佐藤栄作

氏名佐藤栄作
ローマ字Sato Eisaku
生年月日1901年3月27日
出生時間8:00
出生場所山口県熊毛郡田布施町
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業鉄道官僚、政治家
所属
業績総理として日韓基本条約の批准や非核三原則の提唱、「核抜き本土なみ」の沖縄返還をなし遂げ、7年8か月の連続在任記録を持つ。これは連続在任期間としては歴代最長である。また、平和外交が評価されノーベル平和賞を受賞する。
その他内閣官房長官(第4代)、衆議院議員(11期)、郵政大臣(第3代)、電気通信大臣(第3代)、建設大臣(第7代)、北海道開発庁長官(第4・21・22代)、大蔵大臣(第64代)、通商産業大臣(第22代)、科学技術庁長官(第12・13代)、内閣総理大臣(第61・62・63代)などを歴任。
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1907年小学校に入学した。小学校の頃のあだ名は色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家の側の小川で、真っ黒になって泳いだ。 また、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」と挨拶し、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある。
1921年4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。
1923年12月高等文官試験(行政)合格。口述試験はあっさりしたものだった。試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方が余程悪くて、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている。
1924年4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。
1924年5月鉄道省に入省。主に鉄道畑を歩いたが、地方勤務が長かったり、左遷を経験したりと、革新官僚として早くから注目された兄・信介と比較すると曲折ある前半生だった。
1934年在外研究員として海外留学。1年目は米国、2年目は欧州に滞在した。研究題目は「欧米における運輸について」。ニューヨークとロンドンを拠点にしながら、米国各地の他、カナダ、メキシコ、英国、スイス、ドイツ、フランス、イタリアなど幅広く視察している。
1940年鉄道省監督局総務課長、翌年、監督局長となり、全国の鉄道・バス会社の整理統合の政策的促進を図るため陸上交通事業調整法の立法・運用に腐心。当時、早川徳次と五島慶太により東京地下鉄道(現.東京地下鉄)経営権争奪戦が展開されていたが、政府は1941年に同法に基づく帝都高速度交通営団(営団地下鉄)を成立させ、これを調停した。このとき、栄作は、「私鉄二社の無駄な競争をやめさせ、営団に一本化すべき」との主張からこれを主導した。

1944年4月大阪鉄道局長となる。大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍と対立したためとする説がある。長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている。
1945年3月13日- 14日1945年3月13 - 14日の大阪大空襲の際、3月13日朝に大阪市電気局(現・大阪市交通局)局長に対し「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話で警戒を促した。
左遷されていたことが幸いして、岸が遭った公職追放からは免れることができた。
1947年社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、当時運輸次官だった佐藤は西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。
1948年退官し、民主自由党に入党した。
遠縁に当たる吉田茂とは早くから親交があり、第2次吉田内閣で非議員ながら入閣。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格となる。
1949年総選挙に当選してキャリアを重ねるも、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚して逮捕寸前になった際に、法務大臣・犬養健に検察指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた。その後、政治資金規正法違反で在宅起訴されるが、「国連恩赦」で免訴となる。
1964年7月
11月
佐藤は池田勇人の3選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。池田、佐藤に藤山愛一郎を加えた三つ巴選挙戦は熾烈を極め、各陣営からは一本釣りの現金が飛び交い、「ニッカ、サントリー、オールドパー」という隠語が流布するまでとなったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月、池田の病気退陣に伴い、実力者による党内調整会談を経て、池田裁定により自民党後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した。

池田は協力を得た河野一郎を強く推したが、吉田茂、岸信介、佐藤栄作から東大、帝大、官僚ではなく党人派の河野では断じて許されない旨の強い説得に屈した。
総裁公選のすぐ後に当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも兄・岸信介の総理総裁の就任の仕方と同じとなった。田中角栄はのちにこれについて、「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語っている。
首相在任中は、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准、日韓基本条約の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決、内閣総理大臣顕彰制定等を行なった。

1965年1月12日1964年10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安保条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている。
1965年8月19日那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発し、沖縄返還に執念を燃やした。1965年1月のジョンソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残るが、結果的に在任中に返還を実現させた。
1967年11月また外交ではベトナム戦争における北爆を支持し左翼団体から猛反発を浴び、1967年11月には官邸前での焼身自殺事件までも引き起こされた。反共産主義で一貫して親台派アンチ中共の立場を取り続け、中華人民共和国の国際連合加盟に総理在任中は反対し続け野党だけでなく自民党内の親中派からも反発を招いた。
1967年12月11日衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。
1970年自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に4選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤4選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつけること」を大義名分に、三木武夫を破り現在まで唯一・最多の自民党総裁4選を果たした。4選直後の党大会において浜田幸一が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う」と発言したことが語り草になっている。
しかし、4選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」を巡っての後継争いが早くから激化した。ニクソン・ショック(1971年7月15日および8月15日)や沖縄密約事件(1972年(昭和47年)3月27日)が相次いだことや、通訳を務めた外交官の誤訳が起因とされている日米繊維交渉の拗れ、統一地方選挙における革新陣営の台頭等で佐藤政権の求心力は弱まっていった。
1972年5月
7月5日
佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、総裁公選も田中が宿敵の福田を破って勝利した(1972年7月5日)。
1972年6月17日退陣表明記者会見の冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね?テレビカメラ…。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。

内閣官房長官として同席していた竹下登の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」と抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、新聞記者達は「じゃあ出ましょうか!出よう出よう!」と全員が退席し、がらんとした会見場で、佐藤はひとりテレビカメラに向かって演説した。

なお竹下によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が話が違うといって怒り、それに対して見送りのつもりで来ていた記者らも腹を立てて退席することとなったという

その日の朝日新聞夕刊は、事の顛末を「…ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械に向かって一人でしゃべっていた」と突き放すように締めくくった。全国紙が時の首相を「一人でしゃべっていた」などと書くのは前代未聞の出来事だった。
7月6日佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として7年8ヶ月に亘る長期政権を終えた。
1974年晩秋田中金脈問題が騒がれ始める中、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した(受賞に関する詳細は後述)。賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力する等世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定されている。
1975年5月19日築地の料亭「新喜楽」で、財界人らとの宴席において途中でトイレに行こうとして立ち上がったところで崩れるように横倒しとなり、すぐいびきをかき始めたという。現在の日本ではすぐにでも救急車を呼んで病院に運ぶのが常識だが、当時は逆で、すぐ駆け付けた慶應義塾大学や東京大学の医師団や家族も誰も病院に運ぼうとしなかったという。倒れた原因は脳溢血。寛子夫人の強い意向で4日間「新喜楽」で容態を見た後、東京慈恵会医科大学附属病院に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後、6月3日に死去。74歳だった。
6月16日日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行われた。葬儀委員長は、田中角栄。遺族代表は兄・岸信介だった。
浄土真宗本願寺派第23世門主・勝如より法名「作願院釋和栄」を受け、また山口県の佐藤家菩提寺より「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けている。墓所は東京都杉並区永福の本願寺築地本願寺和田堀廟所と山口県田布施町にある。
1996年から1997年倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記』(全7巻)が朝日新聞社より、1996年から1997年に刊行された。
wikipediaより引用抜粋




(参考資料)



性格

癇癪持ちで、じっと我慢は苦手だったという。発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若い頃主人に殴られたことがある」と洩らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。

自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。東宮侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言した時は、「無礼じゃないか!おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた。

短気な一面については、長男の龍太郎が父・栄作について「『待ちの政治家』と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...」と述べている。

首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。1972年(昭和47年)に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出て行ったという。
参照元:wikipedia 佐藤 栄作

対人関係

無愛想な反面、面倒見のよいところもあり、竹下登の述懐によれば、鉄道官僚時代には敵対していた国鉄労組OBの引退後の生活を心配し、折に触れては何くれとなく世話を焼いていたという。人並み以上の義侠心や涙もろさ、あるいは義理人情の厚さといった日本的美徳の持ち主だが公式の政治の舞台でこれらが表にでることはなかった。そうした感情を表に出さずに仮面を被り続けた佐藤は、『栄ちゃんのバラード』という反戦フォークソングから柳家つばめの『佐藤栄作の正体』に至るまで格好の標的であり続けたが、これに対して寛容な態度をとれない不器用な人物でもあった。

『佐藤栄作日記』では、総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが伺い知れる。好まれた一人に宮澤喜一がおり、宮澤の知性を佐藤が評価したためといわれる。一方、政敵・河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したとされ、冷酷な一面を覗かせた(日記にも残忍たげたげしい人が去ったという趣旨の記述がある)。

なお、首相退任後、昭和天皇と香淳皇后との金婚式の際に昭和天皇が事前に断っていたにもかかわらず、黒松の盆栽を持ってきたため昭和天皇を困惑させたことがある(皇室経済法によって、皇室財産の譲渡及び取得は国会の議決が必要なため、昭和天皇は外国元首からの儀礼的なプレゼント以外は受け取らない方針をとっていた)。結局、宮内庁長官・宇佐美毅との協議の結果、この盆栽は佐藤に返すことになった。この他にも、佐藤は香淳皇后に反物を献上しようとしたが、昭和天皇から断られている。昭和天皇は「佐藤は何を考えているんだろうね」と困惑していたという。昭和天皇は、当時の田中内閣に対し、高価な贈り物は持ってこないよう異例の申し入れを行っている。
参照元:wikipedia 佐藤 栄作

マスコミとの関係

マスコミ嫌いで知られ官房長官時代から社説に酷評されていた。特に朝日新聞を毛嫌いしており日記において名指しで「征伐にかからねばならない」と書かれたことがある他、秘書官を務めていた楠田実に新聞記事や週刊誌の記事に対する抗議を命じ時には楠田自身も板ばさみで悩んでいた様子が楠田の著書や日記に記されている。特に自らの意図と違う報道をされた際には激怒したという。しかし前述の通り、没後に日記は朝日新聞社から刊行された。
参照元:wikipedia 佐藤 栄作









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