西川きよし

氏名西川きよし
ローマ字Nishikawa Kiyoshi
生年月日1946年7月2日
出生時間00:30
出生場所高知県高知市
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業タレント、俳優、お笑い芸人・元参議院議員
所属吉本興業
業績
その他5人姉弟の長男(姉3人、弟1人)。
同じ年齢の妻はタレント・西川ヘレン。愛妻家で知られており、子供は俳優の西川忠志(長男)、タレントの西川かの子(長女)であり、西川弘志(次男)は、元俳優である。シーランド公国のロードの称号を持つ。

「やすし・きよし」としてコンビを組んで2年目の1967年7月、TBS系全国ネットの公開バラエティー番組『植木等ショー』にミヤコ蝶々、平参平、藤田まことと共にやすきよの2人もゲスト出演した(収録は東京)。当時植木等の付き人を務めていた小松政夫によると、この際、植木が優しくしてくれたことを、今でもきよしは恩義に感じているという。

京都の仕事の帰りに稽古の事でやすしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になった末、やすしは「解散や!」と怒鳴り散らしその場を後にした。後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所の偉いさんから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る。」と諭され、思いとどまる。その時に発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフが後に芸人仲間等で語られるようになり、いつしか「小さなことからこつこつと」というギャグになったとされる。

誠実な人柄で普段は穏やかだが、実は物凄い頑固者である。木村政雄は自著「やすきよと過ごした日々」の中にて、「やすしさんは我が儘を言うが、説得する余地があることも多かった。きよしさんは一度こうだ、と決めると、説得をしても絶対に動かず、我を貫き通す人だった」と回想している。

『田舎に泊まろう!』に出演した際、宿泊させてもらった個人の宅にみやげを送り続けている。

ジャンケンに負けた事がない。また、ゴルフ中、午前中は雪が降っていたが、『雪よ止め』と念じたら昼から晴天となったという。

長男忠志が高校生のころ、友達が禁止されていた買い食いをしようとしていた。しかし、忠志は「買い食いはいけない」と切り出すことが出来ず、家に電話。忠志は「お父さん、僕もカレー食べていいか」と話したところ、きよしは涙ながらに「食べてええで、学校には後で父さん謝りに行ったる」と返した。後日、きよしが一家団欒しながら「いろいろ苦労したが、大好きな家族とこうして豊かな食卓を囲めるようになった」ことをしみじみ感じ、「シアワセやなァ」と涙を流した。それを見た息子が台所で料理をするヘレンのもとへ行き、「お母さん、お父さんが『シアワセや』言うて泣いてんで」と報告したところ、ヘレンもまな板で野菜を切りながら「私もシアワセやー」と号泣していたという。
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1956年家計は苦しく、10歳のときから八百屋、牛乳配達、新聞配達(毎日新聞)などのアルバイトをするなどして家計を支えた。
1959年中学時代はサッカーに傾倒。高校でもサッカー部に所属することを希望していた。
1962年タクシー運転手だった父親が十二指腸肝炎で倒れたことから高校進学を断念しやむなく就職する。
自動車修理工に就職も手のやけどで退社、会社の先輩から「陽気で頓智がきくから」と芸の道を勧められる。
1963年17歳の時にミヤコ蝶々、藤田まこと、白木みのる、佐々十郎に弟子入り志願も尽く断られ、ようやく喜劇俳優の石井均に入門。
1964年1年後に杉浦エノスケから、人手が足りないからと吉本新喜劇に誘われ、研究生として入団。最初秋山たか志の付き人をしていたが、白木の付き人が辞めたために人手が足りなくなり白木の付き人となる、のちになんば花月で熊役で初舞台を踏み、以降端役ながら舞台に出演。しかし、マドンナ役であったヘレン杉本との交際が知れ渡る。
1965年19歳のとき、のちに妻となるヘレンと知り合った。当時はまったく売れなかったので、売れっ子のヘレンに食べさせてもらう状況だった。
1966年6月中山礼子が間に入り横山やすし(きよしと同じ高知県生まれの大阪府育ち)と漫才コンビを結成し6月に京都花月で初舞台。次第に頭角を現す。第一次演芸ブーム(1965年 - 1970年)の折、東京ぼん太の後釜として起用されたフジテレビ「お茶の間寄席」司会や、朝日放送系列の全国ネット番組「てなもんや三度笠」のレギュラー出演等で東京にも進出。
1967年7月「やすし・きよし」としてコンビを組んで2年目の1967年7月、TBS系全国ネットの公開バラエティー番組『植木等ショー』にミヤコ蝶々、平参平、藤田まことと共にやすきよの2人もゲスト出演した(収録は東京)。当時植木等の付き人を務めていた小松政夫によると、この際、植木が優しくしてくれたことを、今でもきよしは恩義に感じているという。

京都の仕事の帰りに稽古の事でやすしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になった末、やすしは「解散や!」と怒鳴り散らしその場を後にした。後日事務所に向かい解散の旨を伝えると、事務所の偉いさんから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る。」と諭され、思いとどまる。その時に発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフが後に芸人仲間等で語られるようになり、いつしか「小さなことからこつこつと」というギャグになったとされる。
1967年9月ヘレン杉本と結婚し、ヘレン杉本は引退。きよしは会社・劇団から冷遇されてしまう(当時部長だった中邨秀雄は、人気女優だったヘレン杉本と無名のきよしとの結婚に反対し、ヘレンときよし、どちらか一方の引退を迫ったという)。低迷時代、きよし、坂田利夫はヘレンに食べさせてもらっており、3人で暮らしていた。また、同時期に共に苦労したレツゴー三匹のじゅんとも親友として知られており、きよしは「坂田くんとじゅんちゃんは、いつも自分のことを心配してくれる大事な人」とコメントしている。
1970年1970年の暴行事件をはじめとした相方のやすしの不祥事でコンビ活動自粛の際も、「素人名人会」(MBSテレビ)「爆笑寄席」、「ナイトパンチ」、「パンチDEデート」(以上、関西テレビ)、「仁鶴・きよしのただいま恋愛中」、「プロポーズ大作戦」(以上、ABCテレビ)、「料理天国」(TBSテレビ)、「スター誕生!」(日本テレビ)などテレビ司会者として活路を見いだす。
1980年〜1982年さらに漫才ブーム(1980年〜1982年ごろ)では人気が頂点に達する。
1986年「中学校を出た人間が、高校しか出てない人間が、一生懸命やったらどのぐらいのことができるか、どれぐらいのことしかできないか、やってみたいです。」と参議院議員選挙に大阪選挙区から無所属で立候補し当選。義母の介護経験から福祉関連に力を入れ、3期18年間に渡る議員生活を展開してきた。参議院会派第二院クラブに所属し、福祉関係の充実を政策の中心とし政治姿勢は全体的に保守系与党寄りであった。
1994年6月参議院首班指名投票では村山富市と海部俊樹に票が分散するなか、当時、衆議院議長であった土井たか子に唯一の票を投じている。議員生活を通して政党に所属することはなく会派としての第二院クラブ消滅後は無所属の会、国会改革連絡会に所属。
2003年国会等移転特別委員長に就任した。
2004年1月同年7月の参議院選挙に立候補をせず、政界から身を引きタレントとしての活動に専念しつつ、福祉関係の仕事に従事すると発表した。
2004年6月3日政界引退を間近に控えた2004年6月3日、参院厚生労働委員会で小泉純一郎首相らに対し、議員として最後の質問を行う予定だったが突然、自民・公明の与党により審議中の年金改革関連法案を強行可決されてしまい、質問を行うことができず、採決にも加われなかった。これについてきよしは「期末試験もないまま卒業式に出て行けと締め出されたようです」とコメントした。
大平サブローとの「新やすし・きよし」での活動も行っている。
2006年8月29日日本テレビ系で自身の半生を描いた「ヘレンときよしの物語」が『ドラマコンプレックス』にて放送された。きよし役は実息の忠志。
2015年定期健診で初期の前立腺がんと診断された。
2016年1月16日治療のため休養に入ることが2016年1月16日に明らかになる。
1月20日手術を受ける
2月1日退院する
2月18日所属事務所より、2月20日放送のラジオ「ありがとう浜村淳です」から仕事復帰することが発表された。
2月19日吉本興業本社で復帰会見を行った。
wikipediaより引用抜粋


 
















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