石原裕次郎

ishiharayujiro
氏名石原裕次郎
ローマ字Ishihara Yujiro
生年月日1934年12月28日
出生時間8:00
出生場所兵庫県神戸市須磨区
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業俳優、声優、歌手、司会者、モデル、実業家、ヨットマン
所属石原軍団総帥、石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長
業績
その他兄は政治家で作家の石原慎太郎
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1951年慶應義塾高等学校に編入学。卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するが、放蕩生活に明け暮れる。
1952年バスケットボール最中に左足膝に大ケガ。
1956年映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー。
1956年この頃まで、酒とたばこと女に溺れる日々を送る(不良少年)。幼少時代から肝臓は悪かったといわれている(高校生の頃に黄疸を発症したことがある)。
1956年3月28日日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが日活での初仕事であった。
1957年自由が丘で無免許運転し右足打撲。また映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷。
1960年1960年、日本の芸能界で初めて記者会見を開いた。当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後の妻まき子である北原三枝とともにアメリカに逃れていたが、元日活社長堀久作の説得に応じ帰国、羽田空港の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされる。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされる。
1961年1961年の大けがの際、赤木圭一郎の訃報の直後に入院していたため、アメリカ支配権下時代の沖縄の琉球放送が偽の訃報を流すというハプニングがあった。
1961年志賀高原スキー場でスキーヤーと衝突し右足首粉砕複雑骨折(後に右太股腫性膿瘍の手術で入院)。
1963年石原プロモーション設立
1964年ハワイでヨット乗船中に右まぶたを11針縫う。
1965年國粹会のピストル密輸事件に絡み家宅捜索を受け、後に銃刀法違反で有罪となる。
1965年ヨット乗船中に腹痛のため大会を途中断念。
1967年右手親指骨折および左足打撲で入院。
1968年右足打撲で全治1か月入院。
1971年心労と胸部疾患(後に急性肺炎→肺結核と判明)のため映画宣伝中に入院。
1974年階段で転倒し左肩打撲(後に左鎖骨骨折と判明)。
1978年舌下潰瘍のため入院・手術。その後悪性腫瘍(舌癌)との診断を受けたが、石原本人には告知されなかった(1983年再発)。
1979年舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術し退院。
1980年1月成城の自宅(上神明遺跡内)において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。なおこれを契機に苅谷俊介は考古学に目覚めて石原プロモーションを退社している。
1981年4月『西部警察』のロケ撮影中、背中と胸に激痛が走り慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアと疑われたが、その後解離性大動脈瘤と診断され(後に右耳が難聴となる)大手術を決行。生還率3%と言われたが、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、発熱が続いた。
1984年肝臓癌が発覚し、倦怠感・腰痛の末、原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知せず)。
1986年5月
7月
高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断。7月に退院後はハワイで静養。
1987年4月ハワイから帰国直後に慶應義塾大学病院へ検査入院。
5月一旦退院した(カテーテル治療)ものの、間もなくして再入院。しかし容態悪化(高熱)、ついには幻覚症状(肝性脳症)を発する。
7月17日午後4時26分肝細胞癌のため死去。
wikipediaより引用抜粋
















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