宮沢賢治

氏名宮沢賢治
ローマ字Miyazawa Kenji
生年月日1896年8月27日
出生時間7:00
出生場所岩手県花巻市 (旧:岩手県稗貫郡里川口村)
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業詩人・童話作家
所属
業績
その他仏教(法華経)信仰と農民生活に根ざした創作を行い、創作作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名付けたことで知られる。生前彼の作品はほとんど一般には知られず無名に近かったが、没後草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。


食生活と菜食主義

賢治は法華経信仰に入った後、盛高研究生になった1918年(大正7年)から5年間菜食生活をした。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、刺身や茶碗むしを少量食べたあと、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている。東京でトシの看病をするため宿泊していた旅館「雲台館」では、賢治のため精進料理を出してくれたという。家出上京中は、芋と豆腐と油揚げばかり食べ、脚気になった時は、蕎麦掻きや麦飯、冬瓜の汁を飲んだ。1921年(大正10年)8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている。

農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と外食を楽しんだ。花巻の蕎麦屋「やぶ屋」を「ブッシュ」と呼び、よく通っていた。天ぷら蕎麦とサイダーを一緒に注文するのが定番だった。また鰻丼や天丼も好物だったという。自分から進んで飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると水でも飲むように飲み干して返盃した。時にたばこを吸うこともあった。また教員仲間が集まった時、藤原嘉藤治から「人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。」と問いかけられた答えとして『ビジテリアン大祭』を書いている。

羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。ご飯はまとめて炊いてザルに移して井戸の中につりさげて置き、冬は凍ったまま食べた。おかずは油揚げや漬物、トマトなどだった。賢治の体を心配した母のイチが小豆を入れたひっつみを届けたことがあるが、受け取らなかった。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、卵も牛乳も拒否した。イチが鯉の生きぎもが肺炎に効くと聞いて、オブラートに包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞きだした賢治は涙を流し、「生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい」「これからは決してそんなことをしてくれるな」と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた。


【家族構成】

祖父・喜助
1840年9月5日生 - 1917年9月16日没
「石に金具を着せたような堅物」で家業を熱心に手伝っていたが、分家してからは古着屋兼質屋を細々と営んでいた。この店は「宮右」から分家(かまどわけ)したので「宮右かまど」と呼ばれた。


祖母・キン
1851年4月9日生 - 1913年3月12日没
紫波郡日詰町の関家から嫁ぐ。関家は富裕で碁・将棋・琴・三味線など芸事が好きだったが、キンは質実剛健な性格だった。賢治の弟の清六は、賢治の童話や詩に現れた一面はキンの持っていた芸術的素質から来たものが多いようだと述べている。


父・政次郎(まさじろう)
1874年2月23日生 - 1957年12月1日没
喜助から受け継いだ家業を盛り立て、「宮澤商店」を栄えさせる。仏教に関心が深く、自費で「花巻仏教会」を作って地元の人たちに毎年仏教講習会を催した。また民生委員、調停委員を長くつとめ、800件もの紛争をまとめた功績で藍綬褒章を受賞している。「自分は仏教を知らなかったら三井・三菱くらいの財産を作れただろう」と語っていたという。


母・イチ(旧姓・宮澤)
1877年1月15日生 - 1963年6月30日没
イチの実家の宮澤家も藤井将監の子孫で、イチの父善治の店は「宮善」と呼ばれ、雑貨商などで巨万の富を築き、花巻銀行、花巻温泉、岩手軽便鉄道などの設立に尽力した。慈愛に満ちた人柄で幼い賢治に添い寝しながら「ひとというものは、ひとのために、何かしてあげるために生まれてきたのス」と言い聞かせていたという。


妹・トシ
1898年11月5日生 - 1922年11月27日没
子供のころから成績優秀で、岩手県立花巻高等女学校でも4年間首席、卒業式では総代として答辞を務める。卒業後東京の日本女子大学校家政学部予科に入学する。女学校卒業前に音楽教師との恋の噂の記事が地元の新聞に掲載されたことに傷つき、実家を離れる進学が許可されたのではないかといわれる。女子大卒業前に入院するが、卒業を認められる。体調が回復してから母校の花巻女学校教諭心得として英語と家事を担当するが、翌年喀血、以後療養生活を送る。1922年11月27日午後8時30分死去。享年24歳。



妹・シゲ
1901年6月18日生 - 1987年9月20日没



弟・清六
1904年4月1日生 - 2001年6月12日没
賢治に代わって家業を継ぎ、建築材料の卸し小売りやモーター・ラジオを扱う「宮沢商会」を開業、賢治が嫌っていた古着商からの転換を果たす。賢治亡き後は、託された原稿の出版に奔走、全集や研究書の編纂に関わった。



妹・クニ
1907年3月4日生 - 1981年1月12日没
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1896年8月27日岩手県稗貫郡里川口村川口町303番地(のち花巻町大字里川口第一二地割字川口町295番地、現・花巻市豊沢町4丁目11番地)にて、父政次郎、母イチの長男として生まれる。
1898年11月5日妹・トシ誕生。
1901年6月18日妹・シゲ誕生。
1903年4月花巻川口尋常高等小学校に入学。
1904年4月1日弟・清六誕生。
1907年3月4日妹・クニ誕生。
1909年4月岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学、寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。
1913年3月12日祖母・キン没。
1914年3月盛岡中学校卒業。
4月肥厚性鼻炎で岩手病院で入院手術。手術後も発熱が続き5月末まで入院。
退院後、家の手伝いをしていたが、進学を許され、受験勉強に励む。
1915年4月盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で進学、寄宿舎「自啓寮」に入寮。
1916年3月農学第2部(農芸化学専攻)でただ一人の特待生に選ばれ、授業料免除。
1917年7月同じ学校の保阪嘉内らと同人誌『アザリア』創刊。短歌などを発表。
1917年9月16日祖父・喜助没。
1918年3月13日 保阪嘉内が除籍処分。
3月15日盛岡高等農林学校を卒業。研究生として引き続き在籍、稗貫郡の土性調査を行う。
4月28日 徴兵検査で第二乙種合格、兵役免除。
6月30日 肋膜炎と診断され、土性調査終了次第、退学を希望。
12月26日妹のトシが肺炎で東京の病院に入院、母と上京して看病する。
1919年萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に出会う。
東京で人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。
3月3日 トシ退院、岩手に戻る。家業を手伝う。
1920年5月20日研究生を卒業。
10月国柱会に入信。父に改宗をせまる。
1921年1月23日上京、国柱会本部を訪問。本郷菊坂町に下宿、働きながら多くの童話を執筆。
8月トシ病気のため帰郷。
12月3日稗貫農学校(のちの花巻農学校)教師となる。
1922年1月雑誌「愛国婦人」12月号、1月号に『雪渡り』発表。
11月27日 妹トシ、病死。
1924年4月20日詩集『春と修羅』を自費出版。
12月1日童話集『注文の多い料理店』を刊行。
1925年7月 詩人の草野心平の同人誌「銅鑼」に参加。作品を発表。
1926年3月31日花巻農学校を依願退職。
4月花巻町下根子桜の別宅にて独居自炊。私塾「羅須地人協会」を設立。
12月2日上京。セロ、タイプライター、オルガン、エスペラント語を習う。年末帰花。
1927年2月1日 岩手日報夕刊で賢治の活動が紹介されるが、社会主義教育と疑われ警察の聴取を受ける。以後羅須地人協会の集会は不定期になった。
1928年6月農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問。
8月10日過労で倒れ、両側肺湿潤と診断される。実家に戻り療養。
1930年5月東北砕石工場主の鈴木東蔵の訪問を受ける。
1931年2月21日体調回復し、東北砕石工場技師となる。石灰肥料の宣伝販売を担当。
9月20日商品売り込みのため上京中に発熱で倒れ、旅館で家族に遺書を書く。
9月28日花巻に帰り、再び療養生活を送る。
11月手帳に『雨ニモマケズ』を書く。
1932年3月「児童文学」第二冊に『グスコーブドリの伝記』発表。
1933年9月21日急性肺炎のため死去。戒名「真金院三不日賢善男子」。
1957年12月1日父・政次郎没。
1963年6月30日母・イチ没。
1981年1月12日妹・クニ没。
1987年9月20日妹・シゲ没。
2001年6月12日弟・清六没。
wikipediaより引用抜粋
















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