シェリー

氏名パーシー・ビッシュ・シェリー
ローマ字Sir Percy Bysshe Shelley
生年月日1792年8月4日
出生時間22:00
出生場所サセックス州ウォーナム フィールドプレース (Horsham, England)
Rodden Rating
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業ロマン派詩人
所属
業績
その他後妻メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』の作者であり、駆け落ちの時期にディオダディ荘の怪奇談義においてシェリーやバイロンらと人造生命の可能性について語り合ったことが同作の着想のきっかけとなっている。SF作家アイザック・アシモフは短編集『ロボットの時代』において、後世にシェリーの名声が詩人愛好家や知識人階級に留まっているのに対して、アマチュア作家の妻メアリーの作品が古典のひとつとなってしまったことを、「作家の悪夢」と評している。

代表作品

ゴシック中編小説『ザストロッツィ』(Zastrozzi, 1810年)
ゴシック中編小説『聖アーヴァイン、或いは薔薇十字団員』(St. Irvyne; or, The Rosicrucian, 1811年)
思想パンフレット『無神論の必要』(The Necessity of Atheism, 1811年)
長詩『女王マッブ』(Queen Mab, 1813年)
詩集『アラスター、或いは孤独の魂』(Alastor; or, the Spirit of Solitude, 1816年)
詩『理想美への讃歌』(Hymn to Intellectual Beauty, 1816年)
詩『モンブラン』(Mont Blanc, 1816年)
長詩『イスラムの反乱』(The Revolt of Islam, 1818年)
長詩『ロザリンドとヘレン』(Rosalind and Helen, 1818年)
長詩『ジュリアンとマッダロ』(Julian and Maddalo, 1818年)
詩『ユーゲニア山中にて詠める詩』(Lines Written among the Eugenean Hills, 1818年)
詩『ナポリの近くにて、失意の歌』(Stanzas Written in Dejection, near Naples, 1818年)
劇『無政府の仮面劇』(The Masque of Anarchy, 1819年)
悲劇『チェンチ』(The Cenci, 1819年)
長詩『西風の賦』または『西風に寄せる歌』(Ode to the West Wind, 1819年)
(末句「冬来たりなば春遠からじ」("If Winter comes, can Spring be far behind?"が日本では有名)
長詩『鎖を解かれたプロメテウス』または『縛を解かれたプロミーシュース』(Prometheus Unbound, 1820年)
詩『雲』(The Cloud, 1820年)
詩『ひばりに寄せて』(To a Skylark, 1820年)
詩『うた』(Song, 1821年)
(エルガー作曲の交響曲第2番に霊感を与える)
長詩『エピサイキディオン』(Epipsychidion, 1821年)
詩『はにかみ草』(The Sensitive Plant, 1821年)
データソースwikipedia, astrodatabank


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
サセックス州ウォーナムのフィールドプレースに富裕な貴族の長男として生まれる。早くからギリシア・ラテンの古典にディドロ、ヴォルテール、ドルバックらの啓蒙思想、ウィリアム・ゴドウィンの『政治的正義』などを読んで思想の形成を行う。
イートン校在学中は上級生の「学僕(フォギング(英語版))」となる習慣に反抗し、「気違いシェリー」とあだ名されている。
1811年オックスフォード大学在学中は読書にふけるかたわら詩作を試みたが、愛する従妹がシェリーの懐疑主義を恐れたあまり恋愛は破れ、失望しつつ因習を打破しようという気概に燃えたあまり1811年『無神論の必要』(Necessity of Atheism )というパンフレットを書き、オックスフォードの書店で売り出すといった挙に出て、放校となる。
同じ年に妹の学友ハリエット・ウェストブルック(Harriet Westbrook, 1795年 - 1816年)の学校での不遇に同情し、主義であるところの「結婚の鉄鎖」への批判を抑えて彼女と結婚する。
ついでアイルランドやウェールズを放浪し、カトリックの解放を訴えたパンフレットを書く。行く先々でイギリス官憲が危険思想家シェリーの動きをひそかに監視していたとも言われている。
1814年7月28日妻やその姉との不和が深刻になった1814年、シェリーはロンドンのウィリアム・ゴドウィン邸に足しげく通っていた。そこでゴドウィン家の娘メアリーと恋に落ちる。このときシェリーには身重の妻ハリエット(Harriet Shelley, 1795年 - 1816年)と2人の間にできた娘アイアンス(Ianthe Shelley, 1813年 - 1876年)がいた。シェリーはメアリを事実上の妻とし、本妻ハリエットを「霊の妹」として3人仲良く暮らしたいと大まじめで提案し、ハリエットに深刻なショックを与える。シェリーとメアリは、道ならぬ恋に対して予想外に激怒するゴドウィンのもとを離れ、大陸へ駆け落ちした。
9月13日メアリーの妹(ただし血縁関係はない)クレア・クレモントも一緒についてきた。一行はナポレオン戦争で荒廃したフランスを抜け、スイスのルツェルンへ到達したが、金に困り、ライン川下りをしてイギリスに帰国した。イングランド南部のケント州に着いたのは同年9月13日のことだった。一行はロンドンへ戻り、家を借りて3人で住んだ。
1816年2年後の1816年、シェリーとメアリーとクレアの3人は、スキャンダルまみれの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン卿を頼って再び大陸へ出発した。メアリーは前年にシェリーとの間の最初の子を生後11日で亡くしたのだったが、このときは生後3ヶ月の男児ウィリアムを抱えていた。またしても一緒についてきたクレア・クレモントはバイロン卿の子を身篭っていた。
5月14日一行がスイス、レマン湖畔にバイロン卿が借りていた別荘ディオダティ荘(Villa Diodati)に到着したのは1816年5月14日のことだった。メアリーはこの館で小説『フランケンシュタイン』の着想を得ている(ディオダディ荘の怪奇談義)。
帰国後はキーツやウィリアム・ハズリット(William Hazlitt, 1778年 - 1830年; 本人および一族は家名を「ヘイズリット」と発音やチャールズ・ラムと知り合う。
12月10日シェリーの本妻ハリエットの遺体がロンドンのハイド・パーク内サーペンタイン・レイクで発見される。入水自殺した模様であり、シェリー以外の男の子供を身篭っていた。
12月30日その20日後の12月30日、シェリーとメアリーはロンドンの教会で結婚する。
1818年シェリーはメアリーを連れてイタリアに赴き、フィレンツェ、ピサ、ナポリ、ローマなど各地を転々としながらプラトンの『饗宴』を翻訳したり、大作『縛を解かれたプロメテウス』(Prometheus Unbound )を書き進めた。
1821年イギリス詩人ピーコックの説に反論して書いた『詩の擁護』(A Defence of Poetry )はシェリーの散文による代表作である。
同年に歿したキーツの死を哀悼して『アドナイス』(Adonais )と『ヘラス』(Hellas )を刊行した。
1822年7月8日ジェノヴァの造船業者に特注で建造させた帆船エアリアル(Ariel)に乗り、リヴォルノからレーリチへの帰途についた数時間後、ヴィアレッジョ沖で突然の暴風雨に襲われ、船が沈没した。発見されたときは息がないばかりか、身元確認も困難なほど無残な水死体となっていた(後世の絵画ではシェリーが穏やかに永眠する姿が描かれているが、フィクションである)。上着のポケットにはソフォクレス戯曲集とキーツの詩集があったという。疫病の蔓延を恐れた当局の指示で、遺体はヴィアレッジョ郊外の海岸で火葬された。そこにはバイロン卿の姿もあったが、メアリは女性は参列しないという当時のイギリスの慣習を守り、参列しなかった(後世の絵画にはひざまづくメアリの姿が描かれているが、フィクションである)。
シェリーの遺骨はローマのプロテスタント墓地に葬られ、心臓はメアリーとともにイングランド南部のボーンマスにあるセント・ピーター教区教会(The Parish Church of St Peter)敷地内の墓に安置された。ローマの墓石の表面にはシェリー生前の愛誦句が刻まれた。
Nothing of him that death fade / But doth suffer a Sea-change / Into something rich and strange
(ウィリアム・シェイクスピア『テンペスト]』より)
wikipediaより引用抜粋

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