた。しかし、もしヴェルシクが若いペレルマンのために動いてやったと考えていたなら、それはまちがいだった。ペレルマンは受賞を辞退したのだ。

 ヴェルシクは、ペレルマンがどのように辞退を弁明したのかを詳しく述べている。彼への授賞の対象となった仕事はまだ未完成であり、したがってふさわしくないと彼は主張したのだ。ヴェルシクはそんなことはないと言って彼をなだめようとした。するとペレルマンは、授賞にふさわしいと決めた審査委員会のメンバーはだれかとたずねた。ヴェルシクが名前を伝えると、ペレルマンはその人たちは彼の仕事を理解していないし、賞は単なるお祭り騒ぎにすぎないと言い張るのだった。これ以上彼に考えを変えさせようとしても成果がないことがわかった。ヨーロッパ数学会のウェブサイトでは、いまだにペレルマンの名が受賞者のひとりとして名簿に載っているが、実は賞は授与されていない。
 バークレーにいるあいだに、ペレルマンはポアンカレ予想に興味を持ちはじめた。ハミルトンはリッチ・フローについて講演するために何度か西海岸を訪れていた。講演のなかで、彼はこの微分方程式によるアプローチがポアンカレ予想の証明を導き得ると確信していると強調した。実際に立ちはだかるのは葉巻型特異点だけである。しかしそれは手ごわい障害物だった。ある講演のあとで、今度はペレルマンが、自分の成果のいくつかをハミルトンに伝えた。まだ未発表のものばかりだったが、彼はそれらの成果が葉巻型特異点に対して使えそうだと考えていた。のちにペレルマンが、彼が面会に応じた数少ないジャーナリストのひとりに打ち明けたところでは、そのとき自分が説明しようとしたことをハミルトンが理解していないのがはっきり感じられたという。

 低次元トポロジーはペレルマンが専攻する分野ではなかったが、いまや微分方程式との関連がわかってきたため、彼はこの分野にも興味をもちはじめた。彼は自分の能力の高さをよく自覚していたので、それに見合った問題を探した。20世紀を通じて多くの第一級の数学者を挫折させてきた90年来の難問こそ、まさに彼が探し求めてきた挑戦だった。だれにも自分の秘密に踏み込ませることなく、彼はこれまでのポアンカレ予想証明の試みについて周囲にたずねはじめた。その主題にとつぜん関心を持ちはじめた理由はだれにも伝えなかったし、彼の主要な関心がトポロジーにはなかったこともあって、彼の意図に気づいたものはいなかったようだ。

 奨学金期間の終わりが近づくと、ペレルマンはアメリカの友人や同僚たちに別れを告げた。スタンフォードやプリンストンのような第一級の大学からポストを提供したいとのオファーを受けていたが、すべて辞退した。そして自国へ戻った。ステクロフ研究所に戻ると、彼は行方をくらましたも同然になってしまった。ほぼ完全にひとりで、彼は熱心にポアンカレ予想に取り組みはじめた。安月給はアメリカで貯めた金で補った。六年間、彼は秘密をだれにも伝えず、ひとりで働いた。ときおり情報が必要になると、特定の質問を書いた電子メールを同僚に送った。そのころペレルマンと多少でも接触を持ったことのある人はだれもが、彼の質問には深さがあり、彼は才気にあふれていたと認めている。彼は、友達のダーチャ[訳注:郊外にある菜園付き別荘、ただし手作りの木造小屋]で冬の数ヵ月をまったくひとりで過ごしたこともあった。友達が来るのは、たまに食料と暖房用の燃料を運んでくるときだけだ。ペレルマンには何の義務もなかったし、教鞭を執る必要もなかった――ステクロフ研究所は研究機関である――ので、ひどく寒い小屋でのプライバシーは願ってもないものだった。

 この研究に足を踏み入れてほぼ8年後、ペレルマンは時期が到来したことを感じた。専門家の審査を受けるどころか、読ませても調べさせてもいなかったが、ペレルマンは問題を解いたと確信していた。彼はポアンカレ予想と、さらに野心的な幾何化予想をも解いてしまうことになる、連続した三篇の論文を書きあげるために机に向かった。