志茂田景樹

shimodakageki
氏名志茂田景樹
ローマ字Shimoda Kageki
生年月日1940年3月25日
出生時間12:00
出生場所静岡県伊東市
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業作家(小説家・絵本作家)、タレント
所属株式会社志茂田景樹事務所代表取締役、芸能プロダクション「ビッグ・ブッキング・エンターテインメント」
業績
その他1940年、静岡県伊東市に生まれる。東京都立国立高等学校を卒業後、一浪を経て中央大学法学部政治学科に入学。6年かけて卒業した後は弁護士事務所に就職するも、その後はセールス、探偵、保険調査員、塾講師、週刊誌記者など、20種以上の職を転々としてきた。28歳の保険調査員時代に地方出張の移動時間を利用して読書をしているうちに作家を志すようになり、29歳の時虫垂炎と腹膜炎で長期入院したことをきっかけに短編の執筆を開始、それから仕事の傍ら作品を応募し続ける。3~4年目くらいから候補作には毎回のように挙げられるようになってきたものの受賞には至らず、メディア業界の知人から受けた「短編を書くならストーリーの面白さよりも登場人物を重視するといい」というアドバイスを参考に書き上げた『やっとこ探偵』で、1976年(昭和51年)小説現代新人賞を受賞、プロデビューを果たす。

「孔雀警視」シリーズなどのエロティックな官能を絡めた大人のユーモア推理小説をはじめ、大胆な解釈の歴史小説、伝奇小説、人物評伝、スペクタクル小説、ピカレスク小説など、ジャンルを問わない多様多彩な作品世界を構築し、その執筆スピードの速さもあいまって矢継ぎ早に発表して読者の支持を集める。特に、『孔雀警視』は女性キャリア捜査官ものとしては日本の嚆矢であり、しかも続けてこの職種を取り上げたフィクションがリアルなものが多かったのに対し(近年はようやくコミカルなものもエロティックなものも増えてきている)軽いエロティックアクションに徹している点など、先見性と独自性が際立っている。
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1940年静岡県伊東市に生まれる。
東京都立国立高等学校を卒業後、一浪を経て中央大学法学部政治学科に入学。6年かけて卒業した後は弁護士事務所に就職するも、その後はセールス、探偵、保険調査員、塾講師、週刊誌記者など、20種以上の職を転々としてきた。
1968年
1969年
28歳の保険調査員時代に地方出張の移動時間を利用して読書をしているうちに作家を志すようになり、29歳の時虫垂炎と腹膜炎で長期入院したことをきっかけに短編の執筆を開始、それから仕事の傍ら作品を応募し続ける。
1976年3~4年目くらいから候補作には毎回のように挙げられるようになってきたものの受賞には至らず、メディア業界の知人から受けた「短編を書くならストーリーの面白さよりも登場人物を重視するといい」というアドバイスを参考に書き上げた『やっとこ探偵』で、1976年(昭和51年)小説現代新人賞を受賞、プロデビューを果たす。
1976年『やっとこ探偵』で第27回小説現代新人賞を受賞。
1980年国鉄職員だった父が北海道に赴任した際に聞いた話をもとに書き上げた大作『黄色い牙』で直木賞を受賞した。
1987年4月22日「それゆけ孔雀警視」は1987年4月22日の『水曜ドラマスペシャル』(TBS)でドラマ化され、志穂美悦子が演じた。続編と第3作では賀来千香子に交代している。志茂田は『警視総監・鳳美由紀』ではこの路線をついに(しかもお色気アクションのまま)警察官最高職にまで推し進め、これは四半世紀を経た現在も未だに(映像・劇画もふくめ)フォロワーが出ていない。
1980年『黄色い牙』で第83回直木賞を受賞。
1980年代後半山本寛斎のファッションショーでモデルを務めた。
1984年『気笛一声』で第4回文芸大賞を受賞。
1990年代架空戦記小説を多数執筆、ブームの牽引者となる。分かり易さ、面白さを追求し、特に『戦国の長嶋巨人軍』はカルト的人気を博して重版を重ね、多くの作品がブームの衰退と共に個別の作品名を忘れられてゆく中、架空戦記の金字塔となった。

レントとしてバラエティ番組やドラマ番組に出演したり、ファッションブランド「KIBA」を立ち上げるなどエキセントリックな行動と存在感と名前の通り「過激」なファッションスタイル及び脚線美で注目を集めた。
キャラクター性も抜群であり、本人もタレント活動にも積極的で数多くのバラエティ番組、ドラマなどにも出演した。『ビーロボ カブタック』出演時には、同作プロデューサーから「あれほどの大作家なのに少しも偉ぶったところがない」と絶賛された。当然出演時の衣装はすべて自前である。
1992年『笑っていいとも!』レギュラー時代に志茂田が登場する時には、「直木賞作家 志茂田景樹」とクレジットされていた。また、『いいとも!』では1992年(平成4年)の特番「笑っていいとも!年忘れ特大号」のコーナー、ものまね歌合戦にて小泉今日子の「なんてったってアイドル」を歌った。唄うことが大好きで、カラオケで熱唱するのが楽しいという。また自らの講演会でも唄を披露している。沢田研二の「勝手にしやがれ」をカヴァーしており、『音痴貴族 花の歌謡大行進』というレコードに収録されている。本人が近年、Twitterでカミングアウトしたところによると、幼い頃の疾患により、音楽を聴き、表現する能力が劣ってしまったという。
こうしたタレント的な活動で注目されていた当時の執筆作品の多くが、口述筆記であったことを公言している。
1994年第13回日本文芸家クラブ特別大賞を受賞。
1996年絶版となっていた自著を「KIBA BOOKS」として自ら復刊する。
1999年妻と共に「よい子に読み聞かせ隊」を結成する。以後、テレビタレント活動、小説執筆をセーブし、自ら全国各地で読み聞かせ行脚を行い、童話・絵本執筆も手がけるほか、不登校の子どもたちの支援や心療内科を考える会など、社会的活動にも熱心である。
2008年専修大学の創設者たちを描いた歴史小説『蒼翼の獅子たち』を刊行した。また、Twitterでは、人生相談において、真摯かつ心温まる回答もあり、フォロワー数が20万人を超えた他、現在年収800万を稼ぐカリスマタクシー運転手として『タクシーほど気楽な商売は無い!』を執筆した次男の下田大気と共同で講演活動も行っている。
2014年事務所で、金庫の鍵を壊され6,000円盗まれるという事件が発生した。
2014年『キリンがくる日』で第19回日本絵本賞読者賞を受賞。
wikipediaより引用抜粋




(参考資料)



志茂田景樹 家族離散から再生の陰に「献身妻の忍耐33年」
2013年2月16日 7時0分 女性自身

'90年代に文壇のワクを超えて、ワイドショーでも人気者だった志茂田景樹さん(72)は、ここ10年ほど夫婦での絵本の読み聞かせで知られている。その志茂田さんの二男の下田大気さん(36)が、芸能活動や実業家を経てタクシードライバーに転身したのが3年前。たちまち「カリスマドライバー」と呼ばれるようになり、初めての著書『タクシーほど気楽な商売はない!』(光文社)を出版し、現在はテレビにも引っ張りだこだ。

「まあ、うちの家族は空白の期間が長かったですからね。今、こうやって両親が読み聞かせをして一緒に日本中を旅したり、僕がまたテレビに出ていること自体、不思議な気もします」(大気さん)

この「空白」とは、家族の離散を意味する。10年以上も不倫で家を空けていた父・志茂田さん。その父を許せずに日本を飛び出して、アメリカから7年間も帰ってこなかった長男・順洋さん(40)。そして事業に失敗し自己破産したばかりか暴行事件を起こした二男・大気さん。家族の空白を語るとき、大気さんが思うのは母親・光子さん(64)の存在だ。

「母がいなかったら、うちは間違いなくバラバラになっていた。そう思うと、わが家で一番の名ドライバーはお母さんなんですよ。でも、なんで、うちの両親は離婚しなかったんだろう……」

光子さんが志茂田さんと結婚したのは1969年の春。3年後に順洋さん、その4年後に大気さんが生まれた。夫が『黄色い牙』で念願の直木賞を受賞したのが'80年。すぐに編集者たちと銀座の高級クラブを飲み歩く日々が始まった。夫が家を出たのは、直木賞受賞の翌年だった。「それからは、怒りと恨みのなかで暮らしていました。でも、愛人問題で離婚しようと思ったことは一度もなかった」と光子さん。

「男の子にとって父親は絶対の存在ですから、子供の前で悪口は決して言いませんでした。女性のことも知られてはいけないと思い、『お父さんは外でお仕事している』と言い続けました。それでも子供は感じ取るものです。順洋の反抗期はすさまじくて、中学生のころ私と口論になったとき、『直木賞なんかいらない』と言った言葉を今も忘れられません」

光子さんが、父親の悪口をいっさい言わない子育てを続けていることは、当の志茂田さんも承知していた。

「もし、女房が僕の悪口を言っていたら、逆に気が楽だったかもしれない。でも、こんな僕でも待ち続けて、子供たちをしっかり育て、家庭を守った。そのことに罪の意識はありました。だから家を出たといっても、ほかの惑星に行っちゃうような飛び立ち方はできなかった。みえないクビキがあった。いつか(家族のもとに)戻るんだろうな、ということは常にありました」

現在、夫の愛人問題に悩むことはなくなり家族が再生されたとはいっても、4人が「一つ屋根の下」で暮らしているわけではない。東京近郊の志茂田さんの実家に暮らすのが光子さんと大気さん。そこから5分ほどのマンションで単身生活をするのが、『YORIZO』名義でフリーカメラマンをしている順洋さん。志茂田さんは事務所で週の大半を過ごし、週末に仕事や出張がなければ自宅に戻るという。光子さんは言う。

「100組あれば、100通りの家族の在り方があると思うんです。今の主人との距離感は、私が何十年もかかってようやくたどり着いた最も心地よい間合いなんです。最近の心配事ですか。191センチと187センチの大男の息子2人の結婚ですかね(笑)。もう、これは母の祈りです」
参照元:志茂田景樹 家族離散から再生の陰に「献身妻の忍耐33年」
2013年2月16日 7時0分 女性自身

志茂田景樹という生き方:「一貫して僕は僕。普通じゃないと言うのが偏見」
ローリングストーン日本版 2016年07月09日 18:00 BLOGOS

連載 煙たい男たち|Case28 志茂田景樹

一貫して僕は僕なんで、それを普通じゃないと言うのが偏見なんですよ

独特のファッションで現れた志茂田景樹は、麻布十番にある事務所から飯倉の交差点近くの撮影場所まで歩いてきたらしい。むしろそれぐらいの距離を歩くのは朝飯前で、時間がある時は事務所から自宅のある武蔵境まで約20キロを歩くこともあるのだという。

現在76歳だが、健康だし、煙草も酒もやめていない。撮影が始まると美味しそうに煙草を吸う。聞けば、高2の頃から吸っているらしい。「煙草を吸ってから背が伸びだして、大学3年生まで伸び続けて179cmになったんです。大学の時、井の頭公園で中学3の時にクラスで一番背が高かった171cmのヤツに声をかけられたんですけど、自分より低いところにいるから誰だかわからなかったことがありましたね」と、ユーモラスなエピソードを教えてくれた。煙草を始めた当時、志茂田が通っていた都立国立高校は旧制中学の名門で、厳しい学校だった。それでも人気のない体育館や近所の桑畑で一服していた。仲間の何人かは学校に見つかり、停学を喰らったそうだが、なぜか志茂田は平気だったという。その理由を尋ねると「うちは父親が厳しくて、僕のお姉ちゃんをしょっちゅう叱ってて。お姉ちゃんは立川の市役所に勤めていたんですが、モダンな人でね、赤いハイヒールを履いてたんだけど、親父はそれが許せなかったみたいで、ハイヒールを投げ捨てていましたから。そんな様子を見ていたから、どうやったら怒られないのか、要領を得ていたのかもしれませんね」と、煙草を燻しながら人懐っこい笑顔で答えてくれた。

そんな話を聞いて疑問に思うのが、志茂田の服装。赤いハイヒールがダメで、タイツ・ファッションを厳格な父親が許すはずがない。だが、「それに関しては全然大丈夫でしたね」と飄々と教えてくれた。

志茂田の不思議なファッションを筆者が最初に見たのは、90年代初頭に彼が『笑っていいとも!』にレギュラー出演していた時だった。紹介時、肩書きには〈直木賞作家〉とあった。当時、筆者は大学生だったが、ブラウン管の中のタイツ姿で不思議なヘアのキテレツなおじさんが直木賞作家なはずがないと思った。目の前にいる志茂田に告げると、あっさりとこう言われた。「一貫して僕は僕なんで、それを普通じゃないと言うのが偏見なんですよ。僕を変だって言う人のほうが変なんです」と。穏やかな口調のまま、彼は続けた。「だってずっとこの格好を貫いてきて、今は普通に皆こういう格好をしてるでしょ? この間も若いヤツが『志茂田さんは今の若い人のファッションをマネしてるんですよね?』って言ってきたんだけど、『僕はずっと前からこれですよ』と言ってやりました」と笑っている。

確かに今にして思えば、志茂田独特のタイツ・スタイルは何ら珍しいものではない。とはいえ、やはり80年代にはかなり風変りだった。一体、どんなふうにあのスタイルは始まったのか。

大学時代はファッション誌を愛読して流行を追っていたが、人マネが嫌で、自分らしい格好を模索し始めた。身長179cm、細身で手足の長い志茂田はガールフレンドが付けているブレスレットを「似合うから」と勧められて付けるようになった。直接のきっかけは、80年代後半、ニューヨークにデザインの修行に行っていた友人がお土産にセクシーな笑顔のマリリン・モンローが上から下までプリントされたタイツを2足買ってきてくれたことだった。最初は『これは男じゃ履けないな』と思っていたが、大学卒業後、幾つか仕事を転々とした後、作家としてキャリアをスタートしていた志茂田は、当時、執筆のため、白金の(シェラトン)都ホテルに缶詰になっていた。その時、貰ったまま放置していたマリリン・モンローのタイツにふと目が行った。そのタイツを履き、鏡の前に立ってみたら、『カッコいいじゃない!』と思った。時は5月。陽気もよく、志茂田はタイツ姿で外出をする。ところが・・・通りを歩きだすと、すれ違う人、すれ違う人、皆、ゲッ!!と驚いた顔をする。「特に中年男性は、なんだコイツ?って顔をする。今も昔も中年以上の男性は、自分の価値観からはみ出したものを理解しようとする頭がなくてダメですね。子どもと女性のほうが柔軟」と当時を振り返り語った。さらに歩いていると・・・3人組の男性とすれ違う。40代半ばで3人とも同じ会社のバッヂを付けていた。「仮名で言うと、M物産のバッヂでしたね。40代というと課長くらいでしょ。なので見た目は紳士だし、僕を見てもなんだコイツ?っていう顔はしない。でも、すれ違った後、立ち止まって絶対にこっちを見てるぞ、と思い5~6歩進んで振り返ったら、案の定、立ち止まって僕を指さしていましたね。文字通り『後ろ指』を指された。流石に恥ずかしくなってホテルに戻って着替えようと思ったんですけど、かなり歩いてきちゃったので、進むも地獄、戻るも地獄で、こうなりゃ進んでやろうと思って目的地の銀座まで歩いて行きました」。銀座で仕事をする予定だったが、仕事はせず、夜まで待ち、夜の銀座に飲みに出た。だが夜の銀座でもそのファッションは大変な騒ぎになったという。

それだけではない、当時は文壇やその他のパーティに呼ばれることが多く、そこにもタイツ・スタイルで出かけた。その時の様子こう語ってくれた。「やっぱり、どよめきますよね(笑)」

そんなパーティなどで一緒になっていた、週刊文春の記者が志茂田のファッションを面白がり、3カ月の密着取材を行い、6ページのグラビア特集で彼のファッションを紹介した。その記事に素早く反応したのがバラエティ番組のプロデューサーたちだった。テレビ番組への出演が始まり、90年、ついに「笑っていいとも!」のレギュラーに抜擢された。

テレビに出るようになると世間の偏見も減っていく。ある夜、銀座で酒の入ったサラリーマンたちとすれ違った。以前なら、『後ろ指』のパターンだ。だが、かなり前方から、志茂田を指さしている。それは、有名人を発見した時の仕草で、すれ違う時には『握手をしてください』とせがまれた。ある時は、サラリーマンの男性から肩を組まれてこう言われた。「僕もそういう格好したいんですけど、仕事柄できなくて。応援してます!頑張ってください!」と。

そこへ行くまでには、屈辱的な言葉を浴びせられたことも多々あった。行きつけの吉祥寺・ハモニカ横町の飲み屋では、酔った客から「死ね!」と言われ、酒をかけられたこともあった。一方で、ハンカチを貸してくれた人もいたという。「まぁ、人間いろいろですから」。冷静に、もう一度こう繰り返した。「中年以上の男性はホント、ダメですね」と。

志茂田のファッションは、彼の生き方のひとつの現れだ。きっかけはNY土産だったが、その前からもっと自分を解放して生きていきたいと思っていた。「人間は、生まれた時は無垢で、段々学習して知恵を付けていく。世間を渡るために悪知恵も付けてくる。それで心に余計な札が貼りついちゃってる。例えば傲慢という札、虚栄という札・・・いっぱい張りつけて心が重くなってる。札を全部取るのは難しいけど、取れるものは全部取りたいと思っていたのが、その頃。それで解放されて、身に付けるものに表出したんでしょうね」

そんな志茂田は今、SNSを通じて若い人たちの相談に乗っている。ツイッターのフォロワーは27万人。若い人たちにと、ライヴ活動で行っているラップを通して贈ったのが「太陽は近く爆発するぜ」という詩だ。詩には直接書いてはいないが、こんなメッセージを託している。〈皆、暗澹としているけれど、太陽があと50億年燃え続けるかどうかなんて全然わからない。だから好きなことをやっておけよ〉と。そして、変わらぬ穏やかな口調でこう続けた。「今の若い人って、気分よくやろうとして、自分を抑えてるでしょ。だから、皆すごくいい感じでやってるし、頭もいいけど、何か足りない気がしちゃうんですね」

志茂田は自らの気持ちを抑えることなく、偏見にもめげず、自らのファッション・スタイルを通してきた。そのスタイルの肝である、タイツは10数本を履きまわしている。そのほとんどが頂き物だそうだ。伝線したタイツは短くカットし、パンティとして履いているという。髪は40日くらいで染め直す。現在、76歳だが、新作にも意欲的で年内には長編を書きだす予定だ。

ちなみに、直木賞受賞作でもある志茂田の代表長編『黄色い牙』は国鉄職員だった厳格な父親へのオマージュだという。父親は現場主義で出世などを望む人間ではなく、生涯その姿勢を貫いた。同作の主人公、マタギのボスであり、昭和初期の近代化の波に抗い古きマタギ社会を守ろうとし、時として周囲から疎んじられもする佐藤継憲は、父親をイメージして書いたという。志茂田のブレなさは、父親譲りなのかもしれない。見た目は華やかで、物腰も口調も柔らかい志茂田の、インタヴューに答えるその眼は凛としていて気高い。

KAGEKI SHIMODA
志茂田景樹 1940年、静岡県生まれ。中央大学法学部卒業後、さまざまな職を経て作家を志す。1976年、『やっとこ探偵』で小説現代新人賞を受賞。1980年に『黄色い牙』で直木賞受賞。以降、ミステリー、歴史、エッセイなどを発表していく。1986年、ワイドショーに初登場。1999年、「よい子に読み聞かせ隊」を結成、隊長となる。同年、初の原作絵本『つきとはくちょうのこ』発表。近著に『ぼくの天国ポスト』(絵本塾出版)、『なんで! ? 納得できない...14歳のきみたちへ』(じゃこめてい出版)などがある。
http://www.kageki.jp
参照元:志茂田景樹という生き方:「一貫して僕は僕。普通じゃないと言うのが偏見」
ローリングストーン日本版 2016年07月09日 18:00 BLOGOS

探偵から作家になるまで 志茂田景樹さん
2015年4月13日 朝日新聞DIGITAL

これは27歳の時、まだ同棲(どうせい)中だった女房と、休日に上野を散歩していた時の一枚です。当時の僕は探偵社に勤務していました。この頃、探偵が主人公のドラマが流行していてカッコいいなぁと(笑)。といっても、このすぐ後にやめたのですが。

 当時の僕は迷路に入ったような試行錯誤の日々を送っていました。最初に就職した弁護士事務所のビルが陰気でカビ臭いのが嫌でやめて以来、営業マン、探偵、保険調査員、記者など20種類以上の仕事を転々としまして。当時は高度成長期でいくらでも求人はあった。今日会社をやめても、次の日面接に行けば即決採用という状況だったので迷路にいながらも、何とかなると楽観的でした。

 この後、保険会社の調査員となり、地方出張が増え、移動中や宿泊先で本を読むようになったことが小説家を目指すきっかけです。書き始めたのは29歳。盲腸をこじらせて死にかけた後です。ある出張の時、電車の中でおなかが猛烈に痛くなったのをお酒でごまかし、数日後ようやく病院にいった時には腹膜炎を併発。死線をさまよったことで1カ月入院することになりました。その時、退屈のあまり書いた小説を雑誌の新人賞に応募すると2次予選を通りまして。これは何年かやればものになると、週刊誌の記者をしながら投稿を続けました。

 自分では3年ぐらいで賞がとれるともくろんでいましたが、2次予選突破までで5年、6年と過ぎていきました。今までで一番よく書けたと思ったものが候補作に挙げられたものの選考会で落ち、すっかりへこみましてね。その頃子供が2人いて、記者の仕事でそこそこ食べられたので、「もうあきらめようか」「いや自分が一歩踏み出そうとした志を大事にしたい」という気持ちがせめぎあっていました。そんな中、女房に 「もう応募はやめようと思う」と言ってみたんです。すると「私は反対だわ」と。僕はやめたら女房は喜ぶと思っていたのですが、そう言われたことで、何か心の中にあった壁が崩れていく感覚があり、そこから書くものが変わり、ほどなく入賞。それから小説家として活動を続けてきました。

   今にして思うと職を転々として、ある意味後ろ指をさされるような時期があったことが僕のこやしになったんでしょうね。それに時代が明るかった。

 最近はツイッターで若い方の人生相談に乗ることも多いですが、今の時代はみなが非常に陰湿な不安を抱えており、それを少しでも和らげたいという思いで向き合っています。

    ◇

しもだかげき 小説家 1940年生まれ。中央大学法学部政治学科卒業。76年「やっとこ探偵」で小説現代新人賞受賞。80年に「黄色い牙」で直木賞受賞。その後、作家活動のほかにタレント、ファッションモデル教育講演など多彩な活動を行う、近年、絵本の読み聞かせの必要性を意識し「よい子に読み聞かせ隊」を結成し、隊長として全国で活動中。

◆5月5日に、最近志茂田さんが力をいれている絵本の読み聞かせのイベント「芸術体験ひろば」が開催される。読む本は「キリンがくる日」。

時間:14時30分~15時00分予定。終了後はサイン会も開催。
場所:新宿芸能花伝舎。
問い合わせは芸術体験ひろば事務局(03-5909-3060)まで。

 「家庭における読み聞かせの必要性を感じ、その活動は1998年の10月から行っています。子供たちは純粋です。特に近年、童話などから残酷なことや怖い話が省かれ、子供たちにいい話ばかり聞かせる傾向がある。でも、そういうことは実際に世の中にある。子供の判断力を養うためにもそこにフタをしてはだめなんです。命の尊さ、生きることがどんなにすばらしいかなどを小さい時から知ってほしい。そんな思いで怖さや生きる厳しさなどが入った絵本や児童書の読み聞かせをしています」

(聞き手・田中亜紀子)
参照元:探偵から作家になるまで 志茂田景樹さん
2015年4月13日 朝日新聞DIGITAL

志茂田景樹氏の次男が政界へ!“カリスマタクシードライバー”市議選出馬を表明
2015年02月17日 07時30分 東京スポWeb

ド派手ヘアで知られる直木賞作家・志茂田景樹氏(74)の次男で“カリスマタクシードライバー”の異名を持つタレント・下田大気氏(ひろき=38)が、政界を目指すことが明らかになった。本紙の独占直撃に、春の統一地方選で、地元である東京・武蔵野市の市議選(4月19日告示、26日投開票)に立候補することを表明したもの。「過去の黒いスキャンダル」「親の七光」の批判も上等――。新人候補は“父子鷹”で市政に乗り込む決意を激白した。

 下田氏はかつて“ドラ息子”と呼ばれた。自己破産も経験した。だが、2009年にタクシー運転手に転身し、年収800万円を稼ぐほど大成功。華麗なる転身を果たした。

 そんな中、今年1月に入り、意味深な情報が駆け巡った。いわく「ハンドルをマイクに持ち替えた」――。

 真相を確かめるべく本紙は2月のある日朝8時、東京・武蔵野市のJR武蔵境駅前で寒空の下、父を従え、声を張り上げて街頭演説する同氏を直撃した。

 ――武蔵野市議選に出馬すると聞いた

 下田氏:決意したのは1年前くらいからです。“カリスマタクシードライバー”としてやらせていただいた仕事も、落ち着いてきた。武蔵野市に生まれ、住み、38年。これからは、今まで助けてもらった武蔵野市民の皆さまのためにやっていかなきゃと思いました!

 ――父として息子の決断はどう思った

 志茂田氏:僕は本人がやりたいことをやればいいという主義です。僕自身は両親に干渉され、溺愛されて育った。小学生の遠足で井の頭公園(武蔵野市)に行った時、両親がついてきてね(笑い)。内心は恥ずかしかった。だから僕は、自分の子供は自由にすればいいんじゃないかと思っています。

 ――公約は

 下田氏:京都府警がタクシーと手を組んで、ご老人が徘徊していたら保護する取り組みを始めた。それを武蔵野市でやりたいですね。あとは芸能界の経験を生かし、市公認のアイドルを作ってプロデュースしたい。

 志茂田氏:告示されたら僕もフル回転で応援しようかなと思います。

 ――政党から公認を得る手もあったのでは

 下田氏:例えば民主党から公認をいただければ、市議候補レベルだと公認料として250万円ほどいただける。それを選挙活動費に充てることもできる。でも、組織に入るとやりたいことができなくなる。それに、良くも悪くも“過去”があります。

 ――悪い“過去”とは

 下田氏:もう10年以上前ですが、裏カジノに出入りしたり、傷害事件で捕まったりしました。だから、政党としてもちょっと…と遠慮するのかもしれない。

 ――その経歴は有権者から罵声を浴びかねない

 下田氏:街頭演説でいずれ罵声をいただくこともあると思う。でも今はクリーン。もともと悪口を言われても、右から左に受け流せる性格ですから。

 志茂田氏:罵声も有権者として一つの反応。批判が出てくれば「しめた」と思うくらいがいい。

 ――父親の力は

 下田氏:最大限、武器にしていこうかなと思います。「志茂田景樹の息子」とたすきをかけて、自転車に乗って町をくまなく回ろうと。

 ――それも批判されかねないのでは

 下田氏:無所属で支援者もいない。だから、それくらいしないと本当に勝てないと思います!

 ――定数は26。勝算は

 下田氏:40人くらいの立候補を予想しています。勝算は、今は半々。

 ――昨年、安倍内閣で大臣が問題視された“うちわ”や“ワイン”は

 下田氏:ええ(苦笑)。公職選挙法に気をつけて、引っかからないようにやります!

☆しもだ・ひろき=1976年8月12日、東京・武蔵野市生まれ。作家・志茂田景樹氏の次男。明星高校卒。高校時代に矢沢永吉の主演ドラマ「アリよさらば」(TBS系)で俳優デビュー。飲食店や芸能事務所の経営に挑戦するも、失敗し廃業。タクシー運転手になり、業界トップレベルの年収800万円を荒稼ぎし「カリスマ」の称号を手にした。今年1月に政治団体を結成した。
参照元:志茂田景樹氏の次男が政界へ!“カリスマタクシードライバー”市議選出馬を表明
2015年02月17日 07時30分 東京スポWeb








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