ポール・ニューマン

氏名ポール・ニューマン
ローマ字Paul Newman
生年月日1925年1月26日
出生時間06:30
出生場所オハイオ州・クリーブランド(Cleveland, Ohio)
ナクシャトラ(Asc)
ナクシャトラ(Mo)
職業俳優、レーサー、政治運動家
所属
業績
その他
データソースwikipedia, astrodatabank


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
1925年1月26日オハイオ州クリーブランドで、スポーツ用品店を経営するハンガリー系ユダヤ人の父・アーサーと同じくカトリックの母・テレサとの間に生まれる。
幼い頃は脆弱で学校でいじめを受けていた。
1932年7歳の時、演劇好きの母の勧めで児童演劇団に入団。『ロビン・フッド』の道化師役で舞台に立つもポールは演劇に関心を示さなかった。
1937年12歳の時、クリーブランドの児童演劇部に入部。高校卒業後は定職に就かず百科事典の訪問販売などで生計を立てていた。その後、家業を継ぐためにアセンズのオハイオ大学経済学部で学ぶが第二次世界大戦が勃発し海軍に入隊。航空機操縦士を志願するが色盲により叶わず、爆撃機や雷撃機の後部銃座手(兼無線手)の訓練を受ける。
1944年航空機無線手としてハワイのバーバーズポイントに割り当てられ、その後雷撃隊に配置される。TBF/TBM アベンジャーの後部銃座手となる。
1945年空母・バンカーヒルに乗艦し沖縄戦に参加。
終戦後にオハイオ大学を経て進学したケニヨン・カレッジではフットボールに打ち込むも、チーム内の喧嘩が原因で除名処分を受けたため子供の頃に学んだ演劇の道を志す。
1949年卒業後、地方の劇団を渡り歩き演劇の修行に励む傍ら1949年に結婚。
1950年父親が他界すると一旦家業を継いだが、演劇講師になるための学費を工面するために父の代から続いた店を売却。
進学先であるイェール大学大学院で披露した演技がプロデューサーの目に留まり、ニューヨークに招かれた。
1952年テレビドラマや舞台における演技が認められ、1952年にジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドと共にアクターズ・スタジオに入学。

初の大役となったブロードウェイの舞台『ピクニック』での演技が映画関係者から高い評価を受け、ワーナー・ブラザーズと5年間の専属契約を交わす。アクターズ・スタジオに同期で入学したディーンが主役を演じた『エデンの東』では当初主人公の兄を演じる予定でスクリーン・テストまで行ったものの、監督のエリア・カザンがニューマンの出演を却下。
1954年『銀の盃』でスクリーンデビューを果たすものの、作品自体が映画評論家から失敗作の烙印を押されるという不本意なデビューとなった。ディーンとブランドがそれぞれ『エデンの東』『波止場』で世界的トップスターへと上り詰める一方でポールは満足のいく作品に出演できないうえ、スタジオや批評家から「第2のマーロン・ブランド」と称されることに失望し映画を離れ活動の拠点を舞台とテレビドラマへ移した。
舞台とテレビドラマにおける演技が賞賛されたポールは、ディーンの急逝により主演のポストが空白となっていた映画『傷だらけの栄光』に、監督のロバート・ワイズの依頼を受け出演。実在のプロボクサー、ロッキー・グラジアノの話し方や癖を模倣するなど徹底した役作りを敢行した末に臨んだ同作は高く評価され、一躍注目を浴びる存在となった。
1956年最初の妻と離婚
1958年先述の舞台『ピクニック』で知り合った女優、ジョアン・ウッドワードと映画『長く熱い夜』での再共演を機に再婚。3人の娘をもうける鴛鴦夫婦となる。さらに同年の映画『熱いトタン屋根の猫』で初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされるなど、公私共に充実した時期を迎えた。
1960年代から1970年代1960年代から1970年代にかけて積極的な反戦運動ならびに公民権運動を展開。
1961年『ハスラー』で英国アカデミー賞の男優賞を受賞する。
1963年『ハッド』で受賞する。
ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された。
1965年ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された。
1967年ゴールデングローブ賞の「世界で最も好かれた男優」に選出された。
1968年妻のジョアンを主演に起用した初監督作品『レーチェル レーチェル』では同年度のアカデミー賞で作品賞を初めとした4部門にノミネートされたほか、ゴールデングローブ賞とニューヨーク映画批評家協会賞では監督賞受賞に加えて妻に女優賞をもたらした。
1969年ロバート・レッドフォードと共演したアメリカン・ニューシネマの西部劇『明日に向って撃て!』は生涯最高のヒットを記録。マネー・メイキングスターの1位に選出され、世界的トップスターとしての地位を不動のものにした。さらに製作者としての飛躍を求めてシドニー・ポワチエ、バーブラ・ストライサンドと共に映画製作会社「ファースト・アーティスツ」を設立した。
1969年「ファースト・アーティスツ」設立後初めて製作を担当した映画『レーサー』でのレーシング・スクールへの参加を機にカーレースに熱中するようになり、44歳にしてレーサーとしてプロフェショナルデビューを果たした。
1970年レーサーとしては1970年のセブリング12時間レースで2位となる。
1973年俳優業でも成功は続き、レッドフォードとの競演した1973年の『スティング』は、同年度のアカデミー作品賞を受賞。

活発な運動と過激な発言は、1973年に行われたアメリカ軍のベトナムからの撤退を指揮したリチャード・ニクソン大統領までをも敵に回す結果になり、1973年にホワイトハウスが公表したブラックリストにその氏名が記載された。
1974年『タワーリング・インフェルノ』での報酬は100万$に達し、前妻との息子スコット・ニューマンとの共演も実現した。
1975年カール・ハースとともにニューマン・ハース・レーシングを結成し、CARTに参戦した。
1977年1977年のデイトナ24時間レースで5位となる。
1978年息子スコットが酒とドラッグに溺れ命を落とした。愛息の死を嘆いたポールは、麻薬撲滅運動の展開を決意。ドラッグで命を絶たれた息子の名を冠した「スコット・ニューマン基金」を設立 し、ドラッグの弊害を描いた映画やテレビ番組に対する資金提供を行っている。
1979年1979年のル・マン24時間レースでは2位を記録する。
1980年その一方で俳優業は不振が続き『タワーリング・インフェルノ』のアーウィン・アレンと再びタッグを組んだパニック映画『世界崩壊の序曲』は興行的に大失敗したうえ批評家からは「史上最低のパニック映画」と酷評され、ポール自身も同作への出演を後悔する旨の発言をする始末であった。
1981年1981年の『スクープ 悪意の不在』から『アパッチ砦・ブロンクス』『評決』と立て続けに出演した社会派作品でリアリティのある演技を披露し新境地を開拓した。
1982年また自家製のサラダを自慢していたニューマンは1982年、冗談半分で食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立。極力食品添加物を排除したフレンチ・ドレッシングやランチドレッシングは好評を博し、スパゲッティー(或いはパスタ)のソースやポップコーンの販売にも着手。日本では日本アムウェイが商品の販売に参入するなどポールの知名度も相乗効果を齎し、瞬く間に世界規模での事業拡大に成功。純利益を全額、貧困に喘ぐ子供たちに寄付している。
1983年俳優としても1983年にゴールデングローブ賞の生涯功労賞に相当するセシル・B・デミル賞を受賞。
1985年長年の功績を称えられアカデミー名誉賞を受賞。
1986年『ハスラー2』での演技が認められアカデミー主演男優賞を受賞。2年連続でオスカー像が授与され、世界的にその名を残す人物となった。
1993年ニューマンにとって私生活での著名な活動の1つである「ニューマンズ・オウン」は四半世紀に及ぶ運営で挙げた2億2000万$の純利益を全額恵まれない子供たちに寄付。1993年にはその功績に対しアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞が贈られた。俳優としての活動に終止符を打った後は、これらの事業や家族とのコミュニケーションに専念する意向を示していた。
1994年還暦を超えても第一線での映画出演を続けたニューマンは、1994年の『ノーバディーズ・フール』でベルリン国際映画祭などで数多くの男優賞を受賞。
2002年『ロード・トゥ・パーディション』で9度目となるアカデミー賞ノミネート(初の助演男優賞部門)を果たす。
2005年テレビドラマ『追憶の街 エンパイア・フォールズ』でゴールデングローブ賞とエミー賞を受賞。
2006年ピクサーのアニメーション映画『カーズ』でメインキャストのドック・ハドソン役で声の出演を担当。止め処無く活躍を続けるポールに対し一部映画関係者からロバート・レッドフォードとの最後の共演作品が企画されるなどしていた。
2007年5月25日ABCテレビの番組において加齢による演技力・記憶力の衰退から自分の納得する演技が不可能になったと語り、俳優としての活動を引退することを正式に発表した。
2007年6月中西部オハイオ州ガンビアの母校ケニヨン大に対し、奨学基金の設立資金として1000万ドル(約10億円)の寄付を申し出た。今回の寄付について「母校への個人的愛情や恩義」と説明。奨学金は家庭の事情で学費が払えない非白人のマイノリティー(少数派)の学生らに支給されていくという。
2008年5月同年後半に予定していた舞台の監督を健康面を理由に降板すると発表して以降、健康状態について末期の肺がんで闘病生活を送っているとの報道が相次いでなされ配給会社は「元気でやっている」とだけのコメントを発表をした。
8月その後報道は鎮静化。一時がんの化学治療のためニューヨークの専門病院に入院していたが経過は芳しくなく8月に退院し自宅治療に専念。
2008年9月26日コネチカット州ウェストポートの私邸に於いて死去。83歳没。
wikipediaより引用抜粋
















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