占星コラム


2008/11/2 占星学と聖書-キリスト教はエジプト宗教を模倣した?


以前、Zeitgeist(時代の精神)というストリーミングの作品を発見したのだが、 非常によく出来ている作品なので是非、見ていただきたいのである。



内容は、キリスト教の原典である聖書の物語が天文学的、占星学的な事実を擬人化して表わしたものだというのである。

例えば、聖書でイエスが誕生した時に東方に輝く星が出現し、それをみてイエスの誕生を知った3人の博士が救世主を拝みにやってきたという描写についても、天文学的な現象を指しているという。

東方に輝く星とはおおいぬ座の恒星シリウスで、そして三博士というのはオリオン座の三つの星で、 これが12月24日に直線状に並び、そして、そこにイエスの誕生を象徴する太陽の日の出が訪れて、それでオリオン座の三つ星と会合するのである。
こうしたシリウス、オリオン座の三つ星、日の出の一致する天文学的タイミングの事実が、イエス誕生時の東方の3博士の訪問のエピソードを表しているという。



確かに占星学というものは、そうした観測者の主観的な天文現象を象徴としてとらえ、そこに対応する地球上の出来事を考察する学問であるから、 このような見方が出来るのであれば、聖書とは占星学で出来ている書物であると言える。

そして、このストリーミングの作者はイエスは太陽で、弟子はその太陽を取り囲む惑星が表わしていると主張している。

また聖書に頻繁に出てくる12という数字が、黄道12宮を表わしていたり、山羊とか、金牛とか、魚とか聖書に度々登場するシンボルは、星座を表わしているという。

そして春分点歳差によって、”時代(AGE)”が転換していくことについて述べているが、牡牛座の時代から牡羊座の時代、そして魚座の時代、そして、水瓶座の時代へと移っていく時代転換について、その話の展開は映像を使って説得力ある内容となっている。

さらに驚くべきことに聖書のイエス・キリストの物語は、古代エジプトの宗教に酷似しており、さらに紀元前1200年の古代ギリシャのアティスや、紀元前900年頃のヒンドゥー教のクリシュナ、紀元前500年のギリシャのダイナイシース、紀元前1200年のペルシャのミスラなど、その他多くの宗教においても救世主誕生の全く似たようなストーリーを持っていることを明らかにしている。

そして、最終的にこのストリーミングの作者は、新約聖書に綴られているイエスキリストの物語がエジプト宗教を模倣したものであり、 聖書の物語は、神話と同じで、イエスキリストは実在しない人物だと結論づけている。

さらに、キリスト教は、ローマ時代の政治的な理由によって西暦325年ローマ帝国のコンスタンティヌス帝が開いたニケーア公会議で、 ”キリスト教理”は創作されたのだと主張している。

非常に知的に刺激されるよく出来た内容であり、事実を積み上げて、その論理展開は説得力があり、聖書の象徴が占星学的なものだという 主張については、全くその通りだと納得できる内容なのである。

ただし、この最後にイエスキリストが実在しない人物で聖書のストーリーが神話に過ぎないとする主張については、賛成しかねるのである。

この作者が、聖書がエジプト宗教に酷似していることを理由として、それで聖書がエジプト宗教からの盗作であると主張しているのであるが、 しかし、それでは、先にあげたように古今東西の宗教において、例えば、ヒンドゥー教のクリシュナや、ギリシャやペルシャの宗教も何故、 聖書のストーリーと似ているのかということを説明できず、このデータを収集した作者自身が自らのデータによって、論理矛盾を引き起こしているのである。これ以外にも多くの宗教において、全く似たようなストーリーが見られるのである。

この作者の説のようにキリスト教が盗作ならば、ヒンドゥー教のクリシュナも、ギリシャやペルシャ、その他の多くの類似したストーリーを持つ宗教が、全て、エジプト宗教を模倣したり、あるいはもっと、以前からのオリジナルなものからの模倣であるということになるのである。

それともう一つ、指摘すべきところとして、この作者は非常に各宗教の神話を細かく文献学的に調べ上げてはいるのであるが、そもそも占星術に関する根本の理解のところが間違っているのである。

それは、この作者は天文学的、占星学的現象を基にして、それから神話が作り上げられており、それが聖書などに反映されていると主張しているのである。つまり、天文学的、占星学的現象を擬人化して神話を作り上げており、その神話はあくまでも神話であって現実の実在する出来事ではないのである。あくまでも神話であり、現実とは何の関係もないのである。
然し、実際は、天文学的、占星学的現象は、地球上の人間社会に実際の現実的な出来事を引き起こしているのである。
そして実際の現実の出来事とは、各々、神話をレベルに応じて表わしているのである。

おそらく神話とは、各々の現実的な出来事の最高レベルの現実の出来事であるとも言えるし、また個々の具体的な出来事の普遍化、抽象化とも言えるのである。

だから、現実の出来事が神話と区別が付かないことも度々出てくるのである。

例えば、以前、アレキサンダー大王のチャートを調べたことがあるが、彼の典型的な牡羊座の人生は、もはや神話的でさえあるのであり、 おそらく、現在に生きる私たちもアレキサンダーの人生のいずれかの薄められた象意は体験しているものと思われる。

だから、占星術をよく学習し、実践している人にとっては、例えば、アシュビニー、バラニー、クリティッカー・・・など、ある実際の恒星を基にしたナクシャトラという理論において、あるナクシャトラに在住するラグナ、月、太陽などが、全くそのナクシャトラの支配星の象意や神話をよく表わすことを知っている。実際に現実の地球上の出来事として、そのナクシャトラが持つ象意のストーリーを体験することをよく知っている。

だから、おおいぬ座のシリウスと、オリオン座の三つ星が一直線に並んだ時に、太陽が昇ってくるというその時に誕生するということは、救世主の典型的な占星学的な配置なのだろうと思うのである。

だからこそ、救世主というのは似たようなストーリーを持つのである。

だから、古今東西の宗教において、救世主のストーリーが似てくるのもよく理解できるのであり、それは決して、神話を模倣したのではなく、 実際に、天文学的、占星学的な条件において、そのような現実的な救世主の誕生する出来事が起こっているのである。

だから、エジプト宗教と、キリスト教が酷似しているというのも、実際に後世において、政治的理由で、部分的に模倣したところがある可能性もあるが、それぞれ、実際に似たような天文学的、占星学的条件において、起こった出来事なのだろうと思うのである。

決して、一から十まで全て模倣したということはあり得ないはずである。

そうしたら、古今東西の宗教で何故、類似のストーリーが出てくるのか、全て一つのテキストから模倣されたというのは無理があるのである。

そういう意味で、この作者は自分が調べ上げたデータによって、自ら論理矛盾を引き起こしているのである。

そして、おそらくこの作者は占星術をよく知らず、実占経験もないため、本当に天空に配置される星座や惑星が、現実の物事を作り出しているということが、よく分かっていないのである。それは神話に利用されるだけではなく、地球上の現実を作り出しているのである。

むしろ、神話というのは現実の最高表現なのである。それは偉大な生命体である星々が相互関係の中で演じている実際の出来事であり、我々は、それを地球上で、その星々から分配されるエッセンスを部分的に表現しているだけである。

この作者は、占星術師ではなく、文献学者なのであり、比較文化学者なのである。そのような知識と経験のベースの上で、占星術を後から、理論的に学んだだけではないかと思われる。

カール・グスタフ・ユングも、古今東西の神話や、人間が見る夢が、同一のストーリーを持っていることを発見して、そのストーリーを元型と呼んでいる。ユングは占星術師ではなかったが、ユングでさえも、神話というのが、決して各文化間で模倣されたものではなく、それぞれの文化圏で独立して作られたものであったとしても集合的無意識の中で、共通の要素を持つということを主張し、決して、この作者のように聖書の物語が、エジプト宗教を模倣したものだとは主張しないはずである。しかし、そのユングも占星術師ではなかったため、比較文化的に神話についてはよく知っていたとしても、惑星や星座の象意などが、実際の現実の出来事を引き起こすという認識に欠けていたのではないかと思われるのである。

従って、私は、このZeitgeist(時代の精神)part1が、とても調べたよく出来た教材だとは思ったが、最後の結論のところが気に入らないのである。
しかし、そうしたことを分かった上で活用するのであれば、占星術的な思考方法や、春分点歳差の理論について学習するための、とても優れた教材ではないかと思うのである。

この作者は結果的に、エジプト宗教と、キリスト教が酷似している、あるいはあらゆる宗教が似たような救世主のストーリーを持つということを、例示することによって、むしろ、占星術がいかに出来事を当てることのできる技術であるか、あるいは、あらゆる地球上の出来事は、天文学的、占星学的条件で起こっているという、占星術上の重要な観点について、自分でも気がつかないうちに論証してくれたのである。

彼の場合は、その例示を用いて全く違う結論を導いたのかもしれないが、占星術師が彼の研究をただデータとしてだけ活用するとすると、非常に知的に啓発され、占星術に対する理解が深まるのである。

この作者がもう一つ主張する、西暦325年のニケーア公会議で”キリスト教理”は創作されたのだという説であるが、 確かにニケーア公会議において、例えば原始キリスト教には存在した輪廻転生やカルマの法則など、重要ないくつかの真理を示す教えが削除されたということは精神世界関係の書物をよく読む人であれば知っていることと思われる。

(※文献を示すことが出来ませんが、そのようなことはよく言われています)

そして、その場合、キリスト教の教理を修正、あるいは訂正、確定したとしても、全く一から十まで、キリスト教の教理を創作したというのはあり得ないはずである。
例えば、死海文書といわれる文献があり、トマスの福音書などは聖書のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネとは全く異なったキリスト像を提示していると聞いている。

従って、それらのことから、実際はイエスキリストは全く異なった人間として実在していたのであるが、後世においてキリスト教の教理が実際は、エジプト宗教から細部の部分について模倣した可能性があることは否定できないのである。

やはり、それでも、一から十までエジプト宗教を模倣したとは考えられないのであって、古今東西の様々な宗教の中に同じようなストーリーが見られる以上、同じような天文学的、占星学的な条件によって、同じような現実の出来事が生じたとしか思えないのである。

因みに、アリスベイリー著の「ベツレヘムからカルバリーへ」(AABライブラリー翻訳)という書籍があるが、アリスベイリーについては以前から何度か紹介しているように、霊的ハイアラキーの覚者方の一人からコンタクトを受けて、膨大な秘教文献を執筆した人物である。

そして、その彼女が本書の中で、イエスの生涯が、5つのイニシェーション(注)を実演したものであることを解説しているのであるが、聖書の物語について、結論は異なるが、このZeitgeist(時代の精神)の作者と同じような観点を提供している。この「ベツレヘムからカルバリーへ」の該当箇所について、以下に引用抜粋する。

注:人類の進化を促進するために導入されたと言われる、1〜5段階の意識の拡大を経験していく過程

「ベツレヘムからカルバリーへ」アリスベイリー著 AABライブラリー翻訳H発行 P33−P35 より引用抜粋
 

第一章 イニシェーションに関する序説  【P33−P35】

(略)・・・しかし、キリストは、一人ひとりの人間にもたらした教訓とメッセージを諸国家にももたらし、将来の世界統一と世界平和という希望を諸国家に提示した。彼は、私たちが「パイシス時代」と呼ぶ天文学上の時代が始まるときにやってきた。そう呼ばれるのは、この約二千年間、太陽がパイシスつまり魚座と呼ばれる黄道帯の宮を通過しつつあるためである。そのため、新約聖書を含むキリスト教の文献では、魚についてしばしば言及され、魚がシンボルとして使われているのである。このパイシス時代は、以前のユダヤの時代(太陽がアリエスつまり牡羊座を通過した二千年間)と太陽が今移っていこうとしているアクエリアス時代の間に位置する。これは天文学的な事実である。なぜなら、私はここで占星学的な結論について述べているのではないからである。太陽がアリエスにあった時期には、旧約聖書の教えに羊や贖罪の山羊が頻繁に現われ、過ぎ越しの祭が行われていた。キリスト教の時代には、魚がシンボルとして使われ、聖金曜日[キリストの受難記念日]には魚が食べられることさえある。アクエリアスのシンボルは、古代の黄道帯の絵すべてに見られるように、水瓶を担ぐ人である。その時代のメッセージは統一、霊的な交わり、兄弟としての私たちの関係である。というのは、私たちはすべて、一人の父の子供だからである。キリストは、都に入りなさいと告げたときに、弟子たちへの教えの中でこの時代のことについて指摘し、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行きなさい」(ルカによる福音書・第22章10節)と述べた。彼らはそのようにし、後にその家で聖なる交わりの偉大な祝宴が催された。この言葉は間違いなく「水の運搬人」と呼ばれる黄道帯の宮に入る未来の時代について述べたものであり、そこで私たちもすべて、同じテーブルにつき、お互いと霊的に交わることになるであろう。キリスト教の摂理は二つの大きな世界周期の中間に訪れた。そして、ちょうどキリストが自身の内に過去のメッセージを集約し、現在のための教えを与えたように、キリストはまた、私たちが必然的に向かうことになる目標である統一と理解の未来についても指摘した。私たちは今日、時代の終わりにあり、キリストが予言したように、アクエリアスの統一の時代を迎えようとしている。「二階の広間」は、私たちが一つの人類として速やかに向かいつつある高い到達点の象徴である。いつの日か大聖餐式が催されるであろう。現在行われているあらゆる聖餐式はその先触れでしかない。私たちはゆっくりとこの新しい宮へと入りつつある。二千年以上にわたって、その力とフォースは人類に働きかけ、新たな様式を確立し、新たな意識拡大を促進し、同胞愛についての実際的な認識へと人間を導いていくであろう。  太陽がアリエスつまり牡羊座にあったときに私たちの惑星に働きかけていたエネルギーが、宗教的なシンボルとして、山羊や羊を強く打ち出したのはどういうわけか、また、現在のパイシスつまり魚座の時代においてその影響力がどのようにして私たちのキリスト教のシンボルを色づけし、その結果として、魚が私たちの新約聖書や私たちの終末論的な象徴において重要視されるようになったかに注目するとよいであろう。流入しつつある新しい光線、エネルギー、影響力は確かに、物質的な現象の領域だけではなく、霊的な価値の世界においても同様の結果を生み出すよう運命づけられているはずである。人間の脳の原子はかつてないほど「目覚め」つつあり、今は不活発な休眠状態にあると言われている膨大な脳細胞が活発に機能するようになり、来たるべき霊的な啓示を認識する直観的な洞察力を生み出すようになるであろう。・・・・(略)


第二章 第一イニシェーション ――― ベツレヘムでの誕生  【P82−P110】

(略)・・・キリスト教の信仰は、ドグマと教義、観念的な神学者による歪曲と少数の非理知的な教会人による押しつけがあったにもかかわらず、神と人間を一つにし、キリストの中で融合させ、各々の人間もまた実験を試み体験に耐えるだけの信を持つことができるという真理を提示した。極めて重要で劇的な、そして神秘的に描写されてはいるが生き生きとしたこの真理は、マインドによって把握され、ハートによって理解されたとき、キリスト教の秘儀を目指す各々の熱誠家が光への新たな誕生の門をくぐり、その後、その光の中をさらに歩いていくことを可能にする。なぜなら、「神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる」(箴言・第4章18節)からである。この真理は今なお生きた真理であり、私たちすべての信を豊かにし、彩りを与えてくれるものである。

 このようなことが連続して行われる中で(それは神の愛への私たちの信の基礎になるものであるが)、これまでにも見てきたように、中心から多くの言葉が発せられた。多くの神の子らが時代時代を通して、「可能性の高み」についてのヴィジョンを次々と人類に啓示し、神の大計画をそれぞれの時代と気質に合った言葉で人類に説明してきた。彼らの生涯の物語が一致していること、処女の聖母が何度も登場していること(その名前はマリヤという名前の変化したものであることが多い)、誕生の物語が細部において類似していること、これらはすべて、一つの真理が絶えず繰り返し演じられてきたことを示している。その結果として、その特質が劇的なものであり、その出来事が繰り返されることによって、神は人間の救済に不可欠ないくつかの偉大な真理を人間のハートに印象づけているのである。そういった真理の一つは、神の愛は永遠であり、自らの民への神の愛は揺らぐことも変わることもなかったということである。時が熟し、民の困窮が今がまさにその時であると告げたときにはいつでも、神は人々の魂を救済するためにやってくる。古代インドにおいて、クリシュナはこの真理を荘厳な言葉で宣言した。

 至るところで法がすたれ、・・・・無法がはびこるとき、そのときはいつでも私は姿を現わす。
 正しき者を救済し、悪しきことを行う者を破滅させるために、そして、法を揺らぐことなく確立するために、私は時代ごとに生まれてくる。  神としての私の誕生と働きをありのままに認める者、・・・・その者は私へと至る。アルジュナよ。
(バガヴァッド・ギータ、第4章7、8節)

 繰り返しこのような教師がやってきた。そして、人類の発達に応じて、神の性質を明らかにし、諸国民の文化と文明を決定づける言葉を語り、芽を出し実を結ぶよう種子を蒔いて去っていった。時が熟してキリストがやってきた。もし進化に何らかの意味があるならば、そして全体としての人類が意識を発達させ開花させてきたならば、彼が与えたメッセージと彼が送った人生は必然的に、過去の最良のものを要約しているにちがいなく、それを完成し成就させ、過去がもたらしたすべてのものを遥かに超える将来の霊的な文化の可能性を宣言しているにちがいない。これら偉大な神の子らのほとんどは、不思議なことに、洞窟で、しかも通例として処女の母親から生まれている。

 処女懐胎については、初期のキリスト教文献である使徒たちの手紙では言及されていないということは重要である。逆に、聖パウロはイエスについて「肉によればダビデの子孫から生まれ」(ローマの信徒への手紙・第1章3節)と語っている。つまり、ダビデの子孫であるヨセフの子であると述べている。紀元七十年から百年の間に書かれた最も初期の福音書である『マルコによる福音書』でもそれについては触れられていない。紀元百年以降に書かれた『ヨハネによる福音書』も同様である。また、紀元六九年から九三年の間に書かれた『ヨハネの黙示録』もこのことには言及していない。しかし、処女懐胎が当時、信仰の重要な信条であったならば、それは疑いなくその作品の神秘的な象徴として出てきたのであろう。(The Paganism in Our Christianity, by Arthur Weigall, p.42)



イシス神は、三日月の上に立ち、頭には十二個の星が取り巻いているように描かれることが多かった。ヨーロッパ大陸のほとんどのローマ・カトリック教会にある「天の女王」マリアの絵や像には、三日月の上に立つ彼女の頭を十二個の星が取り巻いているのが見られる。

 古代の聖母と女神の非常に多くが同名であることは偶然とは思えない。バッカスの母はミュラ(Myrrha)であり、マーキュリーやヘルメスの母はミュラやマイア(Maia)であった。シャムの救世主―ソモナ・カドム―の母はマーヤ・マリア(Maya Maria)つまり「偉大なるマリア」と呼ばれた。アドニスの母はミュラ(Myrrha)であり、仏陀の母はマーヤ(Maya)であった。ミュラであれ、マイア、マリアであれ、これらすべての名前は、キリスト教の救世主の母の名前であるマリア(Mary)と同じである。五月(Mary)はこれらの女神に捧げられてきたが、現在でも五月は聖母マリアに捧げられている。彼女もまた、マリア(Mary)と呼ばれていたのはもちろんであるが、ミュラ(Myrrha)ともマリア(Maria)とも呼ばれていた。(Bible Myths, by T.W. Doane, p.332)
 

 秘教の象徴的な用語において、洞窟はイニシェーションの場所と見なされている。これはいつもそうであった。洞窟で起こったイニシェーションのプロセスと新たな誕生について古代の文献で言及されている箇所を集めて分析するならば、それらに関する非常に興味深い研究になるであろう。イエスが生まれた馬屋はほとんど洞窟に近いものであった。なぜなら、当時の馬屋の多くは、地面を掘って造られたからである。これは初期の教会では認められており、「福音書ではイエスは宿屋の馬屋で生まれたと述べられているが、殉教者ユスティヌスやオリゲネスなどの初期のキリスト教著作家たちがイエスは洞窟で生まれたと述べていることはよく知られている」(Pagan Christ, by J.M.Robertson, p.338)ということである。

 福音書の物語に記されているこの五つのイニシェーションについて研究することで、そのうちの二つが洞窟で、二つが山頂で、一つが深い谷と高地の中間で起こったことが分かる。最初と最後のイニシェーション(生命への誕生と「豊かに受ける命」[ヨハネによる福音書・第10章10節]への復活)は洞窟で起こった。変容と磔刑は山頂や丘の上で行われた。そして、第二イニシェーションは―その後、キリストは公衆の面前で聖職者としての仕事に着手することになるが―ヨルダン辺りの平野にある川で行われた。それはおそらく、人々の直中で生活し働くという彼の使命を象徴するものであろう。[同じレベルで会う]というフリーメイソンの言葉がここでもう一つの意味を帯びてくる。山頂での体験を経験するたびに、その後キリストは日常生活のレベルに下り、その高いレベルでの出来事がもたらした効果つまり結果を実際に示した。

 ミトラも洞窟で生まれ、また別の多くの聖者たちもそうであった。キリストも洞窟で生まれ、他の聖者たちと同じように、奉仕と犠牲の生活を送り、世界救世主の仕事を行う資格を得た。彼らは光と啓示を人類にもたらし、多くの場合、彼らのメッセージを理解しなかった人々や彼らのやり方に反対した人々の憎しみの犠牲になった。彼らはすべて、「地獄に降り、三日後に復活した」。何世紀にもわかる人類の歴史にはこのような物語が二十も三十も散りばめられている。そして、それらの物語と使命は常に同じである。

 イエスの物語には、これから見ていくと分かると思うが、それ以前の太陽神たちの物語や天空を巡る太陽の実際の運行と一致するところが非常に多くある。実際あまりにも多いため、単なる偶然とは言えず、悪魔の冒涜的な策略のせいにさえできない。そのいくつかを列挙する―(1)処女の母親からの誕生。(2)馬屋(洞窟または地下室)での誕生。(3)十二月二十五日(冬至の直後)の誕生。(4)東方の星(シリウス)。(5)東方の三博士(三人の王)の訪問。(6)子供の大虐殺と遠い地への逃走(クリシュナや他の太陽神たちもそうであったと言われている)。(7)光の増大を象徴する蝋燭の行列が行われる聖燭節の祭(二月二日)。(8)受難節つまり春の到来を祝う祭。(9)太陽の赤道横断を祝う復活祭(通常は三月二十五日)。(10)エルサレムの聖なる墓での光の一斉噴出。(11)復活祭三日前の聖金曜日に行われる神の子羊の磔刑と死。(12)木への釘打ち。(13)空の墓。(14)喜ばしい復活(オシリスやアティスなどの場合もそうであった)。(15)十二人の弟子(黄道帯の宮の数)。(16)十二人のうちの一人の裏切り。(17)クリスマスに対応して、六月二十四日に愛弟子ヨハネの誕生に捧げる真夏の祭日。さらに、神の乙女座の通過と一致する(18)聖母被昇天の祝日(八月十五日)と(19)聖母誕生祭(九月八日)。(20)キリストと弟子たちによる秋の星座―蛇使い座と蠍座―との戦い。そして最後に、(21)復活の真実を疑った聖トマスに教会が冬至その日を捧げるという奇妙な事実がある(その日は、誰でも太陽が再び生まれることを疑っても極めて当然なこととして許される)。(Paganand Christian Creeds, by Edward Carpenter, p.50)

 比較宗教の研究者であれば誰でもこれらの信憑性を検証することができ、最後には神の愛の忍耐強さとこれらすべての神の子らが示した自己犠牲への意志に驚かされるであろう。したがって、次のことを覚えておくことは賢明であり時宜を得ている。

 これらの出来事は様々な太陽神の生涯で繰り返し演じられており、古代の遺物にはこれらが多く描かれている。ベツレヘムのマリアと同様に、エジプトのイシスも汚れのない女性、海の星、天の女王、神の母であった。絵画では彼女は三日月の上に立ち、星々の冠を戴いており、息子のホルスを抱き、彼を膝の上に座らせる彼女の台座の後ろには十字架が描かれている。黄道帯の乙女座は、古代においては子供に授乳する女性として描かれている―神聖な赤子を抱く将来のすべての聖母のモデル。これがこの象徴の起源である。デヴァキも腕に神聖なクリシュナを抱いているように描かれ、バビロンのミリタつまりイシュタルもまた星々の回転する王冠を被り、膝に子供のタムズを乗せている。マーキュリーとアスクレピオス、バッカスとヘラクレス、ペルセウスとディオスクロイ、ミトラとゾロアスターもすべて、神聖かつ人間的な生まれ方をした。(Esoteric Christianity, by Annie Besant, p.158)

 パリのノートルダム大聖堂が古代のイシス寺院跡に建てられていること、そして初期の教会がキリスト教の儀式や神聖な記念日を決定する際にいわゆる異教の吉日を非常に頻繁に利用したことを思い出すべきである。十二月二十五日のクリスマスの日でさえ、そのようにして決定された。先に引用した著者は次のように書いている。

イエスの誕生日を十二月二十五日に決定したことに関して、ウィリアムソンは次のように述べている。「十二月二十五日が現在ではイエスの誕生日として認められた祝日であることはすべてのキリスト教徒が知っている。しかし、ずっとそうであったわけではないことを知っている人はほとんどいない。キリスト教の様々な宗派が百三十六種類もの異なった日付を定めていたと言われている。ライトフットは九月十五日にしており、二月や八月にしている人々もいる。エピファニオスは二つの宗派について言及しており、その一つは六月に祝い、もう一つは七月に祝う。この問題は紀元三三七年にユリウス法王によって最終的な決着がつけられた。聖クリュソストモスは三九〇年に次のように述べている。「この日(つまり十二月二十五日)をキリストの誕生日と最近ローマで決められたが、その理由は、その日は異教徒が自分たちの式典(バッカスを祝するブルマリア)に忙しくしている間に、キリスト教徒が邪魔されずに自分たちの儀式をできるようにするためであった」と。(Esoteric Christianity, by Annie Besant, p.160)

この特別な日付の選択には宇宙的な意味合いがある。昔の賢人たちがこのような重大な決定を何の意図もなしに下したりはしなかったことは確かである。アニー・ベサントは次のように述べている。

 彼はいつも一年で最も日の短い日である冬至の直後、乙女座が地平線に昇る十二月二十四日の夜中に生まれている。この星座が上昇するときに、彼はいつも一人の処女から生まれ、彼女は太陽の子を生んだ後も処女のままである。それはちょうど太陽が天の乙女座から昇ったときも乙女座が変わらず汚されていないのと同じである。日が最も短く夜が最も長いときに彼は一人の幼子として弱々しく誕生するのである。(Esoteric Christianity, by Annie Besant, p.157)

 次のことも覚えておくとよいであろう。

尊者ベーダは八世紀初頭に「古代アングル族は、私たちが主の誕生日として祝う十二月二十五日を一年の最初の日にしていた」(Bede, De Temp. rat., xiii)と述べている。この古代アングル族とは紀元約五百年にイギリスに定住する前の異教徒であったイギリス人のことである。また、十二月二十四日から二十五日にかけての夜、「現在の私たちにとって神聖なこの夜は、式典が徹夜で行われるため、彼らの言葉でModranechtつまり『母の夜』と呼ばれた」とも述べている。それらの式典がどのようなものであったかについて、彼は言及していないが、それらが太陽神の誕生に関係していたことは明らかである。イギリス人が六世紀と七世紀にキリスト教に改宗したとき、十二月二十五日のキリスト降誕の祭はローマでは以前からすでに厳粛な式典として確立されていた。しかし、古い異教徒が行っていた楽しいユール(クリスマス)――「宴会」を意味すると思われる言葉――と一致したため、イギリスでは、南方では見られない陽気な特徴が付け加えられることになったのである。この特徴は今でも残っており、ラテン民族の式典の性質とは際立って対照的なものである。ご馳走し、クリスマス・プレゼントを交換する北方の習慣は最近までラテン民族には知られていなかった。(The Paganism in Our Christianity, by Authur Weigall, p.236,237)

キリストが誕生したとき、東方の星であるシリウスが子午線上にあった。そして、東洋の占星学者が「三人の王」と呼ぶオリオン座が近接していた。そのため、聖母である乙女座が東方に昇り、黄道、赤道、地平線がこの星座で交わっていた。乙女座で最も明るく大きな星がスピカと呼ばれていることに注目することも興味深い。その星は乙女座にある「一本のトウモロコシ」(肥沃の印)に見られるはずである。ベツレヘムは「パンの家」を意味するため、この二つの言葉の間には明白な関係が存在する。この星座はまたコップの形をした三つの星からなっている。これは生命の血を入れる真の聖盃であり、神聖なものの器であり、神性を中に隠すものである。これらは天文学上の事実である。これらの星座に古代から添えられた象徴の解釈は宗教そのものと同じくらい古いものである。これらの星座の印がどこからきたのか、それらに関係する意味と象徴がどのようにして生まれたのかは、時間の暗闇の中で見失われている。それらは何千年もの間、人々のマインドと思考と著作の中に存在し続け、今日の私たち共通の相続財産になっている。 (キリスト教よりも数千年も前の)古代デンデラの十二宮図はこのことを十分に証明するものである。黄道帯を巡る太陽の旅において、この「天空の人間」はついにパイシス(魚座)に辿り着く。この宮は十二宮図では乙女座とは正反対の位置にあり、すべての世界救世主たちの宮である。キリスト教の時代がパイシスの時代であったことを私たちはすでに見てきた。私たちの太陽がこの宮に移行したときにキリストは聖地にやってきた。したがって、乙女座で始められ存在するに至ったもの(幼子キリストの誕生)がパイシスで頂点を極め、そのとき、成人した幼子キリストが世界救世主になるのである。

 もう一つの天文学的事実は、これに関連して興味深いものである。乙女座と密接に関係する三つの星座が天空の同じ区域に見られる。生まれ、受難し、死に、そして復活する子供の物語が、この三つの星座に象徴的に描写されている。髪の毛座と呼ばれる星団がある。それは幼子を抱いた女性である。そして、ケンタウルス座と、ヘブライ語で「来たるべき方」を意味する牛飼い座がある。まず最初に、女性から幼子が生まれ、その女性が処女であること、そして次に、ケンタウルスである。ケンタウルスは古代の神話において常に人類を象徴するものであった。なぜなら、人間は動物であると同時に神でもあるからである。そのため、ヒューマン・ビーイング(人間的な存在)なのである。そして次に、来たるべき方が人類すべてに覆い被さり、彼らをオーバーシャドーし、誕生と人間としての化身を通してもたらされる完成を示すのである。実に天空の絵本には、見る目を持ち、正しく解釈するための直観を発達させた人々にとって永遠なる真理が秘められている。予言は聖書だけに限らず、天空に人々の目の届くところに、ずっとあり続けているのである。
 このように、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(詩篇・第19篇1節)というように、キリストがベツレヘムつまり「パンの家」で生まれ、乙女座が地平線に昇り、東方の星が輝いたときに起こった世界的な出来事は予言されていたのである。

 そのとき、キリストは自身の肉と血を持つに至った。人々の世界が彼を引き寄せ、父の愛が彼にそれを強いたからである。人生に目的と成就を与え、私たちに道を指し示すために、彼はやってきた。「欺くことのない」(ローマの信徒への手紙・第5章5節)希望によって私たちを活気づけ、「上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」(フィリピの信徒への手紙・第3章14節)ことができるようにするために、彼は私たちに模範を示しにきたのである。
 ここで、誕生に先立つ旅もまた、神に遣わされた他の教師方の生涯の物語にも見られることに注目すべきである。例えば――

 待望されるメシア(仏陀)の母が満たすべき三十二の徴のうち、五番目の徴は「子供の誕生のときに彼女は旅をしているであろう」というものであると記録されている。したがって、「予言者が語ったことが成就されるために」、天による受胎の十か月目には、処女マーヤは父のもとに向かう旅に出ており、そのとき、見よ、樹木の下でメシアが誕生したのである。ある記述によると、「彼女は、仏陀が生まれたとき、宿に泊まっていた」とある。
 処女懐胎で生まれた中国の賢人、老子の母親は、子供が生まれたとき、家を離れていた。彼女は樹木の下で休み、処女マーヤと同じく、そこで息子を産んだ。(Bible Myths, by T.W.Doame, p.5)

 福音書には、聖母マリアは幼子のキリストを身籠って、夫のヨセフと共にガリラヤのナザレからベツレヘムに行ったと述べられている。時として、聖書や伝説に見られる名前の意味を研究することで、エピソードそのものに多くの光を当て、その隠れた意味を明らかにすることができる。聖書の物語を研究するとき、私はこれまで聖書そのものとクルーデンの用語索引だけを用いてきた。名前の説明はクルーデンの用語索引から引用している。そこには、「ナザレ」は「聖別されたもの」つまり他とは切り離されたものを意味し、「ガリラヤ」は「車輪の回転」―― 回り続ける生と死の車輪 ―― を意味するものと記されている。人生の課題を学び終え、「貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの」(テモテへの手紙二・第2章21節)になるまで、私たちはすべて、この車輪に巻き込まれ、仏教徒の言う「存在の車輪」に乗り続けるのである。
 生きるという長い旅路はキリストにとってはすでに過去のものになり、彼は母親と共に道の最後の部分を旅している。永劫なる過去から聖別され、世界救済というこの仕事を任されて、彼はまず最初、誕生と幼児時代という普通の過程に従わなければならない。キリストは聖別の地であるナザレから出て、パンの家であるベツレヘムにやってきた。そして、そこで彼は特別な仕方で、飢えた世界にとっての「命のパン」(ヨハネによる福音書・第6章33、35、41、58節)になることになっていた。彼は救済の仕事のために(すべての目覚めた神の子らと同じように)他とは引き離され、自らを他から引き離したのである。彼は飢えた人々に食料を与えるためにやってきたのである。これに関して、聖書の二つの節が彼の仕事とその準備に光を当ててくれる。イザヤは「麦を砕く」(イザヤ書・第28章28節)と言い、キリストは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書・第12章24節)と言った。これが、ベツレヘムで誕生したときに彼を待っていた運命であった。そのとき彼は、彼を「砕き」、彼を死へと導く生涯を開始した。
 用語索引によると、マリアという名前は「主の高められた者」という意味である。この言葉を聞くと、三日月の上に立ち、天の雲の中に引き上げられた聖母を描いたムリーリョの絵を思い出す。栄光への聖母の昇天はこのようなものである。乙女座に関連して興味深い点がもう一つある。それに触れたい。聖母マリアは、古代の知恵の象徴では原初の物質を表わし、幼子キリストつまりキリスト意識を培い、育て、覆い包む質料を表している。結局のところ、神が明らかにされるのは形態と物質を通してである。そのようにして神は化身してくるのである。三位一体の第三位格である聖霊によってオーバーシャドーされた物質が、三位一体の第二様相をキリスト――宇宙的、神話的、一人の人間としてのキリスト――の位格として誕生させるのである。
 天空の童話に関連して言えば、女性が象徴になっている星座が(乙女座以外に)三つある。王位に就いた女性であるカシオペア座。これは、人間の人生において物質と形態が優位で勝っている段階を象徴する星座である。この段階において、内的な聖なる生命は深く隠れているため、その兆候は見られず、物質的な性質だけが統御し支配している。次に、人類と個人の歴史において、象徴的に言って髪の毛座――幼子キリストを身籠った女性――が現われる段階が訪れる。ここで物質は、すべての形態内にキリストを誕生させるというその真の機能を表わし始める。大いなる人生の車輪が回転し、その役割を果たし終えたとき、マリアはガリラヤから出て、救世主を産むためにナザレからベツレヘムへと旅することが可能になる。最後に、アンドロメダがある。これは鎖につながれた女性、つまり魂に奉仕させられる物質である。

・・・・中略・・・・

このイニシェーションの洞窟に、四つの自然王国すべてが私たちのために間違いなく象徴化されているのを見ることができる。洞窟を構成する岩は鉱物王国を表わしている。まぐさと干し草は当然のことながら植物王国を象徴している。雄牛とロバは動物性質を表わしているが、それらはまた、それよりも遥かに多くのものを表している。雄牛は、キリストがやってきたときに地上から姿を消していくべき運命にあった崇拝形態を表わしていた。多くの人々がまだ雄牛を崇拝していたが、それは太陽が牡牛座を通過していた時代に広く行われていた崇拝であり、当時、ミトラとエジプトの秘儀に残っていたものである。キリスト教の時代のすぐ前の宮は牡羊座であったが、これはベツレヘムを取り囲む羊小屋に象徴されている。

 また、面白いことに、ロバはマリアとその幼子の物語に明らかに関係がある。二頭のロバが福音書には登場する。一頭は北から来て、マリアをベツレヘムに連れていき、もう一頭は彼女をエジプトに連れていった。これらは北ロバ座と南ロバ座と呼ばれる二つの星座のシンボルであり、それらは乙女座の近くにある。
 人間王国はマリアとヨセフに表わされており、人間の統一性と二重性が存在そのものに不可欠であることを表わしている。新しく生まれた赤子は神性を表現している。このように、この小さな洞窟には宇宙が表現されている。

・・・・中略・・・・

キリストの幼年時代についての説明は福音書において非常に少ない言葉で片付けられている。一つのエピソードに触れられているだけである。それは、イエスが十二歳になったときに母親に主の寺院に連れてこられ、そこで初めて自分の天命を示し、一つの使命が自分に予め定められているという認識を明らかにしたというものである。その前に、彼の両親はユダヤの律法のすべての必要条件に従ってエジプトにも滞在したが、そこで彼が過ごした時間については何も伝えられていない。私たちが知っているのは次のようなことだけである。

 親子は自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカによる福音書・第2章39、40節)

 十二という数字がすべての信仰の秘教徒にとって完成の数字を意味することを覚えておいたほうがよい。これについては世界の様々な聖典で繰り返し述べられている。次の言葉はこれに関して興味深いことを述べている。それはこの数字の重要性とイニシェーションとの関係を示している。

 十二歳になったということは、キリストの魂が一つのイニシェーションを受ける進化期間すべてを終了したことを意味する。これは内的なマインド(寺院)で起こり、魂の論理面と直観面の目覚めと同時に起こった。これらは父母原理であり、両親の参列がこのことを示している。(Dictionary of the Sacred Language of all Scriptures and Myths, by G.A. Gaskel, p.773)

そして、また、

 この(十二人の弟子たちという)数字は旧約聖書において多くのことに象徴されている。ヤコブの十二人の息子たち、イスラエルの人々の十二人の指導者たち、エリムに湧き出る十二の泉、アロンの胸当ての十二の宝石、十二個のお供えのパン、モーセが送った十二人のスパイ、祭壇を造る十二個の石、ヨルダン川から採取された十二個の石、鋳物の海を支える十二頭の牛などである。また新約聖書でも次のようなものに象徴されている。花嫁の冠の十二の星、ヨハネが見たエルサレムの十二の土台、そしてその十二の門。(Bishop Rabanus Manrus, A.D. 857)

 このように十二という数字が繰り返し出てくるのは、おそらく黄道帯の十二の星座に由来しているのであろう。天空にあるこの想像上の帯を太陽は一年をかけて、そして約二万五千年という大きな周期で運行しているように見える。
 準備的な仕事を終えて、十二歳までにキリストは再び、直観的な経験をし、ナザレ(聖別の地)から寺院へと行った。そこでその直観によって彼は仕事に関する新たな認識を得た。
その使命が何であったかを彼が詳しく知ったという形跡はなく、彼は母親に何の説明もしなかった。彼は一番身近なところでできる仕事から取りかかり、寺院にいた人々に教え始めたが、彼の理解力と答えは人々を驚かせた。母親は狼狽し悩み、彼の注目を自分と父親に向けさせようとしたが、「わたしが自分の父の家にいる[訳者注:ここでは「わたしが自分の父の仕事を行う」と訳すほうが的確であろう]のは当たり前だということを、知らなかったのですか」(ルカによる福音書・第2章49節)という、確信に満ちた静かな答えが返ってきただけであった。その言葉は母親の全人生を一変させてしまった。この仕事は、年月を重ねるごとに彼の意識にはっきりとしたものになり、すべてを包含するその愛は、一般の正統派キリスト教徒が進んで認めると思われるよりも遥かに広大なものになった。
 この使命の内容が彼の若いマインドにゆっくりと明らかになり、真のイニシェートであるすべての神の子らが否応なしにそうしなければならないように、ヴィジョンを認識するやいなや、彼は神の使者として働き始めた。しかも、そのときにいた場所で働き始めた。このように、将来の仕事を把握することで、「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。・・・・イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカによる福音書・第2章51、52節)のである。

 福音書には「下る」という言葉が何度も出てくる。キリストは母親と一緒に「エジプトに下り」、彼は「ナザレに下って」いった。そして、彼は山頂や孤独の場所から、何度も何度も人々の中で自らの責務を果たすために下っていった。エジプトでの秘められた経験(なぜなら、これについては聖書には書かれていないからである)の後、そして寺院で啓示を受け、果たすべき仕事を受諾した後、キリストは責務の場所へと戻っていった。この場合、誕生のイニシェーション後の三十年間、彼は大工の店で一人の人間として、そして家で両親と一緒に日常生活を過ごしたと言われている。この家庭での生活は彼が受けた試練であり、その重要性をどれだけ評価しても評価しすぎるということはない。彼がこの当面の義務を果たさなかったならば、彼の残りの仕事は失敗に終わったであろうと言うならば、冒涜のように聞こえるであろうか。家庭や彼が住む運命にあった小さな町で神性を示すことに成功しなかったならば、彼が世界救世主として働くことは決してなかったと言うことはできないであろうか。私たちがベツレヘムへの長い旅を終えたときに私たち人類がなりえるもの、そして、なるであろうものを彼は私たちに啓示するためにやってきた。これが彼の使命のユニークな点である。
 キリストは家で両親と静かに過ごし、家庭生活という最も困難な経験に耐えた。それは、退屈で単調な日常、集団の意志と必要への求められる服従、犠牲と理解と奉仕という課題を伴うものであった。これは常に、すべての弟子たちが最初に学ばなければならない課題である。それを学び終えるまで、さらなる進歩を遂げることは不可能である。神性を家庭で、また私たちをよく知る親しい友人たちの間で表現できるようになるまで、神性を他のところで表現することは期待できない。私たちは運命が定めた――退屈で単調な、時としてむさくるしい――ところで神の子として生きなければならない。この段階でそれが可能なところは他にはどこもない。私たちが今いるところが私たちの旅が始まる場所であり、私たちはそこから逃げるべきではない。私たちがいるところで、もし弟子として立派に振る舞うことができないならば、そうできるようになるまで、他の機会が私たちに与えられることはないであろう。ここに私たちの試練があり、ここに私たちの奉仕の場がある。多くの誠実で熱心な熱誠家たちが、もし自分が違った家庭や違った環境にあったならば、本当に周囲に感化を及ぼし、神性を表わすことができたのにと感じている。別の人と結婚していたならば、もっと多くのお金や余暇があったならば、友人たちがもっと同情してくれたならば、身体がもっと健康ならば、と言う人もいるであろうが、それでは自分には何ができないかが分からない。試練とは、私たちがどれぐらい強いかを試すものである。それは、私たちの中にある最高のものを呼び起こし、自らの弱点と欠点がどこにあるかを明らかにする。現代は、頼りになる弟子たちを、困難が訪れ人生の闇に遭遇したときに挫けないよう試練で鍛えられた人々を必要としている。それを認識できさえすれば、まさに私たちの中にある最高のものに従うというこの課題を学ぶことができる環境と境遇に私たちは置かれているのである。私たちはまさに私たちの中にある神性を表現できるタイプの肉体をまとっており、そのような物理的な状況にある。私たちは弟子の道での次なる前進、神への次なる一歩を踏み出す上で必要な交際をこの世で行っており、そのような種類の仕事に従事しているのである。熱誠家たちは、この本質的な事実を理解し、奉仕と自らの家庭で愛を込めて与えるという生活に喜んで身を落ち着けるようになるまでは、どのような進歩も不可能である。

上記のように「ベツレヘムからカルバリー」(アリスベイリー著 AABライブラリー)の聖書と占星学の関連についての洞察は、このZeitgeist(時代の精神)Part1の作者が示しているものと同じである。

然し、この作者とアリスベイリーとは、全くそのデータの解釈において異なるのであって、全く結論も異なるのである。
アリスベイリーは秘教学徒として、イエスキリストが実在し、イエスキリストが生涯の中で、 5段階のイニシェーションという意識拡大のプロセスを実演したということを、聖書読解を通して、秘教的観点から洞察しているのである。

そして、 アリスベイリーはキリスト教とエジプト宗教を初め、多くの他の宗教と、救世主誕生の物語が細部において一致していることについて、次のように説明している。


『・・・・多くの神の子らが時代時代を通して、「可能性の高み」についてのヴィジョンを次々と人類に啓示し、神の大計画をそれぞれの時代と気質に合った言葉で人類に説明してきた。彼らの生涯の物語が一致していること、処女の聖母が何度も登場していること(その名前はマリヤという名前の変化したものであることが多い)、誕生の物語が細部において類似していること、これらはすべて、一つの真理が絶えず繰り返し演じられてきたことを示している。その結果として、その特質が劇的なものであり、その出来事が繰り返されることによって、神は人間の救済に不可欠ないくつかの偉大な真理を人間のハートに印象づけているのである。・・・・』


つまり、アリスベイリーの秘教的な宇宙観によれば、特定の同じ時期に地球上に登場する救世主というものは、”神の意思が、天文学や占星学の法則を通じて、繰り返し、人間の救済に不可欠ないくつかの偉大な真理を人間のハートに印象づけている”のであり、各宗教で描写される救世主というものは、実際に実在した人物であり、神話上の存在ではないのである。

秘教の教えに慣れ親しんでいる人にとってはそのような結論になるのであって、『Zeitgeist ツァイトガイスト(時代の精神)Part1』の作者のように、イエスキリストが実在しなかったと結論づけてしまうような人は、比較文化学、文献学、比較宗教学の知識で合理的に思考するだけの、占星術的、秘教的センスに欠けた人物であると言える。

このような秘教的な事柄も、マイトレーヤと覚者方の公への出現、すなわち、智恵の覚者方が公の人類社会の中に戻ってくるという出来事によって、徐々に、一般にも明らかになっていくのではないかと思われる。

それは2008/10/18付の『アメリカの行方 -アメリカ発の世界革命が始まる-』の中で言及した2011年10月14日以降のアメリカのマハダシャー火星期にそのような状況が訪れる可能性が高いと、私は考えている。


因みに(青字)で示した箇所があるが、これは大変、興味深いことが書かれている部分である。


『・・・・
十二という数字がすべての信仰の秘教徒にとって完成の数字を意味することを覚えておいたほうがよい。これについては世界の様々な聖典で繰り返し述べられている。次の言葉はこれに関して興味深いことを述べている。それはこの数字の重要性とイニシェーションとの関係を示している。

 十二歳になったということは、キリストの魂が一つのイニシェーションを受ける進化期間すべてを終了したことを意味する。これは内的なマインド(寺院)で起こり、魂の論理面と直観面の目覚めと同時に起こった。これらは父母原理であり、両親の参列がこのことを示している。
・・・・』


ここに書かれているように、イエスが12歳の時に宗教的使命に目覚めたということが重要である。
つまり12年というのは木星の公転周期であり、12歳というのは、木星リターンの時期である。

12歳の次は24歳、その次は36歳であるが、精神的気づきとか、精神的成長、あるいは道徳的成長というのは、この12年周期の木星が出生の木星の位置に戻ってくる木星リターンの時にやってくるのではないかと思われるのである。


(資料)

アンチロスチャイルド同盟 お薦め動画 より
http://www.anti-rothschild.net/link/animation.html
ZEITGEIST ツァイトガイスト(時代の精神)

 

アンチロスチャイルド同盟 お薦め動画 より引用抜粋(内容より字幕からテキスト化)
http://www.anti-rothschild.net/link/animation.html

ZEITGEIST
ツァイトガイスト(時代の精神) 翻訳:Yamato

更に調べてみると
正しく理解していると思っていた事

我々がどこから来て
我々が何をしているかなど
ずっと騙され続けてきたことがより明らかになってくる
我々はすぐ思い浮かぶ全ての制度に嘘をつかれてきたが
宗教だけは唯一触れられていない
この世界において宗教制度というのは
最低の泥地である
この世界の宗教制度とは
我々の政府、間違った教育、国際銀行カルテルを設立した
同じ人間達によって創作された
我々の支配者はあなたやあなたの家族のことはどうでもよく
彼らが常に気にする唯一のものとは
世界を支配することである
我々は真実や神と呼ばれる神秘的な宇宙とは引き離されている
”神が何かは知らないが”
何が神でないかは分かる
そして冷静になり落ち着いて
真実を見渡せば
何処に行こうと誰に導かれようとも
目線を逸らしても自由に行動しても
どこか途中であなたは”神の名の正義”に出会うだろう
より教養をつけ物事を理解すれば
より明確に物事が見極められ全ての嘘が見えてくるだろう
あなたは真実を知るべきで
真実を求め真実があなたを解放してくれるだろう

簡単には見極められないだろう
”真実の権力者”と”支配権力を真実とする者”を

G マセイ エジプト学者


俺は真実を伝えたいんだ
真実をね
インチキ話をすると
それもかなりの
史上最高のインチキ話をすると
これが無くては語れない
いつでも偽りの約束と大げさな主張をするチャンピオンがいる
宗教だ
考えてもみなよ
宗教って実は人を説得してるだけだ
ある見えない男が
空に住んでいて
みんなのやってる事全て
いつでも見てるんだってね
で、その見えない男にはみんなにして欲しくない10の規律があるんだ
それを一つでも破ったら特別な場所に行くのさ
そこは炎と煙につつまれ、拷問、妬けど、怒りに囲まれ
火にあぶられ締めつけられ泣き叫んで耐えるんだ
時の終わりまでずっと永遠に
でも彼は皆を愛してるのさ
皆をね
彼はみんなを愛してるけど
お金も必要なんだ
彼はいつでも金が必要なんだ
彼は権力を持ち完璧で全てを知る全能だけど
お金だけは上手く扱えないんだ
宗教には数十億ドルも要して税金が掛からないあげく
常にもっと必要なんだ
じゃあここで 最高のインチキ話をしたいなら

Holy Shit ! (神のくそったれ!)


史上最高の物語

これは太陽だ
紀元前一万年程さかのぼると
歴史は太陽を崇拝し 敬意する書物や彫刻であふれてる
太陽がなぜ毎朝現れ視界を与え日の安らぎを注ぎ
人類を冷たく暗い夜という闇から守ってくれるか明確である
日の光がなければ作物も生命も地球上では育たない
それゆえに太陽は常に人間がもっとも崇拝するオブジェクトであり続けてきた
同時に人類は星の存在にも注目していた
人類は星を観測することによって一定長期に起こる現象も予測可能にした
月食や満月などだ
古代人類がこれらの天体の星を一覧区分したものが今日の星座である
これは天体の星座の示す十二宮だ
人類の歴史の中で最も古い概念図の一つである
これが太陽が一年を通じ天体の12の星座上を巡回するカレンダーである
また年間12ヶ月、四季、秋分春分や冬至夏至も表している
”十二宮”とは星座を人や動物に擬人化した事も表現している
すなわち、古代人は太陽や星座を単に観測するだけでなく
擬人化させ星座の一連動作と神話を深く結びつけたのである

生命力を与え守護神となる太陽は擬人化され
命の創作者、神、神の太陽、世の光、人類の救世主と表現された
同様に12の星座は神の旅路に配置され名づけられた
通常その季節に起こる自然現象によって命名された
例えば水瓶座だ
彼は春の雨を運ぶ者だ

これはホルスだ
彼は紀元前3000年頃のエジプトの太陽の神である
ホルスは太陽の擬人で
その一生は天体を移動する一連の神話になっている
我々は古代エジプト文字からこの太陽の救世主について多くを知ることができる
例えばホルスは太陽であり光でもありセトという敵がいる
セトは闇、夜を擬人化したものだ
神話上では毎朝ホルスがセトを戦いで破り
夕方にはセトがホルスを倒し闇へ葬る
重要なのは光 vs 闇、善 vs 悪 とは昔から神話に最も現れる
二元性で現在でもよく使われていることだ

ホルスの物語は大まかには以下の通りだ
ホルスは(BC3000 エジプト)12月25日聖母イシスメリーから生まれた
ホルスの誕生には東方の空に星が現れ、三人の王が祝いに駆けつけ新しい
救世主として崇拝した
ホルスは12歳で天才児として教育者となり30歳でアナプによって洗礼を受け
聖職活動を始めた
ホルスは12人の使徒達と旅を共にし病を治したり水の上を歩くなどの
奇跡を起こした
ホルスは多くの名前で知られていた
真実、光、神の子、よき羊飼い、神の羊など様々だ
タイフォンに裏切られた後 十字架に張りつけられ埋葬されたが
3日後に生き返った

このホルスの話が原作かどうかは別として
その他多くの異文化の神話にも同じような内容が共通している

紀元前1200年古代ギリシャのアティス
12月25日 聖母ナナから誕生
十字架に架けられ死亡した三日後に蘇える

紀元前900年インドのクリシュナ
聖母デヴァキから誕生 その晩に東方の輝く星が出現
彼は弟子達と奇跡を起こし
死亡した後復活した

紀元前500年ギリシャのダイナイシース
12月25日聖母から誕生し旅の宣教師となり
水をワインに替えるなどの数々の奇跡を起こした

彼は王の王 神の唯一の息子 アルファとオメガなど その他多くの呼び名で
知られた
そして死亡した後復活した

紀元前1200年ペルシャのミスラ
12月25日聖母から生まれた
12人の弟子をもち奇跡を起こした
死亡して埋葬された3日後に復活した
彼もまた真実、光やその他の呼び名を持っていた
興味深い事にミスラの神聖な崇拝は日曜日だった

実は多くの時代の異なる世界の様々な神や救世主も同じ様な話になっている
ここで疑問が残る なぜこの内容なのか?

なぜ12月25日にバージン(処女)から生まれるのか?

なぜ死亡した3日後に必ず復活するのだろうか?

なぜ12人の使徒なのか?

では答えを探すため最も最近の”太陽の救世主”を分析してみよう

イエス・キリストは12月25日ベツレヘムで聖母マリアから誕生した
彼の誕生は当方の輝く星によって知らされ
3人の博士が新しい救世主を崇拝するために訪れた
彼は12歳で天才児として教育者となり
30歳で宣教師ヨハネの洗礼を受け聖職者となった
キリストは12人の弟子と旅を共にし 病を治したり
水の上を歩いたり人を生き返らせたりと様々な奇跡を起こした
彼は王の王、神の子、世の光、アルファとオメガ、神の羊など
その他多くの呼び名で知られた
弟子のユダに裏切られ30枚の銀貨を売り 十字架に架けられ命を絶った
棺に納められた
3日後生き返り天国へ渡った

先ずこの誕生日は完全に占星学的である

東方の星とは最も輝く巨犬座のシリウスを指している
シリウスは12月24日にオリオン座の3つ星と直線に並ぶ

この輝く3つ星は古代 今で言う”3人の王”と呼ばれていた
3人の王と最も輝くシリウスは12月25日の太陽の昇る位置を指している

だから3人の王が東方の輝く星に導かれ
太陽の誕生を訪れる
太陽の誕生(日の出)のことだ

シリウス―― 神の子 ―― 3人の王(博士)

聖母マリアとはおとめ座 乙女バージンのことである
ラテン語で乙女座はバージン(聖母)である
古代エジプト文字では乙女座はMと表記される
だからマリアを含むその他の聖母マイヤ(アドナイの母)や
マヤ(仏陀の母)は全てのMの頭文字で始まる
また乙女座とは”パンの家”を意味しており
穀物の束を抱えている聖母を表している
”パンの家”は小麦のシンボルで8−9月の収穫期を表している
実はベツレヘムとは”パンの家”という意味である
よってベツレヘムとは天空の乙女座の場所を指しており
地球上の場所ではない

更にもう一つとても興味深い現象が12月25日冬至に起こる
夏至から冬至にかけて日中の時間は徐々に短くなり
気温が下がり続ける
北半球から観測すると太陽は南下し弱まり乏しくなる
日が短くなり作物が絶える冬至の接近とは
古代人にとって死を意味していた(12月1日)
それは太陽の死であった(12月15日)
12月22日までには太陽の消滅は明らかになり
夏至から6ヶ月かけて南下し続けた太陽は
空の最低点に到達する
ここで不思議な現象が起きる
太陽の南下がここで止まる
少なくとも目測でこの3日間は(12月22、23、24)
この3日間太陽は南十字星と並ぶ
そして12月25日から太陽は今度は1度づつ北上し
長い日中と暖かい春の到来を予測する
よって”太陽は十字架(クロス)で復活する為に3日息絶える”と言われている
だからイエスを含むその他の神々全てに
”十字架””3日死亡””復活”が共通する
これは太陽が北半球に戻ってくる為の停滞時期で
春と言う救いを運んでくれる
しかし古代人は春分”イースター”までは太陽の復活を祝わなかった
これは太陽が春分になるまで邪悪な闇に打ち勝たないからだ
つまり昼中が夜より長くなり生命力を与える春の到来を待っている為である

ではここで最も分かり易いのはキリストを取り囲む天体シンボルだろう
12人の使徒達
すなわち彼らは十二宮の星座であり
太陽キリストと共に旅をする
十二宮のキリスト 11世紀

実際、12という数字は聖書で至る所に現れる
これは占星学上のもの以外何でもない

ここで太陽の動きを示す十二宮に話しを戻す

これは太陽の動きを記録した芸術や道具ではなく
異教徒の神聖シンボルでもある
これを部分的に見るとこのようになる

これはキリスト教シンボルではない
これは異教徒が十二宮の十字を適応させたものだ
だから昔のキリスト教アートには常に頭の部分に十字架がある
キリストは太陽であり
太陽の神であり
この世の光であり
再び誕生する救世主である
毎朝姿を見せる
神の栄光であり
毎朝生まれ変わることによって闇の支配から守ってくれる
雲の間から顔を出し
天の上で
光の冠をまといながら

では聖書の中に数多くある天文学、占星学的比喩の中で
最も重要な一つに”時代”がある

聖書には数々の”時代”を参照するものがある
この”時代”を理解するために”春分点歳差”という現象を
理解する必要がある

古代エジプト文明は、はるか昔から約毎2150年ごとに
春分の日の出時の十二宮の星座が変わることに気づいていた
これはゆるやかな地球の自転と地軸の僅かなずれによるものである
これは春分点歳差運動と呼ばれている
星座が通常の年周と逆方向に動くからだ
歳差運動が12全ての星座を巡る1周期は
約2万6000年である
この周期は”偉大な年”とも呼ばれる
古代社会はこの事実を十分理解していた
そしてこの2150年の期間を
”時代(AGE)”とした

紀元前4300年から2150年の間は”おうし座の時代”である
紀元前2150年から西暦1年は”牡羊座の時代”である
西暦1年から2150年の間は”魚座の時代”である
我々は現在この”魚座の時代”にいる
そして2150年から新しい時代に入る
水瓶座の時代だ

実は聖書では、このシンボルの動きを3つの時代で表記しつつ
次の時代を予期している
旧約聖書でモーゼがシナイ山に十戒と共に現れた時
彼は人々が黄金の牛を崇拝しているのを見てひどく憤慨した
実際モーゼは石刻版を粉々に砕いて
人々に心を清めるために殺し合えと命令した
多くの聖書学者達はこのモーゼの怒りは
イスラエル人が間違ったものを崇拝していたからだと理解している
実はこの黄金の牛とは”おうし座の牛”であり
モーゼは新時代の羊を表現していた
だからユダヤ人は今日でも羊の角を吹いている
モーゼは新しい牡羊座の時代を表現し
新時代の到来には全ての人々は
古い時代を捨て去るべきだとしている
他の神々もこの時代の移り変わりを細かく表現している
例えばミスラだ
ミスラはキリストより古い神で神話で牛を殺した
キリストとは時代を”魚座の時代”(2匹の魚)へ導いた人物だ
魚のシンボルは新約聖書では至る所に表記されている
キリストは5000人にパンと2匹の魚を与えたとされる
彼は信者との聖職の旅時に彼を慕う2人の漁師に救いの手を伸べた
我々はよくキリストの魚シンボルをよく車の後部で見るだろう
この意味を知る人は少ないだろう
これは異教徒の”太陽の王国”のシンボルであり
”魚座の時代”を意味している
またキリストの推定誕生日はこの時代の始まりの日と推定される

聖書のルーク22:10で弟子達がイエスに
次のユダヤの”過ぎ越しの祭り”はいつか尋ねた時
キリストはこう言った
”見よ、なんじが次の街に到着した時、水を運ぶ男に出会うだろう”
”そして彼の入る家へと続きなさい”と
この記述はまさに天文学的表記それだけである
水を運んでいる男は”水がめ座”で
常に水差しで水を注いでいるのを描写されている
”水がめ座”は”うお座”に続く
太陽(神の太陽)イエスは魚座を去ると
”水がめ座の時代”に入る

春分歳差点で”魚座”の次は”水がめ座”だ
だからイエスはこう言っているだけだ
””魚座の時代”の次には”水がめ座の時代”が来る”

我々は”時代の終わり””世界の終わり”を聞いたことがあるだろう
聖書のヨハネの黙示録の漫画描写にもあるが
この記述は聖書のマシュー28:20からくる
キリストが言うように”世界の終わりには私も共にする”と
しかしキングジェームス版ではこの”世界”とは多くある誤訳の一つであるとされる
実際に使われている言葉は”イーオン”であり
”時代”を意味している
よって”時代の終わりは私も共にする”となり、これは本当だ
太陽の擬人イエスが”魚座の時代”を通り過ぎ
”水がめ座の時代”に入るからだ
聖書の”世界の終わり””時代の終わり”と言うコンセプトは
全くの誤解でただの天文学の上の記述である

”世の終わり”を信じている約1億人のアメリカ人にこれを伝えて欲しい
更にキリストというキャラクターは文学的と占星学の掛け合わせで
エジプトの太陽神ホルスを完全に盗用したものである

例えば3500年前に彫刻されたエジプトのルクソールの壁画は
はっきりホルスの奇跡の誕生とその崇拝をはっきり表記している
(キリスト誕生の15世紀前)

壁画は聖母イシスがホルスを身ごもるところから始まり
(キリスト誕生の15世紀前)
聖なるゴースト”ネフ”が処女を妊娠させたことを描いている
(キリスト誕生の15世紀前)
これが聖母の出産、崇拝である
これはイエスの奇跡誕生物語そのものである

実際、エジプト宗教とキリスト教の類似には驚かされる
盗用は続く

”ノアの箱舟”も古い言い伝えから直接盗用されたものだ
大洪水というコンセプトは古代には至る所にあり
200以上の異なる時代と場所に記述されている

しかしキリスト前の証拠としてたった一つを参照すればよい

紀元前2600年に書かれたギルガメッシュ小説だ
この物語は神によって起こされた洪水の物語だ
物語には箱舟に助けられた動物や鳩の開放と帰省までも
記述され聖書物語の中の一つにすぎない

モーゼにも盗用された物語がある
モーゼの誕生においては、アシの籠に入れられ川を漂流したとされている
幼児殺害を避けるためだ

彼は後ほど王族に拾われ王子として育てられた
この揺り篭の赤子の話は
アッカド民族のサーゴンの話から直接引用された
紀元前2250年頃の物語である
揺り篭に入れられたサーゴンは
幼児殺害を避けるため川へと流された
やがて王族の助産婦アキーに助けられ育てられた

更にモーゼは法律人として知られ”モーゼの十戒”という法律がある
しかし、山で神から予言者に法律が伝えられるという
アイディアも古くからあるモチーフにすぎない

モーゼも歴史神話学上の長期に渡る法律家にすぎない

インドではマヌウが偉大な法律家だ
クリートではミノスが神ゼウスから法を授かる為 ディクタ山を登った
エジプトではミシィスが神に与えられた法の石刻版を授かった

マヌウ
ミノス
ミシィス
モーゼ

”モーゼの十戒”については完全にエジプトの死の本の呪文125の盗用だ
この死の本にあるフレーズの
”盗みはしない”が”なんじは盗むべからず”となり
”人を殺していない”が”なんじ殺すべからず”となり
”嘘をついていない”が”偽証すべからず”になっただけである

実はエジプト宗教がユダヤキリスト教の基盤になったと言えるだろう

洗礼
死後の世界
最後の審判
処女出産
復活
十字架はりつけ
聖書のはこぶね
割礼
救世主
聖餐
大洪水
復活祭
クリスマス
過ぎ越しの祭り
その他数知れず

すべては古代エジプトのアイデアであり
キリスト教ユダヤ教よりはるか昔のものだ
ジャスティンマーター(西暦100年―165年)
キリスト教歴史学者で支持する第一人者はこう書いた

”我々の教祖イエスキリストが性交なくこの世に誕生したなら”
”十字架に架けられ死亡し生き返り天国へ登ったと言うのなら”
”神ジュピターの息子伝説を信じる者の信念と何も変わらない”
別の書物ではジャスティンはこう述べている

”彼が処女から誕生したということを真実とするなら
ギリシャ神話の神ペルセウスを信じることと同じだ”

ジャスティン及び他の者のキリスト教徒達は
キリスト教がいかに他宗教と類似しているかを明確に承知してた
しかしジャスティンには理由があった
彼の見解では
悪魔の仕業だと

キリスト生前に悪が現れ 他宗教に話を当てはめたと
キリスト教の根本はとても魅力的なんですよ

この人達は実際この世が1万2000年前にできたと信じています
その人達に聞きたいね
恐竜の化石について
彼はこう言ったよ
”恐竜の化石は神が我々の信仰を試すために地球に置いた”と
じゃあ俺もここで試されているんだろうな!
箱舟はどこ?

聖書とは天体学と神学の融合したもの以外の何ものでもなく
他の神話と何も変わらない
実際聖書の中で移行されて別のキャラクターになったものがある

旧約聖書とはヨセフの話である
ヨセフはイエスの原型である

ヨセフは奇跡の誕生から生まれ
イエスの奇跡の誕生で生まれた

ヨセフには12人の兄弟がおり
イエスは12人の弟子がいた
ヨセフは20枚の銀貨で売られ
イエスは30枚の銀貨で売られた

弟のユダがヨセフを裏切り
弟子のユダがキリストを裏切った

ヨセフは30歳で宣教活動を始め
イエスも30で宣教師となった

類似は同様に続く

では実際に?

非宗教的な歴史証拠としてイエスと言う名前の男が存在し
マリアの息子で12人の弟子達と旅をして
人々を癒したという記録があるのだろうか?
当時地中海沿岸には数多くの歴史家が住んでおり
イエスの生存前後に存在していたとされる
この中でイエスの記録を残したものがいったい何人いるだろうか?
一人もいない
しかし公平に振舞うために
キリスト支持者の反論を紹介しよう
4人の歴史家がイエスの実在について証拠を示している

”ピリニー””スートニアス””タスタィス”が最初の3人だ
だが彼らの記述はごく僅かで
”キリスト”を”クリスタス”と参照しているのみである
これは実は名前ではなく称号で
”清められし者”という意味だ

4人目の証拠はジョシーファスだ
しかし彼の証拠は偽証として数百年前から認知されている
残念だがこれは事実とされている

あなたは死から生き返った男が人々を見守るために天国に渡り
すばらしい奇跡を起こしたことは歴史上あったと思うだろう

そうではなかった
なぜならこのように一度証拠が集まると
かなり高い確率で
イエスキリストという男は実在さえしていなかった

キリスト教とは太陽崇拝でキリストという男を
太陽としたて敬意を払うパロディである

トーマスパイン 1737−1809年

我々は不親切ではなく
現実的なだけです
我々は誰の感情も傷つけたくありません
正しい教育でありたいだけです

我々が正しい認識をしているか確認するためです
キリスト教は実話ではありません
実はキリスト教とはローマ帝国時代の作り話であり
政治的理由で創られたのです
実際はイエスとは聖書の中の太陽の神で
他の宗教の神と同様に、神話上の人物だった
彼は政治的理由で社会操作するための創造上の人物である

西暦325年までにローマ皇帝コンスタンティヌスがニケーアで公会議を開いた

この議会の政治的背景によって”キリスト教理”は創作されたのだった
そして血をも流すキリスト教という神聖詐欺の長い歴史が始まった
続く1600年間バチカンがヨーロッパ全体の政治主権を握り
微笑みながら暗黒時代を”十字軍”や”宗教裁判”などで率先してきた
キリスト教及びその他全ての神の信仰制度は時代詐欺である

宗教とは自然界と生命を引き離すように働き
お互いをも引き離してしまう
それは見えない力で人を制圧してしまう

それは神が全てを支配する事で人間の責任を減少させ
変わりに醜い犯罪が神の名によって正当化される
一番重要なことは
この真実を知る者達が権力を持ち
神話を使って社会を操作し支配している

宗教神話とは人類史上最強の発明であり
人間の精神心理の奥に入り込み 神話が拡散するように働くのだ

神話とはアイデアであり 思想と広く知られている
さらに詳しく言うと
宗教上では
神話は人をまとめ 行動を起こすように機能する
狙いは現実性ではなくその機能性にある

しかし神話は国や社会で真実と受け入れられないと機能しない

これは討論の問題ではない

ふと他人に神の真実性について問いかけてしまうと
信仰者達はその討論を快く思わない
信仰者達は彼らを無視し神の恥として非難するだろう