北島三郎

氏名北島 三郎
ローマ字Kitajima Saburo
生年月日1936年10月4日
出生時間不明
出生場所北海道上磯郡知内村
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業演歌歌手、俳優、作詞家、作曲家、馬主
所属作曲家・船村徹門下出身で、門下生で作る「船村徹同門会」(会長・鳥羽一郎)では名誉相談役
業績一般にはサブちゃんという愛称で呼ばれているが、原 譲二(はら じょうじ)のペンネームでも知られ、自身の楽曲の作詞・作曲ばかりでなく、自身の舞台のシナリオ・演出や、北島ファミリーはじめ、他の演歌歌手への楽曲提供など、マルチな活動を精力的に行っている
その他
データソースwikipedia


KitajimaSaburo_chart

西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1954年17歳で高校を中退後、東京の親族を頼って上京し、当初は東京声専音楽学校(1989年、昭和音楽芸術学院に改称。2007年閉校)に入学。しかし歌謡曲志向であったため、渋谷を拠点に流しの仕事をしながらデビューを目指す。この頃に北島が当時都内で下宿していたアパートの大家の娘であった雅子(後の北島音楽事務所社長→副会長)と結婚。
1959年11月30日挙式。北島がレコードデビューする約3年前の挙式だった。式に出席したのは両家あわせて21人だけだった。北島は定収がなく、夫人の両親から結婚を反対されたと後に語っている。
1960年流しの収入は3曲100円だったが、ある日羽振りのいい客が1000円を出してくれた。礼を言い1曲歌うと「明日、新橋の○○って喫茶店で待っているから来なさい」と声をかけた。その相手は北島の評判を聞きつけた日本コロムビアの芸能部長で、この時、喫茶店で引き合わされたのが作曲家、船村徹だった。この時のことを振り返り北島は「こういうちょっとした出会いなんだけど、わずかな出会いが人生で物凄い出会いになってくる」と語っている[2]。これを契機に船村門下となり、レッスンの日々となる。
1961年ある日のレッスン前、船村から「今日から他の歌はいいからこの歌を歌え、この歌を勉強しろ。」と譜面を渡される。これが後に最初のヒット曲となった『なみだ船』だった。この年には既にレコーディングも行われ、その場で船村から紹介されたのが新栄プロダクションの社長、西川幸男だった。また、この年にはギター漫才『ゲルピンちん太ぽん太』の“ぽん太”として漫才コンビでのステージも経験している。これは歌の師匠である船村がなかなかデビューのチャンスを得られない北島にステージ度胸をつけさせるため、自ら台本を書き、もう1人の弟子とコンビを組ませ、知り合いの興行師に頼みこんで仕込んだ事で、東北地方の1か月興行の前座芸人として機会を与えられたが3日ほどで「使い物にならない」と帰され、ギャラは一切もらえなかったという。ロカビリー全盛のこの頃、正統派の演歌・歌謡曲の新人はなかなか需要が無く、船村自身「あんなに(売り込みに)苦労した弟子は他にはいなかった。」と述べている。
1962年新栄プロの先輩歌手、村田英雄の「王将」のヒット記念パーティーで歌手としての初舞台を踏む。この年の3月には“呼びやすさ・親しみやすさ先行“で「北海道(北の島)生まれの三郎」という由来のもとに芸名・北島三郎と6月デビューが決定する。ただ、当時の芸能界で、「既婚の新人歌手」はありえなかったため、プロフィール上は独身とした。
1962年6月5日日本コロムビアから「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)でデビューしたがこの第一弾は不発に終わった。北島はレコーディングを済ませていた『なみだ船』を予想していたが、その予想は完全に覆された。「ブンガチャ節」は渋谷などの繁華街で流しが歌っていた春歌(猥歌)の歌詞を変えて売り出したもので、発売から1週間で放送禁止となった(歌詞の中の“キュッキュキュ~”との合いの手が「ベッドが軋む音」を連想させ卑猥だからという俗説もある)。北島自身は「テレビに3回出たら、放送禁止になっちゃった。」と語っている。
8月20日急遽発売となったセカンド・シングル「なみだ船」がヒット(公称でミリオンセラー)し、出世作となる。
1963年日本クラウンの設立と同時に同社へ移籍。クラウンレコード第一回新譜に、美空ひばりらと共に名を連ねる。また、この年紅白歌合戦に初出場。この年、長男が誕生。これを週刊誌にスクープされたことと、事務所社長・西川の勧めもあり、妻子の存在を公表する。
1965年4月
11月
この年の4月に「兄弟仁義」と「帰ろかな」、そして11月に「函館の女」と、この年リリースしたうちの3曲が大ヒットし、演歌歌手としての人気を確立。『兄弟仁義』は東映で映画化され自らも出演。これも大ヒットし、シリーズ化され、主演映画スターとしても活躍するようになる。
1972年10月9日1972年10月9日、デビューから10年間所属した新栄プロダクションから独立し、北島音楽事務所を設立。
1978年「与作」(NHK『あなたのメロディー』で公募)は千昌夫(ミノルフォンレコード)との競作となったが、親しみやすい歌詞とゆったりした曲調でヒットし、ファン層を拡大することに成功。
1980年代1980年代以降、『腹が丈夫』であったことをシャレにして自ら名づけたペンネーム・原譲二を用いて自ら作詞や作曲、演出を手がけることが多くなってゆく。
1985年8月飛行機に特設ステージを設け、機内コンサートを開催。なお、飛行機内での本格的コンサートは世界初。
1986年12月広域暴力団稲川会の新年会に出席していたことが静岡県警の捜査で明らかになり、決定していた第37回NHK紅白歌合戦への出場を辞退する(連続出場回数は23回でストップ)。
1989年4月21日1月8日の改元により制定された元号「平成」にちなんだ楽曲「平成音頭」を発表。約16万枚を売り上げた。
1997年7月北海道寿都町のイメージソング「風のロマン/弁慶岬」を発売。
9月演歌初のCDエクストラとなる「出逢い」を発売する。
1998年テレビアニメの主題歌(NHK『おじゃる丸』主題歌「詠人(うたびと)」を歌うなど、新しいジャンルへも挑戦。
2003年11月29日八王子観光大使に委嘱。
2006年10月4日古希と『芸道45周年』を祝うパーティーの席上、一番弟子で北島ファミリーの「長男」ともいうべき山本譲二を2007年に「暖簾分け」の形で独立させることと、音楽事務所の社長を妻・雅子から長男・龍に交代させることを発表し、周囲を驚かせた。なお、北島は「今後も山本を支援し続けることに変わりはない」と明言している。そうした動きの一方で、同月15日に発売した「あの日時代」がオリコン演歌・歌謡チャート(注・シングルチャートではない)で、最高位1位を記録(同チャート1位の史上最高齢記録を更新)。
2009年デジタル放送推進協会の「日本全国"地デジで元気!"」キャンペーンのキャンペーンソングとして「地デジで元気!音頭」を作曲し(原譲二名義)自ら歌った。翌年6月、総務省から地上デジタルテレビ放送への対応を呼びかける「地デジ化応援隊」のメンバー6人の内の一人に選ばれた。
2010年3月4日放送文化の向上に功績のあった人物を表彰する「第61回日本放送協会 放送文化賞」受賞が決定。3月29日には「北島三郎 特別公演」の名古屋・御園座公演千秋楽で「座長公演4000回」の大記録を樹立した。また、結婚50周年を迎えるこの年の1月、シングル『夫婦一生』をリリースしオリコンチャート10位を獲得、10万枚を売上げた。ソロでは73歳3ヶ月でのシングル・アルバムチャート共に10位以内の獲得は史上最年長での記録である。
10月同曲が日本レコード協会のゴールドディスク認定を受け、日本におけるゴールドディスクの史上最年長記録を更新した。
2011年2月22日第32回松尾芸能賞・大賞を受賞。3月29日、授賞式が行われた。同年“芸道50周年”を記念する「北島三郎 特別公演」が東京(日生劇場)、福岡(博多座)、名古屋(御園座)、大阪(新歌舞伎座)の4大劇場で上演され、芝居では人気の高かった演目『清水の暴れん坊』を10年ぶりに再演。75歳にして清水次郎長と森の石松の2役に挑んだ。
2013年11月25日この日、第64回NHK紅白歌合戦への通算50回目の出場が発表された事を受け、この出場を最後にNHK紅白歌合戦への出場を「引退」することを発表した。50回目、自身の喜寿という節目であることや、年々減少する紅白の「演歌枠」など演歌界の危機的な状況を受け、自ら引くことで世代交代を進めたいとの意向もあるとされた。また、美空ひばり、五木ひろしと並ぶ、歴代最多の13回目となる大トリを務めることが内定した。実は芸道50周年を迎えた2011年に紅白引退を発表する予定だったが、この時は3月に東日本大震災が発生し翻意した経緯がある。
12月5日北島自ら渋谷の日本クラウン本社でこの事に関して会見に臨み、「50回目の出場を区切りに1本の線を引きたい」とし、その理由について「先輩がいつまでも壁になっているのもよくない。歩いてきた道を譲るのも先輩の役目かもしれない」と語るとともに、「多くの人の支えがあって50回もやってこられた。心からありがとうと伝えたい」とファンへの感謝を述べた。これに合わせて、毎年上演してきた座長公演も「公演も決まってるところは頑張ってみるけど、それ以上はきつくなってきた。(座長公演についても)来年いっぱいで線を引いてみようと思う」とスケジュールが決まっている2015年1月の博多座公演を以て勇退する意向を示した。歌手活動については「僕はプロ。『さすがだな』と言われる限りは、80歳でも90歳でも(歌は)やっていきたい」と引退を否定、継続することを表明した。
12月31日紅白歌合戦での北島の紅白引退ステージは、正規両軍トリ歌唱後、対戦を越えた「究極の大トリ」としてステージを務め、歌唱後の「紅白卒業宣言」で50.7%の瞬間最高視聴率を記録した。出演後の取材で北島は「これでほっとした。一つ何かが終わった気がする。さみしさもあるが、引退ではないので、次の道をしっかりやろうと思う。紅白(引退)という一つの線は引いたけれども、これから前を向いて歩いていこうと思う」「生活の歌である演歌を変わらず歌っていく。アメリカのジャズ、フランスのシャンソン、日本の演歌はこれからも変わりません」と、歌手としてのさらなる意欲を語っている。
2014年4月21日新宿区のホテルで「北島三郎最終公演」の制作発表会見を行い、改めて大劇場での1か月間の座長公演から引退する事を正式発表した。ただ、今後も要請があれば短期間の舞台公演には出演し、コンサートは継続する意向を明らかにしている。「北島三郎最終公演」は8、9月に東京・明治座、11月に大阪・新歌舞伎座、2015年1月に福岡・博多座で開催。第1部の演目は「国定忠治」、第2部の歌謡ショーでは大規模なセットを組み代表曲を歌う予定で「最後だから、お客さんが“スゲーな”って言ってくれるようなのを豪華版でやりたいね」と抱負を語った。座長公演引退後については「一生懸命この(歌の)道を歩いて、いろんな地方に行って感謝、恩返しの公演を行いたい」としている。この公演を完走すると、通算公演数は4578回に達する。
7月20日実弟で北島音楽事務所常務取締役だった大野拓克が肝臓がんのため67歳で死去。この2か月前から体調を崩して入院加療を続けており、臨終の際には北島も立ち会った。24日の通夜、25日の告別式では施主を務めている。
9月23日明治座で行われた『北島三郎最終公演』夜の部で、通算公演回数4500回を達成。明治座での歌手の座長公演としては国内最多となる。ちなみに最終公演の演出担当には7月に死去した弟・大野拓克も名を連ねていた。
2015年8月8日NHK『思い出のメロディー』に歌手兼総合司会の立場で出演。当時の年齢が78歳であり、これは番組最年長司会となっている。また出演歌手としてはトリを務めた。
2016年2016年春の叙勲で旭日小綬章を受章。
wikipediaより引用抜粋
















スポンサーリンク


スポンサーリンク