横山やすし

氏名横山やすし
ローマ字Yokoyama Yasushi
生年月日1944年3月18日
出生時間08:10
出生場所高知県宿毛市
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業漫才師、タレント
所属吉本興業・大阪本社(現・よしもとクリエイティブ・エージェンシー・大阪本部)
業績
その他西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。

親友に中学時代の同級生で競艇選手の野中和夫がいる。

初妻(のちに離婚)との間に俳優の木村一八(長男)と長女、雅美をもうけた。

再婚した妻とはやすしの芸能界引退等を挟み、逝去まで連れ添った。

エステティシャンで漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかり(次女)は、後妻との子である。
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
高知県宿毛市沖の島弘瀬の旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。

分娩を引き受けたのが、映画『孤島の太陽』モデルとして一躍脚光を浴びた伝説の駐在保健婦、荒木初子(第1回吉川英治賞文化賞受賞)の助産婦初仕事だったという説もあるが、やすし生誕の1944年は太平洋戦争中で荒木はまだ産婆学校入学前であり、保健婦免許取得後の荒木の着任が1948年であることから誤りである。生後三ヶ月で当時高知に疎開していた木村家に養子入りし、大阪府堺市堺区に育つ。
同年代の子がラジオの歌合戦で合格したことが刺激となり、少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)に出演するようになった。元々漫才などしたことなかった木村少年だったが「漫才教室」で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、出場したことを契機に漫才師になることを決意した。生まれて始めてのネタは「僕は易者」という老易者を題材にしたもので、初めての相方は中学の同級生の岡田好弘(後の堺正スケ)だった。中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。卒業式では漫才を披露し同級生からも拍手喝さいを浴びた。
1959年堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、堺伸スケの名で同級生とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」を結成する。
5月11日角座で少年漫才師としてデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。ネタは学校の話題を振っていたためあまり受けず、やすしは後に著書「やすしの人生一直線」において「子供の発想で、子供の言葉になってしまう」、「先輩の芸をまねようとするが、大人の会話にならん」と述解している。
堺伸スケ・正スケは角座デビュー後2年で相方の正スケが廃業し解散。見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子になった。師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとするとライターを出し、出かける時は靴と靴べらを揃えるなど、弟子修業に励んだ。この態度をノックが認め、「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。
「やすし」の芸名の由来は、ノックが、「◯◯安し!」(「◯◯」は、商品名)という広告が頭の中にこびり付いていて、そこから連想して、「やすし」となった。ノックから新しい相方(後のバラクーダの岡本圭司)を世話され、内弟子修行を上がると生活苦に苛まれ、昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜は無免許でスクーターの白タクシーを行い生活費を稼いだという。この頃は喫茶店で他人の会話を聞いてノートに書くなどネタ探しに懸命だったが、相方と温度差が生じ、数回(少年時代を除くと3回という)コンビ結成〜解散を繰り返すことになった。周囲から「コンビ別れの名人」のレッテルを貼られ、自身も迷いが生じ、廃業寸前に追い詰められた。当時の相方は、年上の弟弟子の横山プリン、レツゴー正児(何れも芸名は『横山たかし』)など。
1966年西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きっかけは歌謡浪曲師の中山礼子がきよしを紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを度々迫ったという。きよしは当時はまだ研究員扱いだった吉本新喜劇を辞めて、コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われ、また新喜劇の脚本家の壇上茂が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったりと、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。
結成当初はコンビ仲が悪く、稽古のことできよしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもしばしばあった。やすしは「解散や!!」と怒鳴り散らしその場を後にし、後日吉本興業に向かい解散の旨を伝えると、吉本のスタッフから「解散するのはかまへんが、台本も出来上がってるし残った仕事してもらわんと困る」と諭され、スターだったヘレン杉本(西川ヘレン)との身分違いの結婚・寿引退をしたきよしとコンビ解散を繰り返すをやすしという当時の二人の微妙な立場もあり、結局2人は思いとどまる。その時にきよしの発した「今後も小さなことからこつこつとやらさせてもらいます」というセリフはいつしかきよしの代表ギャグとなった。
2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。やすしは著書「人生一直線」で当時のきよしを「動きや喋りがどうしても芝居風になってしまう」と見ており、またきよしがマイクを気にしてコチコチの漫才になっていたと評している。それならばと2人は動きがおもろい「どつき漫才」を目指すようになり、そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れたりするという革新的な漫才を編み出した。やすしがメガネを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。またやすしはそれまでは自身がリードしすぎる漫才スタイルであったが、漫才に不得手だったきよしをやすしが信じて自由にやらせるスタイルとなり、結果的にこれがボケ・ツッコミが激しく入れ替わる「やすきよ漫才」の基礎となった。稽古嫌いだったやすしがきよしの懇願で本格的にネタ合わせをするようになったのもこの頃からであった。
1967年やすきよはこの流れから全国制覇を目指し、結成から1年足らずで第2回上方漫才大賞の新人賞を獲得。これを契機にテレビ出演も果たした。同じ動きの笑いを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることでテレビ中継の視聴者を味方につけたという。
1969年11月そんな絶頂の最中、1969年11月に養父・庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切で通過した電車の風圧で転倒、頭部を強打し7日後に意識が戻ること無く他界した。10日後に長男の一八が誕生。やすしは父に息子を見せたいと願っていたが、その願いが叶う事はなかった。
1970年この流れをもって1970年には第5回上方漫才大賞の大賞を結成わずか5年にして受賞した。
1971年12月最初の事件となる、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件の影響で、長期謹慎を受ける。傷害事件で実況検分に駆けつけた警察官に運転免許の提示を求められ、「俺、国際免許やねん」と『グアムで国際免許を取ろう!』と書かれたチラシを見せただけで、肝心の免許証に関しては答えに窮した結果無免許が発覚した。やすしが謹慎の間に相方のきよしはピン芸人としての腕を急成長させ、さらに司会者としての才能を見出し、きよし単独での番組も増えるようになった。次第にやすしきよしのパワーバランスも微妙に変化し、復帰後もきよしが司会でやすしはその付け合せという場合になることも多くなった。
1973年最初の妻と離婚。

1973年の春にテレビ復帰を果たす。
1975年3月3歳年下の木村啓子(2008年、61才で心筋梗塞で死去)と再婚し、堺市西区の大鳥大社で挙式した。仲人はノックである。啓子夫人も再婚者で、前夫との間に1男1女がいる。
1977年4月乗車したタクシーの運転手と口論になり、「お前ら、今でこそ運転手と呼ばれとるが、昔で言えば駕籠かき雲助やないか」と吐き捨て、車に蹴りを入れ、運転手から侮辱罪で告訴された。刑事事件としては大阪地検で不起訴になったが、後の民事訴訟で大阪高等裁判所は10万円の慰謝料支払いを命じた。
1980年10月19日やすしにとっては第二子・(長女)となる光が誕生。やすしもその時、娘に対して誕生の喜びを色紙に書いた。啓子夫人に「雄ちゃん」と呼ばれていた。
1982年日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発したことで問題になった(暴言の内容は冤罪に関しての『疑われる奴の自業自得や』だった)。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発し、まったくしゃべらなかったこともある。
1984年11月渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組に穴を開けたため降板。吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。
1986年きよしが第14回参議院議員通常選挙に出馬し当選。コンビの仕事が出来なくなったやすしは酒の量が増え、趣味にのめりこむようになった。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けた時に「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。コンビ解散の噂については終始否定していたが、当選直後の対談番組でもきよしが「楽しみの少ない人のところに行ってでも漫才をやりたい」と語ったのに対し、やすしは「俺は他人のために漫才はせえへんよ」と不機嫌な表情で応対していた。その一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。やがて後述する度重なる不祥事とトラブルのために、やすしの芸人・タレントとしての価値は下落して行った。この件に関して上岡龍太郎は「ノックときよしが漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに、強い失望感を持ったのではないか」という旨の発言をしていた。また当時のマネージャーだった大谷由里子は「あれで横山さんの歯車が狂ってしまったと思う」と述べている。
1986年4月不摂生から吐血し緊急入院。退院会見で二度と飲酒しないとしていた。

※仕事先の徳島県で吐血し、この時に既に医師から「アルコール依存症による重度の慢性肝炎」との診断を受け、「このまま飲み続けたらいずれは『肝硬変』となり、あと10年で死にますよ」と酒を止めるよう警告されていたが、それでも一切無視して酒を飲み続けた。
1987年12月『スター爆笑Q&A』(よみうりテレビ(ytv)制作・日本テレビ系)で酒気帯びのまま出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒し、やすしを舞台裏でビンタして諫めたことは有名。これがとどめをさす形で番組を降板する。
1988年10月二日酔いを理由に『三枝やすし興奮テレビ』(毎日放送)の出演を直前にキャンセルしたために降板。
1988年11月下旬一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして逮捕され、一八はやすしを通じて契約解消を言い渡された。やすしは当初事件の内容を把握しておらず、女性リポーターの質問に「おい、ねぇちゃん!俺は息子には厳しく教育してるぞ」「男は喧嘩する位が丁度ええ」などとコメントしていたが、後に一八が被害者に対し一方的に暴行を加え、意識不明の重体に追いやったことを知ると記者会見で陳謝し「いくらカワイイ息子がやったこととはいえ、人を生きるか死ぬかの目に遭わしてしまって、ホンマにすんまへんでした。スンマヘン」「自分の教育が間違っていた」と、自身の息子に対する教育の過ちを認めて号泣、その責任を全て負う形で自ら無期限謹慎を申し出る。会見の直後に、少年鑑別所に収監された一八に面会した際は、「おい、反省せぇ」と言うのがやっとだったという。
1989年3月芸能界に復帰し、きよしが司会をつとめる『すてきな出逢い いい朝8時』(毎日放送制作 TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや。(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時すでに吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻、専属契約を解除する」と最後通告を受けていた。
4月コンビとして「MAGMA30」での二府四県対抗なんでもコンテストの司会を務めた。
1989年4月17日本格復帰してわずか3日後の1989年4月17日、愛車のトヨタ・ソアラ(2代目・Z20系)3.0GTリミテッドを運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性(58歳)に軽傷を負わせた。

大阪府警が取調べた結果、体内からはアルコールが検出された。事故直後の会見では、事態を余り重く見ていなかったやすしは「決して、わざわざ(事故を)しようと思うてした訳やないんで、これからも宜しくお願いします」と語っていたが、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしとの専属芸能契約を解除することを決断。事実上の解雇通告を言い渡されたやすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と嗚咽しながら話した。

当時、吉本の制作部長でマネジメント契約の解除を言い渡した木村政雄は報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたらうちとしても会社の姿勢も疑われますから」と語った。契約解除は中邨秀雄(当時・副社長)・林裕章(当時・専務)・木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだところ、「もうええ、もうよろし!」との一言であっさり決定したという。契約解除の通知書を発行したのも林裕章であった。
吉本から契約解除を通告された10日後に木村から「お話したいことがありますんで、会社まで来て下さい」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。林正之助は当日体調不良で出社していなかったため、やすしは林正之助に詫びることが出来なかった。

吉本との契約解除に伴い、完全に収入源を失ったやすしを支えるべく、啓子夫人はNHKの集金のパートタイマーとして働くなど、献身的にやすしを支え続けた。後にやすしは、苦労を掛け続けた啓子夫人への感謝の思いを込めて、自ら作詞した「一ッ星」という歌を贈っている。
1992年内田裕也主演の映画『魚からダイオキシン!!』で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった『難波金融伝・ミナミの帝王』第1作である「トイチの萬田銀次郎」に萬田の先生役で出演。漫才を演じているときと何ら変わりない演技を見せ、活動の場をVシネマなどに移す。この同作品の発売当時のビデオパッケージには「横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、きよしら吉本所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや前述の契約解除の影響で不可能になっていた。その後、学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。
7月26日第16回参議院議員通常選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務め、日本青年社などが関与する右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱(シラミ)の会」と揶揄された。落選の際に発言した「国民はアホや」は当時流行語となり、あちこちでパロディー化された。また記者が「(大阪府選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、自身は比例区の候補者で大阪府選挙区では立候補していないのにもかかわらず「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていた。しかし親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなくきよしに一票を投じたはずである」と口を揃える。なおこの選挙ではきよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。
8月6日謎の暴行事件で重傷を負い、摂津医誠会病院に緊急入院した。犯人も襲われた理由も不明で、すでに時効が成立しており「迷宮入り」となっている。

落選直後の事件であったため右翼団体や暴力団とのトラブルが当時盛んに語られており、一方で後に月亭可朝が語ったところによると、浮気相手の人妻に横山が酔って電話したところ、その人妻の夫が電話に出たためにトラブルとなり暴行されたとしている。この暴行事件でやすしは一時失語症となり表舞台から姿を消す形となったが、後に驚異の回復力で復活を果たす。
1993年豊中市の大村崑の自宅に、今後の仕事の相談にと夫婦で訪問。

やすしが「これからは夫婦で漫才をして行きたい」と話すが「それよりもまずは、君が元気でいることを世間に知らせる方が先決」と「やすしを囲む会」を提案。会には知人を含め約150人が出席したが、そのほとんどが競艇仲間で、大村と京唄子以外の芸人は誰も来ない寂しい会となった。大村はその後、やすしの葬儀で記者の問いに「生前は応援せず今になって」と怒りをぶつけたが、「大村崑が吉本に爆弾発言」との大村の思いとは別の記事になる。会には、きよしや桂三枝(現・六代目桂文枝)などの旧知の芸人も招待していたが、吉本の圧力で彼らは出席出来なかった。当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻契約解除、または解雇する」と圧力を掛けていた。
1994年腹水が溜まるなど体調が悪化し、入退院を繰り返していた。
1995年7月18日京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年の姿との落差を目の当たりにして驚いたという。
10月10日兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで、桂福團治と即興漫才を披露。これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と福團治に声をかけたという。
1996年1月21日の夜摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが、すでに心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。

死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。最後の言葉は夫人と娘に対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。

病院の医師から自宅で亡くなったと診断されたため、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。

亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったゴミ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。
wikipediaより引用抜粋
















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