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カール・ロジャーズ - 晩年の目覚め, “プレゼンス(存在)”-



最近、心理学の学習をし直している関係で、カウンセリングの世界において来談者中心療法のカール・ロジャーズの果たした役割について調べていた。


参考文献としては、『カール・ロジャーズ入門 ―自分が”自分”になるということ」諸富 祥彦著である。


カール・ロジャーズは、来談者中心療法(Client-Centered Therapy)を提唱した人物であり、それはカウンセラーに「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「一致」の3つがあれば、クライアントの治癒、もしくは治療的人格変化が生じるという理論である。


これらが揃っていれば大学教授や医師免許など何の専門的知識も必要なく、全く普通の人であっても他者の治療的人格変容の手伝いが出来るとされる。


これらの条件は、技術というよりもカウンセラーとなる人物の存在のあり方であり、基本的な素養といってもいいかもしれないが、カウンセラーのクライアントに対する非指示的な「傾聴」といった姿勢が重視される。


カウンセラーにこのような態度がある時、クライアントはカウンセラーを触媒として、自己を受容することができ、自己認識を深め、ありのままの自分になることが出来る。


こうした人間関係というものは特にカウンセラーとクライアントという設定された環境でなくても日常生活の良質な人間関係の中で普通に起こっている出来事であり、援助や成長の物語である。



カール・ロジャーズの人間観は、『人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。カウンセリングの使命は、この成長と可能性の実現を促す環境をつくることにある。』(wikipedia)とする楽観的なものである。


こうした人間観は、元々カールロジャーズがキリスト教(厳格なプロテスタント)の家庭に生まれ、牧師になろうとしていたことが影響していると考えられるが、「原罪」という考え方になじめず、結局、牧師になることはせずにカウンセラーの道に進んだのである。


「原罪」という歪んだ考え方はあるものの、キリスト教は、プラトン哲学と同じように「神」という理想像があり、神に似せて作られた人間には、自己実現する力が内在していると考えるのである。


こうした楽観的で理想主義的な考え方は、根本的にはキリスト教の考え方である。



このカール・ロジャーズの関連書籍を読むと、「ありのままの自分」「本当の自分」というキーワードが頻繁に出てくるのだが、


上記に挙げた『カール・ロジャーズ入門 ―自分が”自分”になるということ』諸富 祥彦著は、コスモス・ライブラリーから発行されている。(第1刷発行は、1997年10月10日となっている)


コスモスライブラリーの発行責任者は、大野純一氏であり、クリシュナムルティーの一連の著作の翻訳者である。



上記の書籍は、大野純一氏の勧めで執筆されてコスモスライブラリーから刊行されたようである。



そうした繋がりから分かったことは、カール・ロジャーズが米国において果たした役割は、クリシュナムルティー的な役割であったと考えられる。






カール・ロジャーズが来談者中心療法の中で、主張していることは、クリシュナムルティーの教えそのものである。



クリシュナムルティーは、「事実ありのまま」を見ることの重要性について述べている。



「事実ありのまま」を見た時に問題が終焉するのである。



人は、記憶や知識、観念、思想、イデオロギーといった条件づけによって囚われており、物事の本当の「事実ありのまま」を見ることが出来ない。



もし「事実ありのまま」を見ることが出来た時、初めてその問題が変わる可能性が出てくると言っている。



カール・ロジャーズの来談者中心療法の目的は、クライアントが「本当の自分」「ありのままの自分」を取り戻すことであるが、カウンセラーが「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「一致」の3つの条件を持って、クライアントに接した時、クライアントは、自己を受容することができ、今までは見ることが出来なかった「本当の自分」「事実ありのままの自分」を見ることができるようになり、受け入れることが出来るのである。


クライアントが明確に自分自身についての真実を認め、受け入れることができるようになり、自分自身についての事実ありのままを認めることが出来た時に初めて、それを変えることに向けての行動を起こすことが出来るのである。




「一致」という概念が分かりにくいが、これは、事実ありのままの自分について認識している状態と言うことができる。



つまり、自分の肉体、思考、感情などの刻々と変化する動きに対して、事実ありのままに認め、認識している状態である。



自分の自我にとって都合の悪いことであっても、それを事実ありのままに見て認識している状態であり、



つまり、否認や抑圧、逃避、様々な防衛機制(投射、反動形成 etc)などによって、事実ありのままを認めていない状態ではないということである。




つまり、「一致」とは、刻々と移り変わる肉体の欲求、思考や感情の動きなどに気づいている状態といってもいいかもしれない。




カウンセラーが自分自身について意識的であり、自己洞察を得ている状態(一致)であって初めて、クライアントの自己洞察を援助できるということである。





カール・ロジャーズは、晩年において、自分の生徒たちの影響を受けて、スピリチャルな傾向を帯びていき、上記の3条件に「プレゼンス(存在)」という条件を加えている。



カウンセラーが変性意識状態になっているような時にカウンセラーがただそこにいるだけで、クライアントの人格の変容が促進されると考えたのである。




これはカール・ロジャーズの実体験に基づいていると考えられる。



個人的なセッションの場面でもそうしたことがあったのかもしれないが、カールロジャーズが晩年において盛んに実践したエンカウンターグループにおいて、グループ全員が変性意識状態に入った体験があったと報告している。




変性意識状態というのは、トランスパーソナル心理学で好まれる用語だが、真我とか、サマーディーの体験であると考えていいかもしれない。




カウンセリングのセッション中には、クライアントに一点集中して視線を向けるため、思考の過程が動き出さずに真我の状態が発現しやすくなっていると言える。



クリシュナムルティーも、視線を動かさずに物を見つめることを推奨しているが、そうすると思考の過程が動き出さないことによって記憶や知識から生み出されている自我から解放されるということではないかと思われる。




クリシュナムルティーの「自我の終焉-絶対自由への道-」や「覚醒のコメンタリー」を読むと、真理を求める様々な求道者たちが、クリシュナムルティーの元に相談に来るのだが、それらの人々は、クリシュナムルティーと面談しているだけで、最終的に思考の停止がもたらされたり、問題の解決がもたらされたりするのである。



例えば、長年、修行を続けて、サマーディーを一度だけ体験したことがあるサードゥー(出家修行者)が、クリシュナムルティーの元を訪れて、クリシュナムルティーと対談したけで、もう一度、サマーディーを体験したいという欲望がそれを邪魔していたことに気づき、その後、直ぐにサマーディーを得るという体験が記されていたと思われるが、深い気づきのレベルに到達している人に面談しただけで、こうしたことが起こってくるのである。



つまり、悟っている人の”プレゼンス(存在)”というものが圧倒的に重要なのである。




例えば、ラーマクリシュナと、パラマハンサヨガナンダの師弟関係においても、ラーマクリシュナは、パラマハンサヨガナンダの肩に触れるだけで、サマーディーを経験させることが出来たと記されている。



つまり、より高い気づきのレベルにいる人の”プレゼンス(存在)”そのものが、弟子、あるいは、クライアントの気づきを促進するのである。




私は、カール・ロジャーズが晩年に辿り着いた”プレゼンス(存在)”という条件をそのようなものとして理解した。




カール・ロジャーズは、厳格なプロテスタントの家庭に生まれ、自分らしく生きることを禁じられていたが、そうした家族の絆を切断し、より自分らしく生きる道を模索して、カウンセラーとして、来談者中心療法を創始した。




それは、カウンセラーに「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「一致」がある時に治療的人格変容が生じるという科学的理論である。




こうした本来、治療関係や師弟関係など属人的な環境の中で起こることとして科学にはなりにくい分野について、科学として理論を確立したことは画期的である。




そうすることによって、世間に広め、多くの人が実践することが出来るようになったからである。




このように何でも再現性があり、大規模に実践することが可能な科学にするのが、西洋的であり、アメリカ的でもあるのだが、クリシュナムルティーのスピリットというのは、カール・ロジャーズを通して、アメリカ人たち(あるいは西洋人たち)に伝わっていったと考えることが出来る。



そして、カール・ロジャーズが、盛んに実践したエンカウンターグループは、米国の人々のカウンターカルチャーを支えたのである。




晩年、カール・ロジャーズは、こうした功績によってノーベル平和賞にノミネートされている。





カール・ロジャーズをとことん突きつめていくと、最終的には、スピリチャルな領域に入って行き、クリシュナムルティーの教えに辿り着いたり、瞑想やヨーガの実践に辿り着くのである。




カール・ロジャーズの生涯を研究すると、物質主義的なアメリカやキリスト教をベースにした西洋文明が、どのようにスピリチャルな解放に辿り着いたかという事例として、非常に興味深いのである。




カール・ロジャーズが、よりインドなど東洋の文化に近い日本において、広く受け入れられ普及している理由というのも理解できる。






最後にカール・ロジャーズの出生図を調べてみたいと思うが、




出生時間が分からないため、12:00で作成すると、射手座に月、太陽、土星、水星が集中している。








典型的に楽観的で、自己啓発を好む射手座のパーソナリティーである。



出生図では山羊座で火星が高揚しており、ナヴァムシャでもムーラトリコーナの座に在住している。



従って、火星が強く、実践力、実行力があり、こうした配置が、エンカウンターグループを広く実施し、普及させた力ではないかと思われる。






私は、牡羊座ラグナであるが、現在、射手座9室に土星がトランジットしているため、こうしたカール・ロジャーズの教えを学び直す機会が得られているのである。




かなり以前のこと(10~15年以上前)であるが、自己啓発セミナーに参加した際に司会者が”プレゼンス(存在)”という言葉を使っていたことをうっすら覚えている。




自己啓発セミナーには楽観的で無限の可能性を信じる射手座のパーソナリティーの人が大勢いるのだが、そうした人々がエンカウンターグループに参加したことで、こうした言葉の使用を身に着けた可能性があると、改めて思うのである。




他者という”プレゼンス(存在)”があった時に初めて、より深い気づきへの人格変容がもたらされるのである。


あるいは、自分が他者の”プレゼンス(存在)”となっている場合もあるかもしれない。


他者との出会いによって、変容が相互に起こるのである。




重要な人間的成長というものは、人間関係の中で、その関係の中で、自己洞察を深めることによってもたらされる。




従って、洞窟の中での孤独な瞑想などでは難しいのである。むしろ、深い精神的挫折に結びつく危険性がある。



あるいは、一人でテレビゲームで遊んでいるようなことからは、成長というものは起こらない。



必ず社会に参加して、人間との関係が必要である。



逆に言えば、人間と関わる機会を可能な限り、沢山、持った人は、その関係の中からあらゆることが生じる要素があり、そうした経験から学ぶことを考えるとそれだけ成長も早いかもしれない。



















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「頑張れ」という励ましについて

文部省が全国の教育委員会に対して、いじめの問題でいじめの被害に合っている生徒に「頑張れ」と言わないように通達を出したそうである。 

確かに「頑張れ」というのは何の解決にもならない解決策である。 
例えば、不眠症の人は眠ることを頑張ってしまうから、ますます不眠症になってしまうのであり、そうしたことを忘れた時に眠りがやってくるのである。従って、眠ることを「頑張る」ことは何の解決にもならない。むしろ、眠りを得ようと必死に力むこと、すなわちそれは欲望でもあるのであるが、かえって自我への集中を招いてしまい、眠れない状態となる。 
神経症やどもりなどの症状も全くこれと同じ原理である。治そうと努力することで返ってその症状を強化してしまう。 

頑張るという言葉の語源は分からないが、「我踏ん張る」というような意味と似ているかもしれない。我を踏ん張りすぎて、自分を忘れることができないので、いろいろな問題が生じてくるのである。 

いじめられている子供に対して、「頑張れ」と言った時にどうなるかを考えると、いじめられている子供はおそらく、既に過度の自我意識を持っており、劣等感や恐怖心で自己に意識が集中している状態にある。 
自分の安楽や恐怖からの開放を求めて、常に自己への欲望に集中している。他人に自分がどう見えるか?いじめっこに自分は何か気に障ることをしてしまったのではないか?常に自分が周りにどう見られているかということを考えており、自己中心の状態にある。そうした自己の安全を確保しようと必死になる様がむしろ更なるいじめを招く結果となるかもしれない。「頑張れ」ということによって、そうした自分への集中をますます強めてしまい、いじめの原因を自分の内部や自分の側の努力不足に求めて、返って行動は消極的で内省的になってしまう。 

そこで昔はいじめなどは先生が介入するものではなく、生徒同士で解決することが理想であり、いじめられている当事者は頑張りが足らないのだという発想であったのが、最近ではいじめられていることを生徒が訴えたり、あるいはサインとして示したら、先生は全力で解決するよう動くようになってきている。 

つまり、いじめは生徒が頑張って一人で解決しようとしてもどうにもならないこともあることが分かってきたのである。 

いじめられている生徒は既に自我意識的であり、頑張りが足らないことを悩んでおり、それを誰にも相談できずに行動を起こせないでいる。それを先生に訴えるということは解決の為に自分で起こした行動として評価できるのであり、「いのち」のエネルギーの外的表現である。自分の内部で自我に集中しているのではなく、外部に放出されたエネルギーであり、「いのち」の発露である。従って、先生がその「いのち」の発露に注目して、生きようとしている生徒のエネルギーを強化し、より「いのち」が強く表現できるように援助することは必要なことである。 

あるいは訴えるエネルギーさえ持たない生徒を教師の側が見つけ出し、その生徒を保護し、「いのち」の力を増大させ、より強く表現できるように援助することすら必要である。それが「いのち」の育成という観点である。 

「頑張れ」というのは命令であり、育成とは全く違うメソッドである。それは強制し、やがては生徒が自分自身を条件付ける内的な装置として機能し、「いのち」の強化には結びつかない。むしろ、生徒が自主的に起こしたことを取り上げ、それを誉め、強化育成することが必要である。 

それが「いのち」の表現力が弱くなった現代人へのメソッドであり、条件付けではなく、「いのち」や自発性の育成強化を優先するメソッドである。 

夜回り先生として知られる水谷豊氏は、最初、麻薬やシンナーをする、いわゆる不良の子供を扱っていたが、そのうち、生徒の質が変わってきたと言っている。それはリストカットする生徒に見られるように非常に自我意識的で内向していく子供である。 

水谷先生は、そうしたタイプの子供たちには「誉める」ことを通じて、自我を育成し、また両親の手伝いをさせたり、人に役立つことをするように促し、生きる力を得させるように指導している。 
人の役に立つことで生きる力が育まれるというのである。自分への集中でなく、他人へと意識を方向転換することによって、生きるエネルギーを得て、「いのち」の強化につながるのである。これらは全く「いのち」の育成の観点から来る発想であり、現代の子供にとって必要なメソッドである。 

おそらく人の役に立つように行為することによって、自己への集中から解放され、いじめられている自己からも解放されるのである。その時にはもうその悩みはなくなっているかもしれず、問題それ自体が変容しているかもしれない。 

然し、カルマの観点が入ってきたときには非常に複雑になる。 
そこには生徒の心がけなどといった一切の努力とは関係ない原因が存在するのであって、 
生徒へのアドバイスはいかにいじめを受けやすい時期をやり過ごすか、被害を最小限に抑えるかの 
具体的、現実的、実際的な方法を教えることが必要となる。 

同僚や友人とうまくやっていくという理想を「頑張れ」という安易な言葉によって求めるようにしむけたりすることは 
無益であり、いじめられたときにはどうするか、どう自分のいのちを守るか、苦しい状況から逃れるかの具体的、実際的な手段を教えることが必要となる。 

時には法律に訴えたり、被害者の子供と一緒に先方の両親に対して、訴訟を起こしたりするぐらいの現実性があってもいいかもしれない。 
そうして、先生が一生懸命に動いた時、その先生はおそらく、その子供にとっては木星の役割を果たしているのであると言えるかもしれず、既に子供のチャートに木星の保護として現れていると考えられる。 

然し、そうした現実的な対応と合わせて、いじめそのものを扱うのではなく、いじめられている子供に生きる力、「いのち」の強化をもたらすように実践させることが問題の根本解決策かもしれず、それはカルマの解消という観点からも効果的である。つまり、いじめられている被害者の子供たちには奉仕の実践が必要であり、両親や教師、周りの人々は子供に仕事の手伝いなどをさせたり、いろいろ、子供に奉仕を実践する機会や選択肢を与えるべきである。そして、それは命令ではなく、お願いであるべきである。 

そして、奉仕を受けた大人が子供の援助で喜んだり、助かったりする時、、それが子供の生きる力、「いのち」の強化につながるのだと思われる。 

子供にもそのような心理学、カルマ的理解、洞察力に富んだ教師(導師)の導きが必要である。 















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