占星コラム


2008/1/12 オリンピックおじさんのチャート


チャートの持ち主は”オリンピックおじさん”こと、山田直稔(やまだ なおとし)さんである。
オリンピックがTV中継される時は、いつも必ず日本応援団の中に袴を着て、一人だけ浮いているおじさんがいるのに皆さんも気づいたことがあるかもしれない。名前は誰も知らなくても日本国民のほとんどが彼のことを知っている。

彼は本名を山田直稔さんといい、複数の会社を経営している実業家であるが、その本業よりも、東京オリンピックから36年間もオリンピックを応援し続けているというのが本当の彼のライフワークである。これも別に誰かに頼まれた訳ではなく、山田さん自身が、応援したくて応援しているというだけである。根っからの自由人なのである。それでもその応援の長いキャリアと知名度によって、いつしかオリンピックの応援団長として認知されるようになったようである。そして、国際五輪応援団長というようにも呼ばれている。

私が山田さんとお会いしたのは昨年2007年の1月頃であり、年初のあるVIPの集まるパーティ会場であった。
主催者の許可を得て参加者の前でインド占星術の紹介をし、また会場内に鑑定のブースを設置させて頂いたのであるが、お客様は参加者の人々と交流することで忙しく、あまり注目を浴びることが出来なかった。しかし、お客さんが中々来ない中で、ひょろりと訪れてくれたのが、山田さんであった。その時も、五輪で応援する時と同じ格好をされていたので、私たちも直ぐに”オリンピックおじさん”だと気づいたのである。

彼のチャートの最大の特徴は、太陽が恐ろしく強いことである。太陽は度数が若いため、ナヴァムシャを初めとして多くの分割図でも高揚して強く、シャドバラも1.9ポイント(出生時間によって変わる)であり、平均よりも強い太陽である。

そして、この太陽には高揚する火星がアスペクトしており、その火星は減衰する木星とニーチャバンガラージャヨーガを形成している。この太陽の配置を見ると、彼がオリンピックで、日の丸の袴を着て、いつも誰よりも目立ち、存在感を示しているのがよく分かるのである。そこには自分を隠したいというような遠慮や躊躇は微塵も見られず、まるで呼吸をするかのように当たり前のように大衆の中で目立っているのである。太陽は自信やプライドを表し、正々堂々と自分を誇示する明朗さなどがあり、隠し事をしないのである。

このような強い太陽の人は生まれついてのリーダーであり、社長となり、応援団長となって、人の上に立つのは自然なことである。
太陽が強い人はその人の魂、本質が輝き出しており、ギラギラと眩しいまでの光を放つ、カリスマ的な人物である。

鑑定をしながら、世間話をしていて、いくつか面白い話が聞けたのであるが、山田さんはある時、日本の政治家に混じって、米国のカーター大統領(当時)を訪問したのであるが、彼は間違えて、カーター大統領が座るべき椅子に座ってしまい、周囲の関係者があわてふためいたそうである。彼の太陽は恐ろしく強く、カーター大統領よりも強いので、そのようなことが起こったのだろうと推測できる。カーター大統領よりも目立ってしまったというエピソードを懐かしそうに笑い話として語っていた。大変、興味深いエピソードである。
他にも興味深い点は、彼は熱心な死刑賛成論者のようなのである。彼は当時の法務大臣が、自分の信仰上の理由で、死刑の実施の印を押さない優柔不断な態度をけしからんと言って怒っていた。法務大臣に会ったときにそのことを言って死刑を実施するように言ってやったんだと、会話の中で話していた。太陽は決断力や意志の惑星であり、この太陽が高揚している人は、どんな事柄でも、決断して、実行しないことを歯がゆく思うらしいのである。太陽が強い人の長所は支配と決断であり、決断しないことは許されないことなのである。経営者とか、国家元首や大臣級の人物になれば、必ず、ある決断をしなければならない立場に立たされるのであって、いずれにしても決断をしなければならないのである。その決断する力こそが、指導者の資質である。

決断できない人間は経営者とか、国家指導者にはなれないのである。
このような観点から、こうした死刑制度についての考え方は山田さんの高揚する太陽から出て来た意見、態度、見解であると納得したのである。

もちろん、こうしたことをざっくばらんとした会話の中で気さくに話して下さったのであり、深刻な顔をして話していた訳ではなく、あくまでも楽しい世間話のレベルである。然し、非常に興味深いエピソードであった。

しかし、こうした非常にエネルギッシュな山田さんもこの時、おそらくケートゥ期に入っていたのではないかと思われるのである。
私たちが出生時間を12:00で作成したチャートでは2006年11月からマハダシャーケートゥ期に入るのである。

従って、私たちが2007年1月に山田直稔さんにお会いしたのは、ケートゥ期に入る直前か、ケートゥ期に移行した時であったかもしれないのである。そのような隠遁的な時期だからこそ、私たちは山田さんと会うことが出来たのかもしれない。

逆に言えば、ケートゥ期だったからこそ、山田さんは私たちと会い、インド占星術の鑑定を受けたりしたのだと言える。

もちろん、出生時間によって、ケートゥ期の開始時期は以下のように変わるのであり、出生時間を特定しないことには確実なことは言えないが、おそらく、去年のあの時はケートゥ期ではなかったかと思うのである。

【ケートゥ期開始時期】
出生時間が23:59の場合 ⇒ 2002年 5月からケートゥ期
出生時間が00:01の場合 ⇒ 2011年10月からケートゥ期

従って、2008年の北京オリンピックで、彼の勇姿が見られるかは、非常にあやういのである。
ケートゥ期は、人との交流を避けて、一人で居たり、人とコミュニケーションしない時期である。そのような時期にオリンピックの大舞台で、TV中継されながら、応援団長として日本の応援団をまとめる仕事をするのかどうかは疑問である。おそらく出来ないであろう。
従って、今年は”オリンピックおじさん”が見られないかもしれないのである。
日本のオリンピックの選手団にとっては残念なことである。また、我々も”オリンピックおじさん”こと、山田直稔さんの姿が見られないのは寂しいのである。




(資料1: 日刊スポーツHPより引用抜粋)

支える人々 日の丸おじさん・山田直稔氏 36年振り続ける「国際応援団長」  五輪には欠かすことのできない「名脇役」が日本にいる。国際五輪応援団長を名乗る「日の丸おじさん」こと山田直稔さん(74)は、東京から36年、シドニーで10大会連続の五輪参加を果たす。会場で大きな日の丸を振る姿は、すでに五輪の風物詩。「五輪期間中は、私であって私でない。そうでないとあんな大変なことはできない」と苦笑しつつ、シドニー五輪開幕を今か今かと待っている。  日本選手が活躍する試合場には、必ずといっていいほど多くの日の丸の小旗が揺れている。選手の関係者が用意している場合もあるが、ほとんどは山田さんが自費で用意してきた。ビニール製の特注品は、振っても棒に巻き付かず耐久性に優れているという。シドニー用にも数千本を発注する予定。「お金? みんなそれを聞きたがるけど、そんなの問題じゃない。今までの大会を累計すると、楽に1億はかかっているけどね」と笑い飛ばした。  観客席を日の丸で埋めるためにはコツがある。山田さんは、周囲の外国人にも積極的に旗を手渡す。30カ国語で「ありがとう」と書かれたパンフレットに日本の古切手と5円玉をセットにするところがポイントとか。すると、会場中の観客が次々と欲しがるようになり、あっという間に日本の大応援団が出来上がる。今では「山田さんが応援にくると、メダルの数が違う」とまで言われるようになった。  もともとスポーツ好きで、日大時代は応援団長。それが高じて、五輪の応援に人生をささげることになった。五輪では羽織はかまが定番の衣装で、大会ごとに小道具を変えてきた。「シドニーでも、ワーッて思うことをやりますよ。企業秘密だけど、楽しみ」と4年に1度の晴れ舞台を前に万全の準備を整えている。  本職は、3つの会社を経営する社長業。アイデアマンとして知られ、本人いわく「長野五輪の力士土俵入りは、私が提案した」とか。今は相撲を五輪種目にしようと活動を始め、8月8日を「笑いの日」に制定するため笑(わらい)企画という会社も興した。人生哲学は「人を喜ばせられる人が、幸せな人」。そのためには、金銭抜きで体が動き出す。「すべてはね、こういうのを通じて、世界が平和になってほしいんですよ。五輪でメダルの数は関係ない」。山田さんは、シドニーでの選手たちの笑顔を何よりも望んでいる。【五輪取材班】  

◆山田直稔(やまだ・なおとし) 1926年(大15)4月16日、富山・井波町生まれ。日大工学部卒業後、ワイヤロープ業界に入り、60年(昭35)に「浪速商事」(東京・江東区)を設立。現在はホテル業、不動産業など3つの会社の社長を務める。東京五輪から応援を始め、いつしか「団長」と呼ばれるようになった。 (2000年5月15日付)




(資料2:都築響一の珍日本紳士録 | ウルサイゾー より引用抜粋)

いざ、アテネへ! 40年目のオリンピック応援

 いよいよアテネ・オリンピック開幕である。楽しみというか、8月いっぱいテレビにくぎづけで仕事はどうなっちゃうんだろうと、非常に心配でもある。

 オリンピックといえば思い出すのが、「オリンピックおじさん」。どの競技のテレビ中継を見ても、かならず観客席で立ち上がって、羽織袴で日の丸の旗を振りまわして応援している、あのおじさんだ。いったいなんなんだろうあの人はと、だれもが疑問に思っているに違いない。

  オリンピックおじさんの本名は山田直稔(なおとし)さん。1926年生まれというから今年で78歳、工業用ワイヤロープ加工販売のトップメーカー浪速商事を率い、さらにロープ事業のほかにホテル経営、不動産事業にも進出、いまもバリバリ現役の会社経営者である。

  山田さんには浪速商事代表取締役会長のほかに、ふたつの大事な肩書きがある。政治家から芸能人まで多士済々な顔ぶれが集まる<笑おう会>の第三代会長(日本国笑裁)、そして「国際オリンピック応援団長」(インターナショナル・オリンピック・チアリーダー)だ。

 <笑おう会>は戦後の湿った世相を笑いで明るくしようと、1949(昭和24)年に第1回大会が開かれた。浅沼稲次郎代議士や俳優の早川雪洲、美容の山野愛子氏ほかの顔ぶれで、第1代笑裁が落語の金川文楽師匠。そのあとを「指圧のこころは母ごころ」の浪越徳治郎さんが引き継ぎ、山田さんが98年から3代目を務めている。年4回の<笑おう会>開催のほかに、山田さんはいま8月8日を「笑いの日」に制定しようと奮闘中だ。

  山田さんとオリンピックの出会いは、1964年の東京五輪にさかのぼる。いまから40年前になるわけだが、そこでいっぺんにオリンピックの魅力に取り憑かれてしまった山田さんは、以来今年のアテネに至るまで10大会、長野の冬季五輪も含め、すべてに参加することになる。

1968 メキシコ
1972 ミュンヘン
1976 モントリオール
1980 モスクワ
1984 ロサンジェルス
1988 ソウル
1992 バルセロナ
1996 アトランタ
1998 長野
2000 シドニー

 こうして年表にしてみるだけで気が遠くなりそうだが、山田さんはオリンピック協会の公式関係者ではないから、当然ながらすべての大会に自費で飛んでいく。その費用は1大会につき1000万円を超えるというが、それは「金を使うなら、人並みな使い方はしない。有名になってすばらしい出会いを得、なにものにもかえがたい人脈という財産をつかむ、それが金を生かして使うということ」なのだ。

 なにしろあの応援スタイルである。ただ観戦に行って、観客席に座っているだけではとうていあり得ない、素晴らしい出会いがあるだろう。羽織袴を着し、国旗を振って盛大な応援パフォーマンスを展開するのは、単に目立ちたいからではない。「人並みのことをやっていたのでは、人並みの人生しか送れない。既成の枠にとらわれない積極的な行動をしてこそ、何十倍もの感動が得られる」という、山田さんの信念に基づいたアクションなのだ。

 おそらく世界でも類を見ないオリンピック通であり(日本がアメリカに追随して不参加だったモスクワ大会にまで、足を運んでいるのだから)、「オリンピック会場で最もよく知られた日本人」である山田さんのお話には、大会にまつわる興味深いエピソードが数えきれないほど登場する。著書やウェブサイトにはそのいくつかが紹介されているので、テレビ観戦の合間にぜひチェックしていただきたいが、山田さんのすごいのは応援がオリンピックにとどまらないところ。大相撲、プロ野球にメジャーリーグ、サッカーのワールドカップにまで、いつもの羽織袴に国旗と扇子を携えて駆けつける。そのたぐいまれなエネルギーは、いったいどこから湧き出てくるものなのだろうか。

 山田直稔さんが生まれたのは富山県井波町。県南西部の八乙女山麓に広がる、人口1万人あまりの小さな町である。生家は屋根屋、薄く切った材木で瓦屋根の下地や、飯場の屋根を葺く商売だった。材木を扱うことから弁当の折り箱もつくっていたが、小学校に入学したころから、1メートルにも満たないからだに折り箱を何百も担がされ、毎朝登校前に料理屋に届けさせられたという。口を開けば「仕事しろ」という両親は、男5人、女2人の兄弟全員にきっちり仕事を与え、仕事量に応じて小遣いを与え(そのまま郵便貯金にまわされたのだが)、兄弟で貯金高を競わせたのである。

 幼いころから働くことの辛さと金の大切さをからだに叩き込まれた山田少年は、第二次大戦当時、造船所に学徒動員で送られるが、そこでも才覚を顕し教官たちの信頼を得る。敗戦後は家業の材木商を手伝い、昭和23年の福井大地震に建築資材を高値で売り抜き、大きな儲けを出して親兄弟を驚かす。そのあと大学受験に挑み日大工学部を受験するが、戦争中は学徒動員で勉強どころではなかったので、問題用紙を見てもちんぷんかんぷん。やむなく問題とは関係なく、「私という人間は、日本の復興には絶対必要です。かならず合格させてください。このような人材を入れるのは、日本のためですよ」というような意見をびっしり書き込み、面接では「入学できたら、月謝は4年間分一括で納入します」と豪語し、見事合格。「ぐずぐず考えている時間があったら、積極的に行動に移せ」の信念を、地で行ったのだった。

 入学後は、授業にも、また体育部長として運動にも熱中していた山田青年を、突然の災難が襲う。2年生の秋、体育祭に野球から陸上までフル出場、大活躍して下宿に帰ってきたその晩から発熱し、急性肺炎から結核に進行してしまったのだ。

撮影:中山清
 当時、結核は死の病といわれ、山田さんも命は助かったものの、半病人状態で学業どころではない。このまま病気が進めば命の保障はないし、それならどこか温泉にでも行って、せめて気持ちだけでも楽になってみよう、行ったことのないところへ、体力の許すかぎり足を伸ばしてみようと思い立ち、草津から青森の浅虫温泉を経て、北海道に渡る。登別温泉の男女混浴場で湯につかっているとき、ちょうど入ってきた30代半ばの美しい婦人と言葉を交わし、それが出張に来ていた東京のワイヤロープ会社の社長夫人だったことから、山田さんの仕事人生がスタートした。「戦後でだれもが貧しかった時代に、アルバイトで得た金を全部使って旅に出た。今日と明日のためだけに生き、あさってを考えまいとした。そのいさぎよさが、暗かった人生を明るさへと転換したのだろう。あのまま病気のからだを持て余して下宿でごろごろしていたら、いまごろは生きていなかったかもしれない」と、山田さんは当時を述懐する。これもまた、思い切りと行動力が、道を開いたのだった。

 すっかり病も癒えた山田青年は、卒業と同時に登別で出会ったワイヤロープ会社社長のもとで働きはじめ、持ち前のバイタリティですぐに営業に頭角をあらわしていく。昭和35年には念願の自社浪速商事株式会社を設立、ついに社長となったわけである。

 東京オリンピックが昭和39年、山田さんが初めて海外のオリンピック応援に出かけたメキシコ大会が昭和43年である。「精神的にも物質的にもゆとりができたから」というものの、海外旅行自体がまだ大事だった時代に、山田さんをそこまで駆り立てたものは、「スポーツなしになにが人生か」というほどスポーツを愛する情熱だった。それがオリンピックというスポーツ界最高の舞台を前にたぎり、やむにやまれず行動に出てしまうのであり、エネルギーは応援歴40年目の今日でも、いささかも衰えていない。なにしろ本人が語るように、「私がやるのは半端な応援ではない」のだ。「オリンピック期間中は当然仕事を休む。事前の準備にもかなりの経費と時間をかける。たとえば、それぞれのオリンピックの応援歌を作詞し、プロの作曲家に頼む。開催国の言葉で印刷するパンフレット、観衆に手渡すお土産品や小旗などの準備。これらをオリンピックごとに準備するわけだから、大変といえば大変な作業になる」(『ぶっつけ本番に勝て!』KKロングセラーズ刊より)。

 そこまで自分の持てるものすべてを投じて応援に賭けることで、はじめて競技する選手と一体になることができ、高揚感で「しばしば言葉をなくすことさえある」と山田さんは語る。オリンピック中は「常日頃では考えられないほどにこころが澄んで純粋になり、会社のこと、家族のこと、金儲けのこと、そんなことはすべて忘れてしまい、国境を越えて世界の人々を限りなく大きい愛で包み込んでしまいたくなる」。ほとんど宗教的な法悦の境地に、山田さんはそのとき遊んでいるのだろう。

 異国の観客席でひとり、浮きまくった衣裳に身を包み、懸命に日の丸を振って声を枯らす奇妙なオヤジ。彼を冷笑するのはたやすい。しかし80歳を目前にしていま現在もアテネへの準備に飛び回る情熱を生み出す、いわば無私の人類愛が、あの旗の一振り、声援の一声に込められているのを、僕らはまったく知らなかったのだ。


1926 : 富山県に生まれる。
1948 : 福井地震の際、米軍人脈と、行動力を発揮し、材木販売で大儲けする。
1949 : 全答案用紙に「私という人間は、日本の復興には絶対必要です」と書いて日本大学に合格、入学する。
1959 : ワイヤーロープを販売する浪速商事を設立。
1964 : 東京五輪開催。オリンピックの応援を開始。
1966 : メキシコ五輪開催。スタジアムに帰ってきたメキシコ人マラソン選手に「メヒコメヒコランランラン」と大声援を送り、全観客のハートをつかみサイン攻めにあう。
1972 : ミュンヘン五輪開催。男子バレー準決勝日本対ブルガリア戦で、三三七拍子の音頭を取り、会場全体を味方につけ日本チームを勝利に導く。
1976 : モントリオール五輪開催。女子バレーボールの日本対ソ連戦で審判を動かす応援をし、日本チームを勝利に導く。
1980 : モスクワ五輪開催。日本不参加にもかかわらず応援に駆けつけ友好を深める。
1984 : ロサンゼルス五輪開催。マスコットのイーグルサムの帽子をかぶった応援姿が地元の新聞に載る。
1988 : ソウル五輪開催。レスリングを中心に応援。レスリングの選手が計4個の金メダルを獲得するのに貢献。
1992 : バルセロナ五輪。レスリング会場で応援中、姿を見つけた審判団から大喜びされる。
1996 : アトランタ五輪開催。野球の日本チームを中心に応援。
1998 : 長野五輪の開会式について当時の長野市長に助言。
2000 : シドニー五輪開催。五輪とともにパラリンピックも応援。
2004 : アテネオリンピック開催。聖火リレーに参加。