ルドルフ・シュタイナー

氏名ルドルフ・シュタイナー
ローマ字Rudolf Steiner
生年月日1861年2月27日
出生時間23:15
出生場所バルカン半島 クラリェヴェク(Donji Kraljevec, Croatia, 46n22, 16e39)
ナクシャトラ(Asc)スヴァーティー
ナクシャトラ(Mo)プールヴァパールグニー
職業神秘思想家、哲学者、教育者
所属
業績ゲーテの自然科学論や学芸雑誌の編集に携わりながら、前衛的な団体やアナキズムの傾向をもつ人々と関係するようになり、ニーチェ主義的な自由思想の立場に至るが、神秘思想の講演者に転身し、人智学(アントロポゾフィー)と称する精神運動を創唱した。人智学運動は神智学協会の神智学運動から派生したものであるが、インド思想に傾倒した神智学協会よりもキリスト教神智学に近い性格をもっており、ロマン派の自然哲学、グノーシス、薔薇十字思想の流れも汲んでいる。

シュタイナーの思想はカール・グスタフ・ユング、パウル・クレー、アルベルト・シュヴァイツァーにも何らかの影響を与えた。ドイツ哲学研究者の三島憲一は、1970年代以降のドイツで緑の党に集まった知識人たちのなかに人智学に学んだ人々が多いと述べているが、その一方で、1920年代にヴァルター・ベンヤミンはシュタイナーについて「前近代への願望でしかないと見て深く軽蔑していた」(三島 2002 : 596)とも指摘している。
その他
データソースwikipedia, 2チャンネル


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1861年2月27日オーストリア帝国の国境近くの町クラリェヴェクにて、オーストリア南部鉄道の通信技師として働く鉄道公務員ヨーハン・シュタイナーとその妻フランチェスカの第一子として誕生(両親は低地オーストリア出身で、前年5月16日に結婚)。
1862年メートリングへ転居金星/ケートゥ
太陽/太陽
1863年年頭、わずか半年でメートリングを去り、ポットシャッハ(いずれも現在のオーストリア領)へ転居。8歳までそこで生活する。妹レオポルディーネと弟グスタフが生まれたのもこの土地である(家族は合計5人)。
1868年この頃、物質界を超えた超感覚的世界(精神界)を感知するようになったという。
1869年父親の転勤のため、ノイデルフルへ転居する。
1870年学校の代用教員に幾何学に関する本を借り、幾何学に魅了される。
1871年カトリック教会のミサに出席し、大きな感銘を受ける。教区のリベラルなカトリック神父を通して地動説を知る。フリーメイソンリーの支部に出会う。ノイデルフルから5km離れた隣町ウィーナー・ノイシュタットの医師カール・ヒッケルを通してドイツ文学を知る。駅にある無線電信で電気を知る。読むことは問題なかったが、正しく文字を綴ることに苦労する。
1872年隣町ウィーナー・ノイシュタットにある実業学校に徒歩で通学する。一年生の時には学習に苦労するが、徐々に学力をつけ、最終的には「優等生」と評されるようになる。
1873年学校の年報の中にあった原子と分子に関する論文に触発され、自然科学の文献を読みあさる。
1874年機械論的な世界解釈と、大好きな幾何学に没頭する。
1876年ヒッケル医師を通して哲学者テオドール・レッシングを知る。
1877年小遣いを貯めてカントの『純粋理性批判』を購入し、一人で読みふける。またヘルバルト主義的哲学の研究にも没頭する。
1879年実業学校を卒業。
1879年8月インツァースドルフ(ウィーンから南東南へ約5km離れた近郊都市)への転勤のため、そこから2km離れたオーベルラーに住む。実業学校の卒業生には大学入学資格がなかったため、奨学金を得て高専に進むことにする。入学までの夏休みには(新学期は秋に始まるので)フィヒテの知識学に没頭する。
10月ウィーン工業高等専門学校(現ウィーン工科大学)の実業学校教職コースに入学し、主に数学、生物学、物理学、化学を学ぶ。また、ウィーン大学などでも聴講生として講義を聞く。事物の根本をすべて物質に還元して説明する自然科学と自身の霊的経験とのギャップに悩む。
1880年この頃、通学の汽車の中で薬草収集人フェーリクス・コグーツキ (Felix Kogutzki, 1833-1909) と出会い、交友を深める。後にトルマウの自宅を度々訪問するようになり、かれを通じて、人類の歴史の中で密かに霊的な叡智が受け継がれてきたことを知り、これまで人に話してこなかった自分の霊的な経験を語る。
1882年家族はブルン・アム・ゲビルゲ(ウィーンから南西へ約10km離れた都市)に転居。
この頃、コグーツキの紹介で、シュタイナー自身が“霊的な教師”と呼ぶ導師(マイスター)に出会う。その無名の男から人生についてのアドバイスをいくつか受けたという。
『原子論的概念に対する唯一可能な批判』と題する論文をフリードリヒ・テオドール・フィッシャーに送る。この頃シュタイナーは、音楽に対して非常な難色を示すようになり、決定的な反ワーグナーを主張するようになる(後には「音楽で霊的秘儀を解釈しようとしているリヒャルト・ワーグナーを研究しなければなりません」と語っている)。
1883年3月当時の著名な出版家ヨーゼフ・キルシュナー(1853年-1902年)は、ドイツ文学史の教授カール・ユリウス・シュレーアー(1825年-1900年)の紹介で、無名の学生であった22歳のシュタイナーの才能に注目し、ゲーテの自然科学に関する著作を校訂して序文を書く仕事を依頼する(『ゲーテの自然科学論文集』は翌1884年に第1巻が上梓され、14年後の1897年に全5巻が完成)。
シュレーアーを通してゲーテに触れ、ゲーテに関する基礎的な研究を始めた。この頃『ファウスト』を初めて読む。霊を否定する近代の自然科学では生命の本当の姿を捉えることはできないと考えるシュタイナーは、自然(物質)と霊(精神)の間の架け橋を示すゲーテの世界観に可能性を感じる。シュタイナーはシュレーアーの観念論をさらに発展させ、自らそれを「客観的観念論」と呼ぶようになる。ライトリンガーの実験室にて、物理学講座を選択し、特に光学に関する知識を得、後の『ゲーテの色彩論』の編集の際に、光の本質を理解するための基礎を築く。
10月教職資格を取得することなくウィーン工業高等専門学校を中退。
1884年木綿商を営むウイーンのシュペヒト家で家庭教師としての副業を開始する。その10歳になる息子は水頭症で発達が遅れていたが、シュタイナーの献身的な働きにより、2年後には健康状態も改善され、ギムナジウムに入学することができた(後には医者になる)。哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『人倫的意識の現象学』の研究に専念する。
1886年10月キュルシュナーからシュタイナーを紹介されたシュペーマンは、同年10月、『ゲーテの自然科学論文集』の副読本として、シュタイナーの処女作となる『ゲーテ世界観の認識要綱』 (GA2) を出版する。
1888年キュルシュナー編集の辞典の縁もあり、美学に関する研究を進め、特にアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテンとエドゥアルト・フォン・ハルトマンの美学史に専念し、その研究内容はワイマールの「ゲーテ協会」にて『新たな美学の父としてのゲーテ』という題名の講義によって公開される。ロベルト・ハマーリングの『ホムンクルス』に強い感銘を受ける。プロテスタント系の牧師と興味深い出会いをする。豊富な交友関係とは裏腹に、内的な孤独に見舞われる。
1888年1月から7月1月から7月にかけて『ドイツ週報誌』の編集をする。
1889年初めてニーチェの『善悪の彼岸』を読む。ハルトマンに初めて面会し、画家ローザ・マイレーダー (1858年-1938年) とも知り合う。冬にウィーンの神智学徒フリードリヒ・エクシュタイン (Friedrich Eckstein, 1861年-1939年) と知り合う。
1890年ウィーンの『国民新聞』に演劇評論を連載。秋にワイマールへ転居し、ゲーテ=シラー遺稿保管局にて働くようになる。ワイマール版(ゾフィー版)ゲーテ全集の編纂において、ゲーテの自然科学論文集の出版に携わる。

この時期エルンスト・ヘッケルに面会している。
1891年ロストック大学のハインリッヒ・フォン・シュタイン教授に学生資格のない社会人として自費で論文指導 (Externe Promotin) を受けることを許され、『認識論の根本問題 - 特にフィヒテの知識学を考慮して』と題する論文で哲学博士の学位を取得する。ただし、評価は「可」(ausreichend 合格4段階評価の一番下)であった。
1892年5月5月、その論文に加筆・訂正したものを『真実と学問』 (GA3) として出版。夏にはそれまでのユンケル通り12番から、後にシュタイナーの妻となる寡婦アンナ・オイニケ(1853年-1911年)の住むプレラー通り2番に転居。この時期いくつかの哲学と哲学史に関する著述をする。この中には1893年11月に刊行された『自由の哲学』 (GA4) も含まれる。
1894年教授資格申請論文は評価されず失敗に終る。
1895年5月『フリードリッヒ・ニーチェ みずからの時代に闘いをいどむ者』 (GA5) を出版。
1896年「ゲーテ=シラー遺稿保管局」を退職。
1897年ベルリンへ転居

22歳から手がけたゲーテの自然科学論文の校訂作業が完了し、『ゲーテの自然科学論文集』が出版される。
7月ゲーテ研究の集大成とも言える『ゲーテの世界観』 (GA6) を出版。その本の最終章はゲーテとヘーゲルの関係について述べている。
同月、オットー・エーリッヒ・ハルトレーベンと共に『文芸雑誌』 Magazins für Literatur(そこでの記事はGA29-32に収録)を創刊。「自由文芸協会」、「自由演劇協会」と「ジョルダーノ・ブルーノ同盟」その他で活動。シオニズムに対して強い拒絶を示す。
1898年自身の編集による『演劇雑誌』を創刊、しかし翌年末には廃刊。
1899年1月13日ヴィルヘルム・リープクネヒト(1826年-1900年)によって設立された労働者教養学校 Arbeiter-Bildungsschule で授業(歴史、話術、文章表現など)を始め、この仕事は1904年まで続く。この学校はやや社会主義的な色彩を持った教育施設であった。
10月31日未亡人であるアンナ・オイニケ(1853年-1911年)と結婚し、フリーデナウ、カイザー通り95番に転居。ラーフ/金星
1900年ドイツの作家ルートヴィヒ・ヤコボフスキー(1868年-1900年)によって設立された「来るべき者たち」と交流。
9月末『文芸雑誌』の仕事を辞める。
初秋ブロックドルフ伯爵夫妻(カイ 1844年-1921年、ゾフィー 1848年-1906年)にベルリンの「神智学文庫」での講演を依頼され、9月22日はニーチェについて、同月29日にはゲーテについての講義を行う。
10月6日神秘主義に関する連続講義を開始、この内容は翌年自身の手によって纏められ、出版される (GA7)。これ以降、シュタイナーは、講演活動を活発に行うようになる。
1902年1月17日に神智学協会の会員となる。ラーフ/月/土星
7月女優マリー・フォン・ジーフェルス(1867年-1948年)と共にロンドンでの第13回ヨーロッパ支部年集会に出席。
9月昨年に自身が行った講義を編集した『神秘的な事実としてのキリスト教と古代の秘儀』 (GA8) が出版される。
10月19日「神智学協会ドイツ支部」が設立され、シュタイナーは事務総長に就任。
1903年年頭にゼー通り40番に転居。
3月「建築家の家」という会場にて公開講義を開始し、この活動は1918年まで続く。
5月雑誌『ルツィファー』(後の『ルツィファー=グノーシス』)を創刊し、その出版にあたる(そこでの記事は GA34 に収録)。ワイマール、ケルン、ハンブルクなどのドイツ各地でも活動を始める。
10月モッツ通り17番に再び転居(現在かれらの記念プレートが掛かっている)。
1904年5月『神智学 - 世界についての超感覚的知識と人類の目的への序文』 (GA9) を出版。それまでは自身の世界観を明らかにしていなかったが、この著作によって自身の思想の根幹を初めて公にした。雑誌『ルツィファー』はウィーンの雑誌『グノーシス』と合併して『ルツィファー=グノーシス』に改名。
6月現代人にふさわしい、霊的感覚を啓発するための修行法を示す『いかにしてより高次の認識を獲得するか』と題する連載を開始し、当初予定よりも倍近く長く続き(翌年まで続く)、後に一冊の本 (GA10) として出版される。
7月同誌にシュタイナー自身の霊視によって観察した宇宙や人間の進化の様子を描いた『アカシャ年代記より』 (Aus der Akasha-Chronik) の連載が始まるが、この内容が生前に一冊の本として出版されることはなかった。同月、アムステルダムにて神智学会議に出席。この年、マルクス主義の立場をとる労働者教養学校側から、神秘思想家であるシュタイナーへの反対意見が生まれたが、生徒の支持が強く授業は続行されることになる。
1905年1月21日同校指導部からの妨害により退職。
5月7日神智学協会の創始者ブラヴァツキー夫人について「霊的使命を持った人物は人々から生涯の外的側面によって判断されるため必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗を受けざるを得ない」という旨を述べる。
10月ロンドンでの神智学会議に出席する。
1906年ベルリン以外では初めての連続講義をパリにて開催。エドゥアール・シュレー(フランス語版)に初めて逢ったのもこの時期である。
7月パリでの神智学会議に出席。フランクフルト・アム・マインやブレーメンなど、ドイツ各地での神智学協会のロッジ設立に関わる。
1907年神智学協会会長であるヘンリー・スティール・オルコット(1832年-1907年) が2月17日に死去し、アニー・ベサントが第2代会長に就任する。
5月シュタイナーが協会に参加してから初めてのドイツでのヨーロッパ支部連合神智学会議は、ミュンヘンで開かれる。シュタイナーはそこでのインテリア設計を請け負い、自身の思想を建築的空間に可視的に表現することを試みる。シュレー作の『エレウシスの神聖劇』も上演される。
1908年8月1日8月1日、マリー・フォン・ジーフェルスは「哲学=神智学出版」(後に「哲学=人智学出版」)を設立する。この年にシュタイナーは初めてスカンディナヴィア地方を旅し、同時に各地で講義活動を行う。
1909年ドイツの詩人クリスティアン・モルゲンシュテルン(1871年-1914年)に出会う。
8月ミュンヘンでシュレー作の『ルシファーの子供たち』を上演。
12月自身の精神科学研究の集大成とも呼べる『神秘学概論』 (GA13) を脱稿。
1910年年頭、後にシュタイナーの主著となる『神秘学概論』を出版。前著『神智学』にはなかった宇宙進化論を記載。
8月ミュンヘンで神秘劇第一部『秘儀参入の門』が上演される。これ以降、シュタイナーの活動は建築、彫刻・彫塑、絵画、音楽、言語芸術(言語造形)、運動芸術(オイリュトミー)などの各芸術分野に及ぶ。
1911年1月アニー・ベサントの養子ジドゥ・クリシュナムールティ(1895年-1986年)を救世主とする「東方の星教団」がインドで設立され、チャールズ・W・レッドビータをはじめとする何人かの神智学協会の代表者らは、まだ少年であったクリシュナムールティを“来るべき世界教師”、“キリストの再来”として宣伝するようになる。
3月妻のアンナ・シュタイナーが他界。
8月ミュンヘンで神秘劇第二部『魂の試練』が上演される。
1912年8月8月、神秘劇第三部『境域の守護者』が上演される。同月、新しく作られる協会の名称として「人智学」(アントロポゾフィー)を提案する。
9月9月、人智学が生み出した最も有名な運動芸術オイリュトミーの形成が始まる(正確には1908年5月の時点ですでにその胎動が見られる)。「アントロポゾフィー協会」(人智学協会)設立の準備を始める。
12月12月、ドイツ神智学協会のシュタイナーのグループは、神智学協会のリーダー、新たな救い主としてインド人のクリシュナムールティを認めることを拒み、神智学協会を脱退する。同月28日、シュタイナーはケルンで人智学協会を設立する。人智学協会は、ドイツ外の国々の神智学協会とも繋がりをもつようになっていく。『人智学的魂の暦』が出版される。
1913年2月3日2月3日、人智学協会第一回総会がベルリンにて開催される。建設省の芸術担当者の反対により、「ヨハネス建築」(後にゲーテアヌムと呼ばれる建物)の着工ならず。
5月中旬5月中旬に建築候補地としてバーゼル近郊のドルナハが挙がり、同18日にそれを決断。
8月8月にはミュンヘンにて神秘劇第四部『魂の覚醒』が上演される。
9月20日9月20日、ゲーテアヌムの礎石奉納の儀式を行う。
1914年3月31日3月31日、無二の友人であり最も良き理解者であった詩人クリスティアン・モルゲンシュテルンを亡くす。
7月28日7月28日、第一次世界大戦勃発。
12月24日12月24日、マリー・フォン・ジーフェルスと再婚。1914年から1923年にかけてシュタイナーはベルリンとドルナハを行き来し、両都市をその居住地とする。木星/太陽
1915年ゲーテアヌムの舞台の背景の中心に据えられるべき「人類の典型」と題する彫刻の製作に取りかかる。ゲーテアヌムの大小二つの天井画を描く。
1917年以降、シュタイナーの活動は実践的な社会運動へと及ぶ。シュタイナーは自ら理念を携えて、さまざまなな社会生活の領域に登場した。この年、彼の中に社会有機体三分節化論の理念が浮かび、その実現に勤しむが徒労に終わる。
1918年11月11日第一次世界大戦終結。
1919年社会有機体三分節化論に賛同したシュトゥットガルトのタバコ会社工場主エミール・モルトから、従業員の師弟教育のために学校設立を依頼される。
同年春同年春、『ドイツ国民と文化世界へのアピール』を出版。
9月7日9月7日、シュトゥットガルトに「自由ヴァルドルフ学校」を開校。
12月23日12月23日から翌年1月3日にかけて同地で第一回自然科学講座が開催される。
1920年3月21日3月21日から4月9日にかけて第一回医学講座がドルナハにて開かれる。これによってシュタイナーは、イタ・ヴェーグマンと共に人智学医学(シュタイナー医学)の創始者とされることになった。ドイツに株式会社「来るべき日」、スイスに「フトゥルム」を設立。
9月26日午後5時9月26日午後5時、ゲーテアヌム開館。この頃から毎週のように人智学非難の記事が新聞に掲載されるようになる。
1921年2月2月、月刊誌『ディ・ドライ』を創刊。
4月4月、治療オイリュトミー講座を開く。
6月6月、ドルナハの隣町アルレスハイムに、イタ・ヴェーグマンによって「臨床治療研究所」が開設される。
8月8月、週刊誌『ダス・ゲーテアヌム』を創刊。この頃、自伝を書く。
11月11月、ノルウェーのオスロ大学で「経済の根本問題」と題して講演。
1922年7月24日から8月6日7月24日から8月6日、「国民経済学講座」が開かれる。
9月9月にキリスト者共同体の創設に寄与する。
12月31日午後10時12月31日午後10時、火災によってゲーテアヌムが炎上、翌朝焼失。
1923年1月1月、体調が優れない中、週刊誌『ゲーテアヌム』で自伝『我が生涯の歩み』 (GA28) の連載を始める(翌々年の自身の死によって中断し、未完に終わる)。
12月25日から翌1924年1月1日12月25日から翌1924年1月1日、降誕祭会議を開催。それまでの人智学協会を刷新し、普遍アントロポゾフィー協会(一般人智学協会)を新しく発足させる。その心臓部となる「精神科学自由大学」(翌年2月15日第一講開催)を設立する。本部はゲーテアヌムに置くものとされた。
1924年元日、ゲーテアヌム再建のための構想を発表する。
1月13日普遍アントロポゾフィー協会の週刊報告誌『アントロポゾフィー協会の経過報告書』を創刊し、降誕祭会議に参加できなかった人々のためにもその会議の内容を公開した。
2月15日精神科学自由大学における第一学級講座(クラッセン・シュトゥンデ Klassenstunde)を開講する。この講座は後に第二学級、第三学級と設立される予定であったが、シュタイナーの死によって中断された。
2月16日以降シュタイナーの「本来の」使命であったカルマに関する連続講義(それは50回にも亘り、9月28日まで続く)をドルナハにて開始し、その内容を凝縮したものを各地で講演する(これらは合計30回を超える)。降誕祭会議以降、アントロポゾフィー運動と普遍アントロポゾフィー協会は同義 (identisch) になったと説き、協会の重要性について熱弁して回った。
同月同月、音楽オイリュトミー講座を開く。
3月末3月末には、1月に日の目を見た「新しいゲーテアヌム」の1/100スケールの立体モデルを粘土で製作することに熱中した。三日三晩アトリエに籠もり切ったシュタイナーは「熱に浮かされたように」創作に集中し、3月26日に模型が完成し、わずか5週間で図面が引かれる。
6月6月、コーバーヴィッツで「農業講座」が開かれ、バイオ=ダイナミック農業の基礎が築かれる。ドイツではこの方法で作られた野菜にはデメター (Demeter) というマークがつけられている。
6月から翌7月6月から翌7月、言語オイリュトミー講座と治療教育講座がドルナハにて行われる。
9月9月、ドルナハにて演劇講座。9月28日午後8時からの講演を20分で中断し、病床に就く。
12月1日12月1日、「新しいゲーテアヌム」の建築許可が下りる。このコンクリート造りの「第二ゲーテアヌム」の建設が実際に始まったのは翌年に入ってからであり、完成したのは1928年、つまりシュタイナーの死の三年後であった。
1925年元日深夜
3月26日、29日、30日
元日深夜、卒倒、高熱により食欲は減衰。3月26日、病状は好転するものの、29日、病状は悪化、30日午前4時頃、イタ・ヴェーグマンに苦痛を訴え、5時頃に普遍アントロポゾフィー協会理事のアルベルト・シュテッフェンとギュンター・ヴァックスムートが病室に呼ばれる。午前10時頃、ルドルフ・シュタイナー他界。
4月1日4月1日、夜に葬儀が執り行われる。死の3日前までシュタイナーは「人類の典型」(キリスト)にのみを振っており、また死の前日には第二ゲーテアヌムの内部建築のために使用するアトリエの完成について訊ねているなど、その制作意欲は最後まで衰えることはなかった。
wikipediaより引用抜粋
















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