山口百恵

氏名山口百恵
ローマ字Yamaguchi Momoe
生年月日1959年1月17日
出生時間08:00
出生場所東京都渋谷区
Rodden Rating
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業元歌手、女優
所属
業績
その他引退時は21歳(22歳の誕生日の約3ヶ月前)で、芸能人としての活動はわずか7年半程だった。引退までにシングルは31作の累計で1630万枚、LPは45作の累計で434万枚を売り上げ、1970年代最もレコードを売り上げた歌手だった。

引退後

引退後も常にマスコミやファンからの注目を集めているが、一貫して芸能界とは距離を置いており、原則メディア出演はしない。ただし作詞家として作品を提供したことがあり、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」がヒットしている。一方、マスコミが幾度となく復帰説を書き立てた。

引退直後の1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』では「人気アンケート」で4位だったため番組側は出演交渉を行ったが、「既に引退しましたので辞退します」との本人回答となり、出場はなかった[19]。2000年の『第51回NHK紅白歌合戦』、2005年の『第56回NHK紅白歌合戦』でも番組側は出演交渉を行ったという(出演はなかった)。

家庭に入ってからは2人の息子をもうけた。キルト作家としても活動する。作品が『東京国際キルトフェスティバル』等の展示会に出品されることもある。

自宅に不審者が押し入る事件も発生したが、大事もなく解決している。友和によれば百恵は、プライバシーが脅かされる生活に「私は、これ以上芸能界にいたことを後悔したくない」と漏らしたという。長男の通園に備えて自動車教習所に通い始めた頃には、教習所の周りを百恵を狙ったカメラマンが囲み、苦悩したという。

友和が人権擁護局に助けを求めた翌日には、同局の注意喚起によりカメラマンは一人も来なくなった。しかし長男の入園式の時に同局に対応を要請した際は担当者に断られ、結局マスコミが自宅、園を取り囲んだ中を強行突破する形となり、さらには強引に中にいる子供にレンズを向けたため子供が怯える騒ぎとなった。あまりの横暴に百恵は激怒、車を降りてカメラマンに平手打ちまでしたという。この出来事は翌週の週刊誌各紙に掲載された。

また、ドラマで共演し、自らが「父」と慕う中条静夫が亡くなった際は、葬儀にも出席していた。

節目ごとに多くのベスト・アルバムが発売されている。デビュー30周年にあたる2003年には未発表曲1曲を含む24枚組CD-BOX『MOMOE PREMIUM』が発売され、このヒットによりブームが再燃した。

1980年のシングル「謝肉祭」は、歌詞の中で連呼する「ジプシー」という言葉が差別的表現であるとして1990年代後半以降レコード会社が発売を自粛した。このためベスト盤CDやファイナルコンサートのDVD『伝説から神話へ -BUDOKAN…AT LAST-』も不完全な形で発売されるようになった。しかし2005年5月25日発売の『コンプリート百恵回帰』(全曲新アレンジで構成)に収録されたのをきっかけに、2006年1月18日発売のライブCD-BOX『MOMOE LIVE PREMIUM』に納められたファイナルコンサートのCD及びDVDには「謝肉祭」を含むノーカット版が収録された。そして当時のシングル・バージョンも2007年7月20日発売の廉価版CD『山口百恵ベスト・コレクション VOL.2』に収録され、9月30日に『MOMOE PREMIUM』の改訂盤として通信販売限定で発売された『Complete MOMOE PREMIUM』および『MOMOE PREMIUM update』にも収録され完全復活を果たした。

引退25年・ホリプロ創立45年にあたる2005年、百恵の楽曲を使用したトリビュート・ミュージカル『プレイバックPart2〜屋上の天使』が上演された。

2011年、母の日にちなんで2011年度「母が選ぶ理想の母」のアンケートで1位となった(2位は岡江久美子、3位は冨司純子)。
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1972年12月オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い、準優勝、20社から指名を受ける。 同番組への出演応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て自分も森昌子さんのようになりたいと思ったこと。 同番組では、審査員の阿久悠から「あなたは青春ドラマの妹役なら良いけれど歌手は諦めた方が良い」と言われる。
1973年4月
5月21日
映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。

森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。

1973年5月20日、デビュー曲の発売される前日にさいか屋横須賀店の屋上にあるステージで、地元でのお披露目として「としごろ」を歌う。
1973年10月大映テレビ制作TBS系の「顔で笑って」。この作品で宇津井健との親子役が始まり、以降宇津井健を公私共に「お父さん」と慕い、後の実際の結婚の際に仲人をお願いしている。
1974年デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり、それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。

年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。歌詞の内容は際どかったが、辺見マリや夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあった。「ひと夏の経験」を歌っていた時期のインタビューではたいてい「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」と質問されたが、百恵は全て「まごころ」で通した。
1974年同曲が大ヒットした1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツのCMでこの年の夏に共演済であった。『伊豆の踊子』は一般公募で相手役を募集したが、このグリコCMを観た『伊豆の踊子』の監督、西河克己が最終選考の中に三浦の書類を入れたと言われている。三浦とはその後もテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。
1974年10月TBSのテレビドラマ赤いシリーズ(いわゆる大映ドラマ)に出演、1作目「赤い迷路」続く「赤い疑惑」「赤い運命」でもやはり宇津井健との親子役。「赤い疑惑」「赤い衝撃」では三浦友和と共演。高い人気を集め、シリーズは6年にも及び、百恵のレギュラー出演作品は「赤い絆」引退記念作品の「赤い死線」まで6作品にもなった人気ドラマとなる。
1976年ブロマイドの年間売上成績で第1位に輝いた。この年リリースされた「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌い、新境地を開く。結果として引退まで歌うことになる宇崎夫妻の作品の数々は、大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。この二人を作家として指名したのは、周囲のスタッフではなく百恵本人だった。
1978年ファンからの声の大きかった初のオリジナル作品『ふりむけば愛』がコンビ出演のグリコCMを撮り続けていた大林宣彦監督の演出で製作され、翌年にもコンビ主演10作品記念としてオリジナル作品『ホワイト・ラブ』が小谷承靖監督で製作された。 なお、これらの映画は東宝配給ながらすべて日活撮影所で製作され、監督やカメラマンも西河ら日活出身者が大部分を占めることもあり、往年の日活青春映画、文芸映画の後継的な意味合いも持っている。

『第29回NHK紅白歌合戦』では紅組トリを務めた。白組の沢田研二と共にポップスでのトリは初。また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初。その最年少記録は破られていない。所属事務所「ホリプロ」が東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。
1979年評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』を著すなど、多くの文化人に現代を象徴するスターとして語られた。写真家篠山紀信は百恵のデビュー当時から被写体として何万枚も撮り続けて来たが、度々、印象的な写真を発表し、注目を集めた。
1979年10月20日大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。
1980年3月7日三浦との婚約発表と同時に、「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。
1980年9月引退直前同年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や三浦との初体験についても赤裸々につづられており、発売から1か月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。同書の仕掛け人といえる残間里江子にも注目が集まった。写真撮影は立木義浩。引退後の翌年1981年に文庫化されている。
1980年10月5日日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。

歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった。
10月6日ファイナルコンサートの翌日である10月6日には、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)の引退特集番組が放送された。当番組の司会者だった芳村真理と井上順のほか、百恵と同じホリプロ所属の先輩だった和田アキ子、かつて「花の中三〜高三トリオ」として活躍した桜田淳子と森昌子、女性歌手仲間として仲が良かったアン・ルイス・岩崎宏美・太田裕美・小柳ルミ子・高田みづえ・ピンク・レディー、男性歌手では「新御三家」の郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎などが、百恵の最後の雄姿を見守っていた。
10月13日現役歌手として最後のテレビ生番組出演は、10月13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』(日本テレビ、『NTV紅白歌のベストテン』の特別番組として放映)である。なお同番組の視聴率は27.1%を記録した。
10月15日正式な芸能活動の完全引退は、10月15日のホリプロ20周年記念式典で、その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。式典の後同ホテル内において午後8時半過ぎに引退記者会見が開かれたが、記者の多さから開始直後、前列にいた百名近いスチール用カメラマンと後方のビデオカメラマンとの間で揉める場面もあり中断しかねない状態だった。この会見はこの当日放送された『水曜スペシャル特番 山口百恵 今夜 旅立ち!』(テレビ朝日)で番組の終わりに一部生放送され、これが事実上芸能人として現役最後のテレビ生出演となった。
11月19日結婚式は1980年11月19日に東京都港区赤坂の日本基督教団霊南坂教会、牧師は飯清、披露宴は東京プリンスホテル・鳳凰の間で招待客1800人が出席して行われた(仲人は大映ドラマで百恵の父親役を数多く演じた宇津井健夫妻、友和側の主賓は東宝社長・松岡功、百恵側の主賓はCBSソニー会長・大賀典雄)。百恵の父親代わりはホリプロ社長・堀威夫。披露宴の司会はメインが岡田真澄、サブが徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)であった。
wikipediaより引用抜粋

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