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夏目漱石

2016 9/28
氏名夏目漱石
ローマ字Natsume Souseki
生年月日1867年2月9日
出生時間16:30
出生場所東京都新宿区
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職業小説家、評論家、英文学者
所属
業績
その他
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1867年1月5日江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。夏目家は代々名主であったが、当時家運が衰えていたので、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
1868年)11月新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。
1869年養父・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。
1870年 種痘がもとで疱瘡を病み、顔にあばたが残る。「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。
1874年養父・昌之助と養母・やすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。現・台東区立蔵前小学校)に入学。
1876年 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)に転校。
1878年2月回覧雑誌に『正成論』を書く。
10月錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)・小学尋常科二級後期卒業。
1879年東京府第一中学校正則科(東京都立日比谷高等学校の前身)第七級に入学。
1881年1月実母・千枝死去。府立一中を中退。私立二松學舍(現・二松學舍大学)に転校。
1883年9月 神田駿河台の成立学舎に入学。
1884年小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿。自炊生活をしながら成立学舎に通学。
9月大学予備門(明治19年(1886年)に第一高等中学校(後の第一高等学校)に名称変更)予科入学。同級に中村是公、芳賀矢一、正木直彦、橋本左五郎などがいた。
1885年 中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。
1886年7月 腹膜炎のため落第。この落第が転機となり、のち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。
1887年3月
6月
3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助が共に肺病のため死去。急性トラホームを病み、自宅に帰る。
1888年1月塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。
7月第一高等中学校予科を卒業。
9月英文学専攻を決意し本科一部に入学。
1889年1月 正岡子規との親交が始まる。
5月子規の「七草集」の批評を書き、初めて“漱石”の筆名を用いる。
1890年7月第一高等中学校本科を卒業。
9月 帝国大学(後の東京帝国大学)文科大学英文科入学。文部省の貸費生となる。
1891年7月特待生となる。
12月『方丈記』を英訳する。
1892年4月分家。北海道後志国岩内郡吹上町に転籍し、北海道平民になる(徴兵を免れるためとの説がある)。
5月 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。
1893年7月帝国大学卒業、大学院に入学。
10月高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。高等師範の校長は講道館創設者として有名な嘉納治五郎という柔道の大家だった。
1894年2月結核の徴候があり、療養に努める。
1895年4月 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄の口添えで赴任。
12月貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いをし、婚約成立。
1896年4月 熊本県の第五高等学校講師となる。
6月中根鏡子と結婚。
7月教授となる。
1897年6月実父・直克死去。
1898年10月俳句結社紫溟吟社の主宰に。
1899年5月長女・筆子誕生。
1900年5月イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
1901年1月次女・恒子誕生。
1902年9月正岡子規没。
1903年4月第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
10月三女・栄子誕生。水彩画を始め、書もよくした。
1904年4月明治大学講師を兼任。
1905年1月 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。
12月四女・愛子誕生。
1906年4月 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。
1907年1月「野分」を『ホトトギス』に発表。
4月一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。
6月長男・純一誕生。「虞美人草」を朝日新聞に連載( - 10月)。
1908年1月1月「坑夫」( - 4月)、6月「文鳥」、7月「夢十夜」( - 8月)、9月「三四郎」( - 12月)を朝日新聞に連載。
12月次男・伸六誕生。
1909年3月 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。
1910年3月 五女・雛子誕生。
6月 胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院。
8月療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜大吐血があり、一時危篤状態に陥る。
10月 長与病院に入院。
1911年2月21日文部省からの文学博士号授与を辞退。
8月朝日新聞社主催の講演会のために明石、和歌山、堺、大阪に行き、大阪で胃潰瘍が再発し、湯川胃腸病院に入院。
11月29日五女・雛子、原因不明の突然死。後の漱石の遺体解剖の遠因となる。
1913年1月酷いノイローゼが再発。
3月
5月下旬
3月 - 胃潰瘍再発。5月下旬まで自宅で病臥した。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る。
1914年4月 「こゝろ」を朝日新聞に連載( - 8月)。
11月 「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。
1915年6月 「道草」を朝日新聞に連載( - 9月)。
11月中村是公と湯ヶ原に遊ぶ。
12月 芥川龍之介、久米正雄が門下に加わった。このころからリューマチスに悩む。
1916年1月リューマチスの治療のため、湯ヶ原天野屋の中村是公のもとに転地。
5月「明暗」を朝日新聞に連載( - 12月)。
12月9日 午後7時前に、胃潰瘍により死去。戒名・文献院古道漱石居士。
1984年11月千円札に肖像が採用される。
wikipediaより引用抜粋

西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1867年2月9日江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった。 母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。
1868年11月1868年11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった。
1874年しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。
1874年家庭のごたごたのなか、1874年浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のちの台東区立精華小学校、台東区立蔵前小学校)に入学、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。
1875年養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
1879年12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の日比谷高校)に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。
中退ののちも長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、弁当を持って一中に通う振りをしていた。のち漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学するが、ここも数か月で中退。

長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
1883年2年後の1883年、英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎に入学し、頭角を現した。
1884年無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。予備門時代の漱石は、「成立学舎」の出身者らを中心に、中村是公、太田達人、佐藤友熊、橋本左五郎、中川小十郎らとともに「十人会」を組織している。1
1886年大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。
1887年3月長兄・大助と死別。
6月次兄・夏目栄之助と死別。
1889年同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。
9月房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。
1890年創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。
1891年三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別。

漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ[8]、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
1892年特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。

兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。
5月東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。
7月7日
7月8日
7月10日
7月11日
大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。

岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。
7月19日松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。
8月10日岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。
1893年3月大学を中退する。
1893年漱石は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。
1895年東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2か月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。(漱石は、英語教師として旧制松山中学校に赴任していた際に愚陀仏庵を下宿として利用した。そこでは、52日間に渡って俳人・正岡子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」に参加し句会を開いた。これは後の漱石の文学に影響を与えたと言われている。)
1896年熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。
1898年寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社からは多くの俳人が輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた。
1900年5月文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)英国留学を命じられる。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだりするが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。
1901年化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥った。
1902年9月芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。
12月5日ロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており、精神科医の同乗を知った漱石の親族は、これを漱石が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという。
1903年3月3日本郷区駒込千駄木町57番地(現在の文京区向丘2-20-7)に転入。同月末、籍を置いていた第五高等学校教授を辞任。
4月第一高等学校と東京帝国大学の講師になる(年俸は高校700円、大学800円)。当時の一高校長は、親友の狩野亨吉であった。 東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。
1904年明治大学の講師も務める(月給30円)。
暮れ高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる『吾輩は猫である』を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。
1905年1月『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
1906年漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には内田百閒・野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。
1907年2月一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。
6月職業作家としての初めての作品『虞美人草』の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。
1909年親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
1910年6月『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。
8月療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
10月容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。
1911年8月関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。
1912年9月痔の再手術。
12月『行人』も病気のため初めて執筆を中絶する。
1913年1月~6月神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。
1914年9月4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
1915年3月京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。
6月『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、『道草』の連載を開始。
1916年糖尿病にも悩まされる。
12月9日その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、大内出血を起こし『明暗』執筆途中に死去(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。
1984年日本銀行券D千円券に肖像が採用された。(2004年まで)
wikipediaより引用抜粋

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