ウッディ・アレン

woodyallen
氏名ウッディ・アレン
ローマ字Woody Allen
生年月日1935年12月1日
出生時間22:55
出生場所ニューヨーク州ニューヨークブロンクス区(Bronx, New York)
ナクシャトラ(Asc)マガー
ナクシャトラ(Mo)ダニシュター
職業映画監督、俳優、脚本家、小説家、クラリネット奏者
所属
業績
その他アカデミー賞に史上最多の24回ノミネートされ、監督賞を1度、脚本賞を3度受賞している。

生まれ育ったニューヨークの文化や暮らし、人々のメンタリティをテーマにすることが多い、しかもそこに住むユダヤ人のそれを主題とする。ユダヤ人であることの差別とそこから来るコンプレックスや、自己意識などを織り込んだコメディを得意とする。

「監督、脚本、主演の三役をこなして成功することが出来た映画人は、北野武とチャールズ・チャップリンとオーソン・ウェルズとこのアレンの4人だけだ」と言われている[要出典]。演じる際には自らをカリカチュアライズしたようなユダヤ系の神経質なインテリを演じることが多い。

なお、フランスなどの先進国を中心とした国外においても非常に高い評価を受けていることでも知られる。また、一部の作品を除いてアメリカ国内における興行成績は決して高くはなく、アレン自体もその事を皮肉った発言を行っている。なお、アメリカ国内より国外での興行成績が高い作品もあるにもかかわらず、後述のように多くの人気俳優や女優が競って出演することでも知られている。

またアレンは、ハリウッドに背を向けた映画人としても知られている。『アニー・ホール』(1977年)で、アカデミー監督賞、作品賞を受賞した時も、授賞式には出なかった。アレンが唯一アカデミー賞の授賞式に姿を現したのは、2002年の授賞式で特別プログラムとしてニューヨークを舞台にした作品集の紹介を依頼されたときだけ。それは前年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロで犠牲になった人たちに捧げるオマージュとしての企画で、アレンは出演したものの、それが終わると直ちにニューヨークに戻ってしまった。それにも関わらずアレンがアカデミー賞にノミネートされたのは24回、最多の回数である。
データソースwikipedia, astrodatabank


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西暦年月出来事ヴィムショッタリチャラヨーギニトランジット
ウディ・アレンは、ニューヨークのブロンクス区で、ロシア系=オーストリア系ユダヤ人の家庭に生まれた。父親のマーティン・コニグズバーグ(Martin Konigsberg, 1900年12月25日 - 2001年1月13日)と母親のネティー(Netty Cherrie Konigsberg, 1908年 - 2002年1月)はアレンが生まれてから妹のレッティ(Letty, 1943年 - )が生まれる直前まで、ブルックリンを中心に10数回も引越しを繰り返していた。その間、母親の姉妹や、ドイツにおけるナチスの迫害から逃れてきた親類との賑やかな共同生活と、素性の知れない、時に凶悪な面を見せるベビーシッターとの生活を余儀なくされた。

ゆえにアレンの幼年期は主に女性に囲まれた精神的かつ言語的に混沌としたものだった。また、母親は時々アレンに対して激しい叱責(時には手も出る)を行った。妹のレティに対しては、はるかに穏やかな扱いだったので、アレンは「大事にされている、愛されている」という感情が持てなくなった。ひねくれた少年の行く先は現実逃避で、アレンはコミックや映画、ジャズに傾倒するようになっていった。
コニグズバーグ家は正統的なユダヤ教徒だったので、ユダヤ教の様々な儀式を行い、アレンもまた、8年間もの間ヘブライ語学校に通うことになった。これは宗教嫌いに拍車を掛ける結果になった。
1949年パブリック・スクール卒業後、1949年にミッドウッド・ハイスクールに入学。生まれつきの赤髪のせいでニックネームは「Red」。アレンはカード・マジックに傾倒した。
1951年16歳の時に、アレンはマジシャンとして初舞台を踏むが、すぐにマジシャンとしての自分に見切りをつけた。同級生の前でマジックを披露しているうちに、「面白いヤツ」という評判が立ち、アレンは徐々にコメディに傾倒(元から喜劇映画はお得意とするところだった)し、その道を志望するようになっていった(アレンと同級生のミッキー・ローズはジョージ・S・カウフマン好きということで意気投合し、後にアレンの初期の映画で共同で脚本を書いている)。
1952年ハイスクール在学中に、アレンはPRの仕事をしている従兄や『ニューヨーク・デイリー・ミラー』、『ニューヨーク・ポスト』などにギャグを送り始めた。この頃から、筆名として「ウディ・アレン」(極短期間「ヘイウッド・アレン」とも)を名乗り始めた。数々のギャグはコラムニストの手によって誌上で紹介され人気を博した。
これが芸能エージェントのデヴィッド・O・アルバーの目にとまり、アレンはアルバーのもとで「ウディ・アレン」として臨時雇いのギャグ・ライターという道を歩むことになった。
1953年アレンはニューヨーク大学教養学部に入学した。映画製作を専攻し、英文学とスペイン語を中心に学んだが、授業の大半をさぼり、試験は一夜漬け、レポートは例の調子でコメディ風といった調子で、中退してしまった。

ニューヨーク市立大学シティカレッジ映画科に入り直したものの、アレンのさぼり癖はおさまらず、またもや中退。

母親のネティーは最初こそ絶望したものの、ギャグ・ライターとしてなんとかならないものかと考えるようになり、親戚のエイブ・バロウズという最強のコネを使って後押した。バロウズはアレンの才能を高く買い、シド・シーザーやピーター・リンド・ヘイズなどのテレビ司会者を紹介するとともに、アレンにギャグ・ライターだけではなく、シリアスな芝居とコメディを両立させる事の必要性を説いた。
1955年同級生の兄ハーヴィ・メルツァーとマネージメント契約を結び、この有能なマネージャーの強烈な推薦で、NBCの放送作家養成プログラムに参加し、アレンはギャグ・ライターと放送作家を並行して行うことになった。シド・シーザーのグループで、ダニー・サイモンやメル・ブルックス、ラリー・ゲルバードらとともに働いた。
1958年アレンとゲルバードは、シド・シーザーの特別番組でシルヴァニア賞を受賞し、同作品はエミー賞にもノミネートされた。『パット・ブーン・ショー』で再びエミー賞にノミネートされ、放送作家としての地位を確固たる物にした。しかし、アレンは放送作家という仕事に興味を持てなくなる一方で、続々舞い込む仕事に心を病んだ。
1959年精神科への通院を始める。
1960年『パット・ブーン・ショー』が打ち切られた1960年から、アレンはスタンダップ・コメディアンとして活動を始める。『ブルー・エンジェル』での初舞台は散々な評価に終わったが、舞台を重ねるうちに腕をメキメキと上げて、人気を集めていった。
1962年8月『ニューズウィーク』誌がアレンを「シェリー・バーマン、モート・サール、レニー・ブルースに次いで現れたコメディアンの中で最も革新的」と評価した。
1963年2月『ニューヨーク・タイム』誌が同様の舞台評を書くまでになった。評判を聞き、映画界からのオファーが飛び込み、アレンはその世界へと身を投じた。
1977年アカデミー監督賞 『アニー・ホール』
アカデミー脚本賞 『アニー・ホール』(マーシャル・ブリックマンと共同)
1978年1960年代の後半から1970年代にかけて、アメリカの文芸誌である『ニューヨーカー』誌を中心に短篇小説を書いている。そのうちいくつかの作品は映画化された。"The Kugelmass Episode"で1978年にオー・ヘンリー賞『クーゲルマスのお話 The Kugelmass Episode』(1977年5月2日に『ニューヨーカー』誌に掲載された短編小説)を受賞。
1980年 セザール賞最優秀外国作品賞『マンハッタン』
1986年 セザール賞最優秀外国作品賞『カイロの紫のバラ』他、7つの作品でノミネート止まり
ゴールデン・グローブ賞最優秀脚本賞『カイロの紫のバラ』他、4つの作品で最優秀監督賞、4つの作品で最優秀脚本賞、2つの作品で最優秀俳優賞(コメディ・ミュージカル部門)でそれぞれノミネート止まり

アカデミー脚本賞 『ハンナとその姉妹』
1992年養子の韓国人女性スン・イー(当時21歳)と交際していることが明らかになり、国際的な注目を浴びた。
1993年ダイアン・キートンと『マンハッタン殺人ミステリー』(1993年)では共演しているが、これは本来ミア・ファローの役として話を書いたところを、私生活のごたごたの関係で代わってもらった、とウディ・アレンは語っている。
1995年 ヴェネツィア国際映画祭栄誉金獅子賞
1996年 アメリカ監督組合生涯功労賞
1997年12月24日スン・イーとヴェネツィアのパラッツォ・カヴァッリ・フランケッティで、1997年12月24日に結婚した。

彼らには2人の養女、ベシェ・デュメイン・アレンとマンジー・ティオ・アレンがいる。二人ともジャズの音楽家、シドニー・ベシェとマンジー・ジョンソンの名をとって名づけられた。
2002年 アストゥリアス王子賞、その後スペインのオビエドにアレンの等身像が建立
カンヌ国際映画祭でイングマール・ベルイマンに続く史上二人目の名誉パルム・ドール(特別生涯功労賞)

2002年の授賞式で行われたアメリカ同時多発テロ事件犠牲者の追悼企画での一コマで、アナウンスなしにアレンが登場し、観客の拍手喝采を浴びた。これは、前年のアメリカ同時多発テロ後の、「ニューヨークに関する作品を作る」というプロデューサーの意向を汲んでの出演だった。
2011年 アカデミー脚本賞 『ミッドナイト・イン・パリ』
2013年 セシル・B・デミル賞
wikipediaより引用抜粋
















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