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かつて人類は恐竜と共存していた時期があった-聖書考古学者が辿り着いた結論-

先日、私はYOUTUBEの動画を色々と見ていた所、面白い動画を見つけた。

面白いというのは役に立つ有益な動画という意味である。


それは2012年4月30日に浦添てだこ大ホールで行われた「恐竜、ノアの箱舟」(Dinosaur and Noah’s Ark)という題名のロス・パターソン氏の講演の録画である。






このロス・パターソン氏がどのような人物なのか、ネットで検索すると、キリスト教伝道センター、サンライズミニストリーのページに辿り付く。

ロス・パターソンによる説教ということで、聖書考古学の立場からキリスト教の聖書に出てくる物語が実際の史実であることを証明するために実際にノアの箱舟の残骸の遺跡を探して発掘したりしている人物のようである。


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聖書考古学

聖書考古学は、旧約聖書の基本となるような出来事を確認できる紀元前2000年紀頃から新約聖書の成立頃までを範囲とする。地理的にはパレスチナ及びその周辺となる。旧約聖書に記された都市遺跡の発掘、教会や教団の存在した地域の調査を行っている。1947年に、死海西岸の洞穴で発掘された「死海文書」は有名である。

(wikipedia 宗教考古学より引用、抜粋)


聖書考古学とは、聖書に出てくる地名や人物などが実際に存在していたことを科学的に証明しようとする人々で、それなりに理性の裏付けによって議論を進めている点で評価できる。

但し、そうした聖書の科学的な検証をキリスト教への熱心な信仰心によって行なっている印象なのである。

つまり、キリスト教への信仰から現代科学の知識を駆使して、聖書の正しさ、信憑性を証明しようとしている。


そのため、キリスト教を信じない人にもある程度の説得力を持って迫ってくる議論となっている。

例えば、この「恐竜、ノアの箱舟」の中の議論もそうした真剣な議論であり、理性的に科学的に考察している。

それはなにかというと、世界の様々な宗教には似たような「洪水伝説」があるということである。

それはどうやら人類が共通して経験したアトランティス大陸が水没する天変地異を表していたことを推測させる内容である。


現代考古学では現在の様々な堆積した地層は長い年月をかけて徐々に形成されたと考えられているが、ロス・パターソン氏によれば、地層の中には地層を縦に貫いている木の化石が見つかるケースがあることから、それらの地層は、長い年月で積み重なったものではなく、ある時に一気に短期間で積み重なったものではないかという推測をしている。

つまり、そのようなことから昔、「洪水伝説」に象徴されるような何か大きな天変地異のような環境の変化があったことが想定されるということである。


聖書に書かれているノアの箱舟の物語は、そうしたアトランティス文明の崩壊、水没時にそれを生き延びた人々の物語であるということである。

そして、そのノアの箱舟が漂着したと推測される場所を実際にトルコに見つけて、箱舟らしき形をした遺跡を実際に見つけたのである。

そして、金属探知機などを使って、その一体に金属反応があることを突き止めて、そこに箱舟があったと主張している。



更にパターソン氏は恐竜は6500万年前に絶滅したと一般に考えられているが、初期の人類は恐竜と共存していた証拠が沢山の遺跡に壁画として残されていることを指摘している。

従って、現代の考古学の年代測定法は間違っているということなのである。


「洪水」の前に人類は恐竜と共に共存しており、そして、「洪水」によって、アトランティス大陸は水没し、一旦、文明は全て失われた。

そして、現代に至るということである。


何故、恐竜が巨大化したのかということであるが、パターソン氏は酸素の濃度が現在よりも濃かったことをその理由としている。

そして、昔の人間はもっと巨大であったと主張し、実際、そのような巨人の頭蓋骨や骨が見つかっていることを証拠としている。



実際、話の内容は実に説得力に富んでいる。


パターソン氏は聖書考古学の立場から聖書の物語を信じており、キリスト教の信仰者であると考えられることから、彼は熱心に聖書が真実であることを伝えたいのである。

そして、進化論を否定し、創造説が本当であることを証明したいのである。



このパターソン氏の講演を聞いて、私はそれがロシア人の神秘家であるヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人(神智学協会)の「シークレット・ドクトリン 人類発生論」の内容を裏付けるものであることが分かった。


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パターソン氏は進化論を否定して、創造説を主張するために科学的な見地から、大洪水と人類と恐竜との共存、ノアの箱舟の物語の真実性などを主張しようとして、結果として、ブラヴァツキー夫人の人類発生論を裏付ける形となった。



神智学では、人類がレムリア時代→アトランティス時代を経て、現代へと遷移してきたことを教えている。


私はキリスト教原理主義の人々が信じる今から5000年前に神が人間を創造し、恐竜も神が創造したという説は信じないが、但し、今から10万年程前までアトランティス文明という科学の進んだ文明があり、大洪水によって海底に沈んだという説は信じている。


以前、進化論と創造説の違いについて書いた記事があるが、その中で、アリスベイリーの『ホワイトマジック』の中の情報を整理して、秘教的な歴史観についてまとめた年表を作成した。


これがおそらく人類の真の歴史である。



実は進化論と創造説はどちらも不完全なのであり、その両方を取り入れた秘教的歴史観に発展させることで、これらの両者の矛盾は解消する。


そして、真の人類の歴史が分かるのである。



5000年前に神が人類を創造したと主張したり、恐竜の化石は神が人類の信仰を試すために置かれたなどという主張はばかげた主張に思える。


一方で、ダーウィンの進化論のように人間は自然淘汰によって、適者生存の法則によって、偶然の突然変異が、取捨選択されて進化してきたとする理論は非常に無理があるように思える。


やはり神というものが存在し、人間は神の設計図に従って進化してきたと考えるのが自然である。


創造説を信じるキリスト教の信者は視野をもう少し広げ、素朴に神を信じるのも良いが、理神論的な宇宙観の中で、神の概念を拡大することによって、それは秘教的歴史観に辿り付くことが出来る。


キリスト教の盲目な伝統信奉主義から離れて、ブラヴァツキーやアリスベイリーが主張した秘教哲学を学習すべきである。


しかし、ダーウィンの進化論のような唯物的な進化の概念、進化は特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとする自然観は何とも空しい自然観であり、宇宙観である。


進化論と創造説がそれぞれの良さを総合した時に進化論と創造説を超えた秘教的歴史観に辿り付くことが出来る。



それらは既にブラヴァツキーやアリスベイリーの著作という形で情報は提供されている。



ロス・パターソン氏はキリスト教の信奉者でありながら、科学の崇拝者でもあり、聖書考古学を通して、厳密に科学的に検証したからこそ、「大洪水」によって人類の文明は一度、断絶したという真実、


そして、かつて恐竜と人類が共存していた時代があったという真実にたどり着くことが出来たと考えられる。



つまり、進化論と創造説の両者を総合することに限りなく近づいたのである。



もしロス・パターソン氏にブラヴァツキーやアリスベイリーの著作でもう少し学習してもらえば、彼は明らかに秘教的歴史観に辿り付くことになる。


ブラヴァツキーの著作の中でも人類の起源は1850万年前であり、人類と恐竜が同時代に共存していた時期があったことや、かつて人間が巨人だった時代があったことが記されている。


そうしたことで、ロス・パターソン氏の講演内容は、ブラヴァツキー夫人の著作の内容を裏付けるものである。



おそらく彼自身は純粋な聖書考古学者であり、キリスト教の信奉者で、秘教とは関係ないと思うのだが、科学的な思考で真剣に探究した結果、全く秘教と同じ結論に到達したようである。

















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神智学とラーフの関係について

先日、マザー・テレサの業績が見方を変えるとカルト的な評価ができるといったニュース記事について紹介したが、非常にグルチャンダラな印象の強い内容であった。

現在、獅子座をトランジットする木星にラーフが接合しているためにこうした神聖な存在を貶めるような解釈が出て来る訳である。

然し、ラーフに傷つけられた木星はグルチャンダラということで単純に片づけることは出来ない。

ラーフの象意については現代的な意味があり、グルチャンダラヨーガには伝統の否定、つまり革新という意味合いもあるからである。

例えば、伝統社会に対して内部告発などによって、腐敗した伝統(体制)の革新を行なおうとする動きなどは、体制側から見れば、グルチャンダラヨーガであり、裏切り者という認識になるかもしれない。

然し、その革新を行っている本人たちにすれば、そうした意識はないのである。
先日、神智学協会の創立者であるヘレナ・ブラヴァツキーの『インド幻想紀行』という本を読んでいたのだが、H.P.ブラヴァツキーの生涯とは、伝統的な宗教への挑戦に彩られている。

神智学協会の創立者であるヘレナ・ブラヴァツキーのチャートを見ると、月が乙女座ハスタに在住し、月から見た5室支配の土星にラーフ、火星、水星が接合している。

HelenaBlavatsky_chart
知性の表示体である水星が、土星、火星と接合し、ラーフとも接合している。
また月から見た5室で逆行の木星が減衰している。

逆行する木星、あるいは、減衰する木星は「非伝統的」であることを表している。
つまり、この配置からすると技術系への興味を示すと同時に非伝統的な知識に対する関心を表している。

素直に既存の古典文学や聖典などを読んで、それを受け入れているといった印象ではない。
ヘレナ・ブラヴァツキーが設立した神智学協会は、19世紀後半のアメリカ・ヨーロッパで既存の伝統的なキリスト教会の教えを批判する動きの中で生じた心霊主義運動(『スピリチャリズム』)があり、その理論に満足できなかった人々によって設立されたという。

そして、仏教やヒンドゥー教などの東洋の宗教思想の西洋への普及に貢献し、キリスト教のドグマを否定すると共にインドのバラモン教徒によって支配されきたインド人からは普遍主義的なヒンドゥー教改革運動として受け入れられたようである。

つまり、ヘレナ・ブラヴァツキーの活動とは、東洋、西洋を問わず、伝統の否定と革新に彩られている。

そうした活動において、減衰する惑星や5室の支配星に絡むラーフが積極的な役割を果たしていることは明らかである。
ヘレナ・ブラヴァツキーは、当時、インドで、伝統的なバラモンたちの権威に挑戦し、サンスクリット語の知識を用いて、真の一神教的なヒンドゥー教に回帰することを主張していたスワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティー師と出会ったようである。

スワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティー師は、宗教改革党の「アーリア・サマージ」を創立しており、初期の頃、この「アーリア・サマージ」と提携して、神智学協会の活動を進めていたようである。
wikipediaにスワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティー師の出生データが載っているので、それでチャートを作成してみると、以下のようなチャートである。

DayanandaSaraswati_chart
双子座に月と木星とケートゥが在住し、月ラグナから見ると5室支配の金星にラーフが接合し、火星がアスペクトしている。
木星は逆行してラーフを支配星が支配星となるアールドラーに在住し、ケートゥと接合して、土星からアスペクトされている。
従って、木星はグルチャンダラヨーガを形成していると考えることができる。
宗教改革党「アーリア・サマージ」を立ち上げたのはその為だと思われる。
当時、唯一ヴェーダの解釈を許されていたカーストであるバラモン教の腐敗を批判し、本来のヴェーダに立ち返ることを主張した点で、革新的であったが、そうしたスタンスが、こうした木星のグルチャンダラヨーガによってもたらされていることは注目すべきである。

木星はアールドラーに在住して、明らかにラーフの影響を受けている。

ナヴァムシャを見ると、木星は月から8室の射手座でラーフと接合してグルチャンダラヨーガを形成しており、彼の人生には腐敗したバラモン僧侶たちの支配による苦しみやその支配との闘いがあったことを連想させる。
そして、元々はキリスト教の牧師で、伝統的なキリスト教の教義を受け入れていたが、後にそうした教義に疑問を持ち、神智学協会で、秘教について学んだ後、チベット人のジュワル・クルー大師からの接触を受けて、そのテレパシーで伝えられる教えを筆記したアメリカ人女性・アリスベイリーのチャートにもそうした傾向が見られる。

アリスベイリーに関しては、伝統的なキリスト教の教義を受け入れず、更に硬直した神智学協会の権威にも反発する必要があった。

AliceBailey_chart 出生図を見ると、やはり知性の表示体である水星がラーフが支配星となるアールドラーに在住してケートゥと接合している。

木星は特にラーフの影響を受けている訳ではないが、木星の星座にラーフが在住しているため、間接的にラーフの影響を受けている。
彼女の場合、神智学と出会ってもキリスト教の信仰をやめた訳ではない点で、非常にキリスト教に対して忠実であり、伝統的である。

然し、一方で、神智学の考え方を受け入れて、キリスト教の教義を自身で修正していた。

こうした2つの立ち場を共存させていたが、魚座のレヴァーティーに在住する木星がキリスト教への信仰を表し、双子座のアールドラーに在住している水星やケートゥが、ジュワル・クール大師から伝えられた高度に抽象的な教えを表している。

そうして伝えられた教えは、伝統的な宗教の教えを遥かに超えた革新的なものである。
私は伝統的でメジャーな宗教で教えを受けたという経験はほとんどなく、昔から新興宗教や、こうしたアリスベイリーやブラヴァツキーの教えを通して、宗教的な概念や教えに触れてきた。そして、ヴェーダ哲学もむしろ、こうした人の著作を通して学んだのである。

例えば、アリスベイリーの著作の中には、バガヴァッドギーターについての解釈が述べられていたり、イエスキリストの生涯についての秘教的な解釈が述べられていたりする。

そうしたヒンドゥー教の現代の解釈者たちを通して、ヒンドゥー教の教えに触れる機会を得てきた。

おそらくそれは、私の出生図で木星が山羊座で減衰して逆行し、双子座に土星、ケートゥ、水星が集中し、ケートゥがアールドラーに在住しているからであると考えられる。

非伝統的な教えに触れて宗教的な概念を得てきたというのはその為だろうと思うのである。
こうしたヘレナ・ブラヴァツキーやアリスベイリーといった系統は、ヒンドゥー教やヴェーダ哲学の現代的な解釈を意味しており、つまり、表示体としてはラーフが該当するのではないかと思われる。
そう考えると、ラーフと木星の絡みについては、グルチャンダラヨーガでは片づけられない所があるのである。
ラーフとケートゥは、ミステリアスな惑星だあり、もっと研究が必要なのである。
因みに今回、『インド幻想紀行』の中から面白い部分を抜粋してみたが、P.127~128に興味深いことが書かれている。
インドには各所に大量の蔵書群が存在し、これにアクセスできれば、単にインドの太古史に限らず、世界史上最も深刻な諸問題にも光を当てることになるというのである。

そして、『貴重この上ない写本を多く抱える蔵書群のいくつかが、各地の王侯やこれに従属するパゴダの僧侶たちの手にありますが、大部分はジャイナ教徒たちとラージプートのタークルたちが所有しています。』と書かれているのである。
以前、知人からジャイナ教の中にはジョーティッシュの秘儀が隠されているといった話を聞いたことがあるが、ヘレナ・ブラヴァツキーの紀行文の中でもジャイナ教徒やラージプートのタークル族がほとんどの蔵書を持っていると書かれている。
また以前、私の3室双子座に在住するケートゥにトランジットのケートゥがリターンした時にジャイナ教の関係者が私の所に何名か来て、ジャイナ教関係者の知り合いが出来たのであるが、そうした経験からラーフが表示体となるアールドラーというのは、ジャイナ教の表示体であるということが分かった。

またアリスベイリーの水星やケートゥがアールドラーに在住していることを考えると、アールドラーというのは、ジャイナ教に限らず、密教の表示体ではないかと考えられる。

そして、アールドラーの支配星であるラーフにもそうした意味合いがおそらくあるのである。
ラーフというものは、木星が表すような既存の伝統的宗教を超えて、更に密教の奥義に進んでいくような場合の表示体なのではないかと思うのである。
伝統や既存の教えを破壊して、突き進むような激しさ、そうした木星とは全く違った意味でのスピリチャルな惑星ではないかと思うのである。
(資料)
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ダヤーナンダ・サラスヴァティー師の人柄と著作

アメリカを発つ前の二年間、私たちは、ヨーロッパで知られた一人のバラモンと頻繁に手紙をやり取りしてきました。同氏の名は、1879年現在、全インドに鳴り響いています。

それはダヤーナンダ・サラスヴァティー師です。ダヤーナンダ師の指導の下、私たちは、先史アーリア国家のこと、ヴェーダ文献、それから難解な言語の勉強などを始めたのです。

師は現在のインドで最高のサンスクリット学者と見られており、だれにとっても完全に謎の存在です。わずか5年前、革命の戦線に身を投じるまで、ギリシャやローマの作家が書いた「裸行者」のごとく、ジャングル中に仙人の生活を送ってきました。後に、神秘家や隠者たちの手助けで「アーリアヴァルタ」(アーリア人の住む土地・北インド)の主な哲学体系とヴェーダ文献の秘教的意義とを学んだのです。

師が大衆の前に姿を現したその日から印象は圧倒的で、「インドのルター」の尊称を奉られました。南に北に町を巡り歩き、信じられぬ速さで国を横断し、インド最南端のコモリン岬から北はヒマラヤまで、東はカルカッタから西のボンベイまでを踏破。「唯一神」を説きつつ、ヴェーダ文献を見せて、古代文献に多神教の考えが一語も書かれていないことを示したのです。偶像崇拝を声高に否定しつつ、カースト制度、幼児結婚、迷信に全力で反対してきました。何世紀にわたるヴェーダ文献のこじつけと誤解からインドに入り込んだ悪徳のすべてを叱責し、その責任がひとりバラモンにあることを堂々と非難し、大衆に対して、祖国インドの屈辱、かつて偉大な独立国家でありながら今や没落し、奴隷化した祖国の屈辱は、バラモンにその責めがあると宣言しました。

ところが、イギリスはダヤーナンダを敵というより味方と見ています。民衆に決起を促すのでなく、逆のことを広言しているからです。「イギリス人を追い出した翌日には、われわれ全員が、バラモンの偶像崇拝やイスラムの専制政治に対して立ち上がった者全員が、残らず羊のように喉をかき切られることになるだろう。イスラムたちは偶像崇拝者よりも強く、偶像崇拝者はわれわれよりも強いからだ」と。

にもかかわらず、イギリス側は己の有利な立場をまったく理解していません。だから、2年前プーナ(インド中西部、ボンベイ東方の都市)の人たちが改革派と偶像崇拝の保守派に分かれ、勝ち誇った前者が講演者ダヤーナンダをゾウに乗せてくり出したとき、後者は石や泥を投げつけたのですが、イギリス側は、ダヤーナンダを守る代わりに町から追い出し、以後、帰還することを禁じたのです。

ダヤーナンダは、民衆の狡猾な敵であるバラモンを相手に何度も熱い議論をくりひろげ、そのつど、勝利を収めてきました。ベナレスでは、密かに刺客が差し向けられたのですが、成功しませんでした。ベンガルの小さな町で呪物崇拝をとくに厳しく攻撃したとき、ある狂信者が大きなインド・コブラを行者の裸足めがけて投げつけました。これに噛まれると、三分以内に死亡し、解毒剤も今のところ見つかっていないといわれる代物です。
「ヴァースキ神自身にわれわれのどちらが正しいか決めてもらおう!」とシヴァ神の崇拝者は叫びました。パゴダの秘密を守るため特別に訓練された大蛇が異端者の命を直ちに奪うものと信じていたのです。

「けっこうだ」と脚にからんだコブラを激しい動作で一度に振り払ったダヤーナンダは、「お前の神はのろ過ぎる。私が決着をつける番だ」と言うや、踵ですばやくヘビの頭に鋭い一撃を加えて踏み潰しました。そして民衆に向い、「さあ、行って、皆に伝えなさい。偽の神々がいかに弱いものかを!」と言い放ったのです。

サンスクリット語に精通しているおかげで、ダヤーナンダは、ヴェーダ文献の教える一神教への無知を正したことで偉大な貢献をしたばかりでなく、バラモンの実態を暴くことによって科学にも貢献したのです。バラモンは過去何世紀、インドでサンスクリット文学の学習とヴェーダ文献の解釈を許された唯一のカーストでありながら、その特権を自分たちの利益にのみ利用してきました。ビュルヌフ(エミール・ルイ・ビュルヌフ<1821-1907>、フランスの言語学者。サンスクリット、ギリシャ語、宗教学、日本神話の著作あり)、コールブルック(ヘンリー・トーマス・コールブルック<1765-1837>、イギリスの東洋学者、サンスクリット語を学び、アジアの言語・文化を研究)、マックス・ミューラー(フリードリッヒ・マックス・ミュラー<1823-1900>、ドイツ生まれでイギリスのサンスクリット語学者)などの優れたオリエント学者が現れるはるか以前、インドにはヴェーダの教理が純粋な一神教であることを証明しようとする多くの現地改革者が存在したのです。

ヴェーダ聖典の啓示を否定する新しい宗教もいくつか創立されました。たとえば、ラジャ・ラム・モフン・ロイであり、つづくバーブー・ケシュブ・チュンダー・センで、ともにカルカッタ・ベンガル人です。しかし二人とも決定的な成功を収めることはできず、インドにある無数の宗派が2つ増えただけの結果に終わりました。ラム・モフン・ロイはほとんど見るべき成果もなくイギリスで亡くなり、後継者のケシュブ・チュンダー・センは、「ブラーモ・サマージ」教会を設立しました。これは本人独自の想像の深みから引き出された宗教であるといいます。やがて難解きわまる神秘主義へと没入して行ったケシュブは、今や心霊主義者と「同じ畑で取れたイチゴ」であり、心霊主義者にいわせれば、霊媒でありカルカッタのスウェーデンボルグである、となります。

このようにアーリア・インドの純粋な原始一神教を再生する試みは、今までのところいずれも実を結んでいません。バラモン教の岩盤と数世紀に及ぶ根深い偏見とのために空しく砕け散ったのです。

しかしごらんなさい。図らずもダヤーナンダ師が現れました。最も身近な弟子たちでさえ、師が何者か、どこからきたかを知りません。ダヤーナンダという名前さえ本名ではなく、ヨーガ行者として秘儀参入を認められたとき与えられたものだ、と公に認めています。しかし一つはっきりしているのは、インドにおいて、ダヤーナンダほどサンスクリット学に優れ、哲学が深遠で、説得力に秀で、しかも諸悪を糾弾することに仮借ない人物は極めて稀であり、唯一の前例は、ヴェーダンタ哲学の著名な創立者で多神教教理の帝王、シャンカラチャーリャのみ、ということです。

その外見も劣らず魁偉です。背が高く、肌は、日焼けにもかかわらず白く(インド人というよりヨーロッパ人のようであり)、目が大きく光り、長く伸びた髪は半白です。声は明瞭でよく通り、どんな感情の綾をも的確に表現してのけます。たとえば、甘美で女性的な囁きで諭すかと思えば、僧侶たちの軽蔑すべき不行跡や過ちに対しては怒号の雷鳴を落す、といった具合です。結果として、感じやすく瞑想的なヒンドゥー教徒たちに、圧倒的な影響を及ぼしつつあります。

ダヤーナンダが行くところ、どこでも民衆はその足下にひれ伏します。バーブー・ケシュブ・チュンダー・センの場合と異なり、新宗教を説くでなく、新しいドグマを説くでもありません。今やほとんど忘れられたサンスクリット語へ戻れ、とだけ言うのです。そしてアーリア・インド時代の先祖の教えをヒンドゥー・バラモンと比較して、原初の聖仙たち――アグニ、ヴァーユ、アディチャ、アンギラたち――の教えた純粋な神の概念へ戻るよう諭すのです。またほかの行者のように、ヴェーダ文献が「神からの啓示」だとは教えません。「ヴェーダ文献のことばはすべて、この地上で人間に可能な最高の霊的直感の一種であり、人類史上、必要とあればほかの民族でも同様な直感が生じてきたものだ」と教えます。

この5年間、ダヤーナンダは主に上級カーストの間で200万人の改宗者を獲得しました。改宗者の表情を見ると、師のためには、命も心も、場合によっては、ヒンドゥーにとって通常命より大切な財産さえも、いつなりと師に捧げる覚悟ができているように見受けます。

しかしダヤーナンダは、純粋のヨーガ行者であり、お金に手を触れず、金銭問題を軽蔑し、一日に手の平2、3杯の米があれば満足しています。しかしこの驚くべきヒンドゥー人の生き方は、人間の最も下劣な感情を無造作に弄び、危険極まりない邪悪の怒りをかき立てていて、何かに魅入られたとしか思えません。大理石像でさえ、この恐るべき危険を前にしては、平静ではいられないことでしょう。

師のやり方を現場で目撃したことがあります。身近な信奉者たちをすべて遠ざけ、師を護衛することを禁じました。そしてただ独り、激昂した群衆の前に立ち、今にも飛び掛かって、バラバラに引き裂こうとしている怪物と静かに相対したのです・・・・。

2年前、ヴェーダ文献をインドで最も広く使われている方言のヒンディー語に翻訳することをスタートし、自身によるまったく新しい注釈をつけました。師の著書『ヴェーダ・ブラーシャ』は、ドイツ生まれのサンスクリット学者マックス・ミューラーにとって、翻訳を進める上で最高の参考文献となり、現に師と緊密な連絡をとり相談してきたのでした。オックスフォード大学教授で今一人の優れたオリエント学者、モニアー・ウィリアムズも、インド滞在中、ダヤーナンダ師の知遇をえ、弟子たちと接しえたことで大いに恩恵を蒙っています。
(『インド幻想紀行』H.P.ブラヴァツキー著 加藤大典訳 P.44~50より引用抜粋)
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神智学協会の結成
ここで、話がしばらくわき道にそれます。
二、三年前ニューヨークで、才気煥発な人たちが決起してある協会を設立しました。機知に富む某氏がその協会にあだ名をつけました。曰く、心霊主義不満家協会。この協会の創立者たちは、心霊現象を、大自然の諸現象と同じように信じてはいましたが、なおこの「霊」の理論には反対だったのです。また現代心理学を科学と考えはしました。が、それは心理学発展の最初期のことで、「霊人」の本質が何たるかをまったく知らず、代弁者たちに好都合な説明ばかりを聞かされていたのです。

この協会(「神智学協会」)には、創設当初からアメリカで最も学識ある人々が参加しました。そのため地理学会や考古学会で、ナイル河の水源はどこか、象形文字はどこからきたか、といったことを何年もかけて議論したように、会員の考え方や意見がなかなか一致しないのです。しかし、現にナイルに水が流れ、ピラミッドが存在する以上、水や象形文字の源泉はどこかに存在するはず、という点では意見が一致したように、心霊現象や動物磁気現象に関しても同じことが当てはまるはずだ。こういう現象は解読者が現れるのを待っているのであって、解読の鍵はアメリカやヨーロッパではなく、今もなお魔術を信じ、(社会は信じないが)「奇跡」が現地の僧侶たちによって行なわれ、冷たい科学的唯物論にまだ汚染されていないところ、つまりオリエントに求めるべきだ、と考えたのです。

たとえばラマ教徒は、この協会の理事会の見るところ、神を信じず霊魂の個性を認めていないが、その起こす霊現象は有名である、ということ。また中国では、何千年間、「陰陽道」の名で、「催眠術」が知られ実践されていること、などです。

インドでは、心霊術者たちが「霊」を大変崇拝しますが、一般からは恐れ憎まれています。にもかかわらず、単純で無知な托鉢僧などが、学識ある研究者を困らせる狙いで「奇跡」をやってのけ、ヨーロッパの超一流の魔術師たちを絶望させる腕を見せているのが現状です。神智学会会員の多くはインドを訪れ、また現地生まれの会員も多いので、バラモン僧の「魔術」は自身で目撃しています。

同協会の創立者は、人間の霊の側面に関する無知の広がりに着目し、キュヴィエ(ジョルジュ・キュヴィエ<1769-1832>、フランスの博物学者)の比較解剖学の手法が、いずれ形而上学にも応用され、物理学から心理学の領域へ前者と同じ帰納および演繹の手法に基づいて拡大される、またそうでなければ、精神医学は一歩も前へ進まず、そればかりか他の自然科学分野全体の進歩さえ妨げることとなる、と考えたのです。すでに見られるように、生理学が、本来の領域でない純粋形而上学的な抽象科学の分野、未開のこの分野を徐々に侵食しており、しかもその野心がないかのように振る舞っています。こうした自然科学分野の個差を無視した強引な体制に依拠しつつ、心理学を科学の一分野に仕立て上げようとしているのです。

さて神智学協会員は、ほどなく数百人の集まりから数千人の規模へと急成長しました。「アメリカ心霊主義」(心霊主義者の数は推定で千二百万人)に不満な人全員が移ったのです。
やがて傍系の支部も、ロンドン、コルフ(ギリシャ西岸沖の島第一の港市)、オーストリア、スペイン、キューバ、カリフォルニア等に設けられ、実験が行なわれた結果、「現象を起こすのは、霊ばかりではない」ことがいっそうはっきりと確認されました。
(『インド幻想紀行』H.P.ブラヴァツキー著 加藤大典訳 P.50~52より引用抜粋)
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アーリア・サマージとの提携

そのうちインドとセイロン(現スリランカ)にも支部ができました。ヨーロッパ人より仏教徒やバラモン教徒の会員の方が多くなったので協定が結ばれました。そして協会名に副題として「人類同胞会」が加わりました。スワーミ・ダヤーナンダが創立した宗教改革党の「アーリア・サマージ(アーリア人協会)」のリーダーとくり返し書信で交渉した結果、協定が成立し、ニューヨーク協会の理事長が、現地でサンスクリット学者の指導を受けながら、ヴェーダ文献の古代語、写本、ヨーガ行法の「驚異」などを研究するため、インドへ特別使節団を送ることが決まったのです。使節には、ニューヨーク協会の会長と二人の秘書、そして二人の理事が選ばれました。1878年12月17日、使節団はニューヨークから、ロンドン経由でボンベイへと向い、1879年2月目的地に到着したのです。
「協会」に所属しない使節に比べれば、この使節団員は好条件に恵まれており、インドの研究や詳しい調査を進めるなどの上で、有利な立場にあることは明らかです。団員は「兄弟」と見なされ、有力な現地人の援助を受けられます。協会員のなかには、ベナレスやカルカッタの学僧、セイロンの仏教寺院の高僧たち―― そのなかには学殖深いスマンガラの名も見えます(この人は、ミナーイェフがその旅行記に述べているアダムズ・ピークにあるパゴダの大僧正)― チベットのラマたち、ビルマやトラヴァンコール(インド南部の旧藩王国)その他の学僧たち、などが含まれています。使節団のメンバーは、従来ヨーロッパ人が足を踏み入れることのなかった聖域に入ることを許されています。したがって、「厳密な」科学の代表者たちがわが信奉者たちに対して見せる、あの聞く耳を持たない頑迷さと敵意にもかかわらず、人類と科学に少なからず貢献できるかもしれません。

ボンベイ上陸と同時に、ダヤーナンダ師に電報を打ちました。個人的な知己をえたかったからです。師の返事には、ハルドワールへ行かねばならない。例年何十万人の巡礼が集まるので、とありました。そしてハルドワールに来ないように、必ずコレラが発生するから、とあり、パンジャブ州のヒマラヤ山麓にある場所を指定して、一か月後に会おう、ということになりました。そういうわけで、私たちはボンベイの名所やその周辺をくまなく探索する時間ができたのです。

市内をざっと見回ってから、急遽デカン地方へ出かけて、カールリーの大寺院での祝祭を見学しようということになりました。この寺院は、仏教の古代石窟寺院といわれ、バラモン所属の寺院だった、ともいわれます。後に、サールセット島のターナーとカーンヘリ寺院を訪ねてから、ニキタの息子、アタナシウスが絶賛したチャウルを訪問する予定を立てました。
(『インド幻想紀行』H.P.ブラヴァツキー著 加藤大典訳 P.52~54より引用抜粋)
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アクセス不能の蔵書群

一般的に言って、インドでの考古学者の地位は悲しいものです。大衆は、無知に沈み込み、何の役にも立ちません。一方、教養あるバラモンたちは、パゴダ内の秘密の蔵書ですべての秘儀を授けられますが、そのことには口をつぐんだ上、あらゆる妨害行為で考古学的研究を邪魔します。

とはいえ、今までの歴史的経緯を考えれば、バラモンたちの行為を非難するには当たりません。何世紀にわたる苦難の経験から、他人を信じず、かつ用心深くあることが己を救う唯一の道であることを教えられたのです。さもなければ、国家の歴史も神聖な宝物も回復不能なまでに失われるだろうということです。

何世紀もの間、インドを分断し国家の基盤そのものまで揺さぶってきた政争やイスラムの侵入、すべてを破壊し尽す狂気じみたイスラムの略奪、聖典を探し出し破壊するためには、どんなに巧妙な計略をも辞さないカトリックの宣教師たち――こうしたすべてが、バラモンたちの行為を正当化して余りあります。

しかし、世紀を通じたこれらの破壊にもかかわらず、インドには各所に大量の蔵書群が存在し、これにアクセスできれば、単にインドの太古史に限らず、世界史上最も深刻な諸問題にも光を当てることになります。貴重この上ない写本を多く抱える蔵書群のいくつかが、各地の王侯やこれに従属するパゴダの僧侶たちの手にありますが、大部分はジャイナ教徒たちとラージプートのタークルたちが所有しています。
(『インド幻想紀行』H.P.ブラヴァツキー著 加藤大典訳 P.127~128より引用抜粋)
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タークル族と城塞

太古のタークル伝説によれば、その城砦は、いずれも岩山の頂に、まるでワシの高巣のごとく、ラージャスタン全土に散在するといわれます。ジャイサルメルとパターナの写本群は有名ですが、政府はまったく手を出せません。

写本は、太古の、長く忘れられた言語で書かれていて、高僧やその秘儀を授けられた図書係にしか理解できないのです。ある分厚い二折本は、とくに神聖不可侵と見なされており、ジャイサルメル(ラージプート砂漠の首都)のチンターマニ寺院の中央に太い金の鎖でつながれており、新しい高僧が着任したときだけ、取り出して埃を払い綴じ直すのです。
(『インド幻想紀行』H.P.ブラヴァツキー著 加藤大典訳 P.128より引用抜粋)
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グルチャンダラヨーガについて その2

今日、読んでいた記事の中にマザーテレサの活動を批判する記事が載っていた。

確かにマザーテレサにも色々と欠点はあっただろうと思われるが、人物の長所や業績については過小評価して、欠点や過失をあら探ししてほじくり返し、高い評価を受けている人を落としめるこの言論は、明らかにグルチャンダラヨーガの発現ではないかと思われる。
然し、別の見方によっては、今まで聖人と考えられてきた人物にやや辛辣で合理的な観点から批判を下しているとも考えられる。

但し、その批判する観点が、ややラーフの特徴となる妄想や幻想に彩られている。

何か人間の偉大さに対する感受性が欠如した曲解、誤解があるように感じられる。

確かにマザーテレサが、頑固な人物で、晩年には自分が設立した『神の愛の宣教者会』を自ら脱退する程、我が強く、人に合わせることの出来ない個人主義的な人物であったことは知られている。
また特定のキリスト教的な信念に凝り固まっていて柔軟性に欠けていたことも事実としてあると考えられる。

然し、インドの貧しい地域に入っていって、慈善活動を行なうというのは、普通の人には出来ないことであって、そうした人間の偉大さに対する好意や想像力が欠如した安直な批判なのである。
インドで極貧の中で死にゆく人々を看取ることによって、単に食料や物資を贅沢に提供する以上の救いがあるのだろうと考えられる。

そうしたことをキリスト教のカトリックの枠組みの中で行い、多少、イエスへの献身や信仰から狂信的になることがあったとしても、それを補って有り余る程の貢献もあったはずだ。
ラーフは、今まで評価されてきた木星の価値を全く、正反対のものに貶めてしまったようである。
ラーフは5室に絡む場合、ロケットや航空機を開発するような技術的で科学的なマインドなのである。

そうしたマインドには、木星の美徳や深みについては決して理解できないと考えられる。

然し、ロケットを月に飛ばすほどの物質的な合理性であり、ある種、木星とは全く違った点で秀でている。性質が全く違うのである。
マザーテレサの施設が、衛生が行き届いておらず、イエスの受難の理想から、痛みに耐えることは尊いことだといった間違った信念に陥り、“痛みに耐える”ことを患者や貧しい人に強いたということはあったかもしれない。それは事実である。

そうした迷信じみた狂信性は確かにあったと考えられる。
このようにラーフが介在することで、木星の欠点が時には浮き彫りになってくる。
これは不思議である。

ラーフが木星に絡むと明らかにグルチャンダラヨーガである。
ラーフの手にかかると、今まで神聖視され尊敬されて来たマザーテレサが、180度、正反対のカルト的な狂信者だったということになってしまうようである。
確かにこの下の記事に書かれているマザーテレサの事実関係は本当のことだろうと思われる。マザーテレサに対する批判は理に適っている。
然し、ラーフには、マザーテレサの深さというものは全く分からないようだ。
但し、ラーフの力で、木星の狂信性やカルト性といった木星の欠点があぶりだされることもまた事実である。

先日、NHKで放映されたUFOの番組(BSプレミアム夜22:00~23:00『幻解!超常ファイル ダークサイド・ミステリー』)もそうだったが、
木星にラーフがコンジャンクションしている今現在、宗教的、道徳的なものが、否定され、貶めらえるそうした出来事が様々な分野で生じている。
これらの興味深い現象について注意深く観察するべきである。
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マザーテレサの怖い素顔が明らかに! 「洗脳看護」「カルト施設」、その実態とは!?
2013年3月13日 21時0分 ハピズム

去る3月2日、インドの日刊インターネット新聞「The Times of India」に、「Mother Teresa ‘saint of the media’, controversial study says」とのタイトルで、マザー・テレサのこれまでのイメージがメディアによって作られたものであるという研究結果が出たと、掲載された。

マザー・テレサといえば、貧困や病気にあえぐ弱い人たちの救済活動に生涯を捧げた、カトリック教会の修道女。修道会「神の愛の宣教者会」の創立者でもある彼女は、”無償の愛”の代名詞のように伝えられており、今なお、世界中の人々から崇め、慕われている。しかし、カナダの宗教学専門誌「Religieuses」最新号で大学の研究者が発表した論文によると、マザー・テレサの美談や名声は、カトリック教会の誇大宣伝のためにデッチあげられたものであり、聖人には程遠い人物だったというのだ。

■これまでのマザー・テレサ像

1910年、オスマン帝国領のコソボ州で生まれたマザー・テレサは、敬虔なカトリック信者の両親に育てられ、12歳のときに「修道女としてインドで働きたい」と決心。18歳で、ロレト修道女会に入り、インドのカルカッタに派遣され、上流階級の子女の教育に携わっていたが、「すべてを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という神からの啓示を受け、カルカッタのスラム街に移住。宗教を問わず、貧しい人、病気の人など弱者のために働きたいとし、1950年に修道会「神の愛の宣教者会」を設立。ホスピスや児童養護施設を開設し、その無償の愛の活動は全世界に知られるようになり、世界中から援助が集まるようになった。1971年に、教皇・パウロ6世から勲章「ヨハネ23世教皇平和賞」を授章されたのを皮切りに、ノーベル平和賞など数多くの賞が贈られた。1997年に、87歳で亡くなった時には、インド政府が国葬を行い、死後5年目にはヨハネ・パウロ2世が「彼女は福者である」と宣言した。そして、なにかと問題の多いカトリック教会において、清く正しく、いつまでも輝き続ける聖人のような存在として、マザー・テレサは人々の記憶に残ることとなった。

■明らかになりつつある、マザー・テレサの素顔!

しかし、実像は異なるのではないか、と疑問を投げかける者が現れた。今回「Religieuses」に論文を寄稿したのは、モントリオール大学とオタワ大学の研究員たちである。

彼らは、マザー・テレサに関する文献資料、約300件を調査し、「マザー・テレサが世界中に開設した517もの『死を待つ人々の家』ホスピスは、衛生状態が悪く、医薬品も慢性的に足りず、満足な治療が施せなかったと報告されている。しかし、彼女の修道会『神の愛の宣教者会』は何百万ドルもの多額の寄付金を受けており、金銭的に困っているわけではなかった」という事実を突き止めたと発表。そして、「マザー・テレサは、患者の痛みを和らげることはせず、痛みに耐えることを賛美して癒やすという、怪しげなことをしていた。多くの病人が、彼女の元を訪れれば、医師が治療をしてくれると思っていたにもかかわらず、彼女は、イエス・キリストの受難のように、痛みに耐えることは尊いことだと繰り返し言うだけだった」「人気が低迷しつつあったバチカンは、劣悪な環境で痛みに苦しむ人たちに『あなたは素晴らしい人間なのよ』と優しく接している、マザー・テレサのことをまさに“生きる聖女”だと大げさに宣伝することで、カトリックのイメージアップを図ろうとした」と指摘した。

また、「バチカンは異例の早さで彼女を福者だと宣言したが、“痛みに耐えろ”という、怪しげな看護方法、問題点の多い政治家とのコネ(ハイチやアルバニアの独裁者を支持し多額の寄付金を得たという説がある)、多額の寄付金の管理に関する疑問点、そして、中絶、避妊、離婚に関して過度に批判していた点などは、一切、問題としなかった」とも綴っており、事実を知れば知るほど、マザー・テレサの神話はでたらめだということが明確になるとしている。

さらに、マザー・テレサの名が一気に世界に広まったのは、英BBCのマルコム・マガリッジ氏の力が大きいとも指摘。中絶反対派でカトリック右派のマザー・テレサに共鳴したマルコムは、1968年にロンドンで彼女と面会しており、翌年、そのミッションをたたえる映画を製作。「初めて写真に撮られた奇跡」として、コダック社もマザー・テレサを宣伝に使い、彼女の顔は世界中に知れ渡った。

奇跡といえば、バチカンは、「マザー・テレサは、ひどい腹痛に苦しむモニカ・ベスラという若いインド人女性の腹部に、宗教的なメダルを置き、祈ったことで治癒した」とし、マザー・テレサの奇跡として伝えている。しかし、医師は、「モニカが患っていた卵巣嚢腫と結核は、投与された薬により治癒したのだ」と証言しており、これを否定。それでも、バチカンは「奇跡だ」と主張し続け、多くの人々を騙しているという。

なお、マザー・テレサは晩年心臓病を患い、ペースメーカーを入れる手術などを受けていたが、自身は衛生的で設備が整った近代的なアメリカの病院で、痛みを和らげる麻酔薬を投与されながらの治療を受けていた。まさしく、聖人からは程遠い人間だったというのである。

マザー・テレサは聖人ではない、うさんくさい人間だという意見は、実は昔から出ていた。2年前に62歳の若さで食道がんでこの世を去った無神論者のジャーナリスト、クリストファー・ヒッチンズは、長年、マザー・テレサはとんでもない食わせ者だと主張し続け、それに関する本まで発行。「彼女が世界中から集めた寄付金を使えば、ベンガルにファーストクラスの病院を建てることだってたやすいことだった。しかし、彼女はそうせず、衛生状態の悪い、あまりにもひど施設に患者を収容し、ろくに治療を施さなかった。痛みを和らげるなど嘘だ。死ぬこと、痛みに耐えることを賛美する、まさしくカルトのような施設だったのだ」「信仰する宗教に関係なく看病したというが、それも嘘。朦朧とした患者に、痛みに耐えれば天国へ行けると、繰り返し言い、洗脳した」と厳しく批判している。

今回発表された論文だが、「聖人的なイメージを持つマザー・テレサの創られた神話が、貧困にあえぐ人々の救済を目指す人道活動家たちを励ますことになっているのは確かだ」「しかし、マザー・テレサに関するメディア報道は、もっと慎重に、事実に基づいたことを伝えるべきだ」という言葉で締めくくられている。

衝撃的な論文であるが、マザー・テレサの人気は不動のものだとされており、カトリック教会への打撃はさほどないだろうと、米メディアは見解を示している。今から10年前、2003年にローマ教皇庁はマザー・テレサの列福式を行ったが、世界中から25万人を超える人々が集まり祝福。実像がどうであれ、カトリックが全力を注ぎ創り上げたマザー・テレサの”聖人としての神話”は、揺らぐことのない、不動のものなのである。
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マザー・テレサは聖人ではなかった
2016年04月12日 21時56分 JST The Huffington Post Japan

2016年の9月4日にマザー・テレサが聖人に列せられる。これは驚くことではない。2003年に彼女は福音に列し、列聖への道を一直線に進んでいるようだ。だが、彼女は聖人ではない。

マザー・テレサの列聖は、彼女の問題だらけの伝説に蓋をすることになる。改宗の強制、独裁者との疑わしい関係、収益の不適切な管理、それに、質の悪い医療などだ。最悪なのは、彼女が慈善の金を第三世界に浪費した典型的な白人だったこと。こうした理由で誰もが知る彼女のイメージが形成され、インド独立後の精神を深く傷つけ、分裂の根源となった。

2013年、オタワ大学の研究で、マザー・テレサを取り巻く「人のために尽くした寛容な行為の神話」は覆えされた。彼女の崇高なイメージは事実と違い、基本的に弱体化したカトリック教会がメディア・キャンペーンを強要した結果だったと結論付けている。

彼女はその生涯に、100カ国で計517の慈善活動を行ったが、研究では、医療を求めた者はほとんど診療してもらえなかったという。医師は不衛生な、「適していない」環境で診療しなければならず、食料も不十分で、鎮痛剤もなかった。資金が足りなかったわけではない。マザー・テレサの呼びかけは海を越えていたからだ。研究者らによれば、診療環境が十分でなかったのは、彼女が「苦しみと死に対する独特の信念」を持っていたからだという。

「キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています」。マザー・テレサはかつて、ジャーナリストのクリストファー・ヒッチェンスが投げかけた疑問に対し語った。

キリスト教では忍耐を神聖視しているとはいっても、どんなひねくれた考え方をしたら、そんな考え方になるのだろう。

彼女の活動場所から、その答えはすぐ分かる。人種差別的な植民地主義だ。100カ国で活動し、アルバニア生まれであるにもかからず、マザー・テレサはインドのマザー・テレサとされ、インドは「コルカタの祝福されたテレサ」を生んだ。彼女はその地で、歴史学者のヴィジャイ・プラシャドが言う「黒い体を誘惑と過ちから救うために働く、植民地の典型的な白人女性のイメージ」となった。

彼女のイメージは植民地の論理に完全に縛られている。世界で最も貧しい褐色の肌の人々を救う、輝く光を持った白人というイメージに。

マザー・テレサは殉教者だった。インドや南半球の貧しい人のための殉教者ではなく、白人とブルジョワのための殉教者だ(プラシャドは、それは「貧困を生み、維持する力に真に立ち向かう」のではなく、その反対の役割を果たしたと言う)。

では、彼女はどうやって褐色の人々を救ったというのか? 仮に救ったとしても疑わしい。彼女にはいつも「思惑」があった。インドの最も貧しく、病気の人々をキリスト教に改宗させることだ。ヒンドゥー教のNGO指導者は2015年に語っている。彼女とその修道女が死にそうな人に洗礼を施した例が数多くある。

彼女を何か特別なものにしようとする教会の熱烈なキャンペーンもあった。

このキャンペーンは彼女の存命中にスタートした。中絶反対を唱えるイギリス人ジャーナリストのマルコム・マゲリッジが、大きな十字架の前で祈るパブリック・イメージを作りだし、マザー・テレサのイメージを広めた。最初は1969年の聖人伝ドキュメンタリー、次は1971年の著書だ。彼は人々に、マザー・テレサは歴史上ではなく「神話の域」にあると位置づけた。

彼女は死後、(聖人に次ぐ)福者の地位になったが、、それはルールを破っても捕まりたくない人が熱烈に支持したからだ。教皇ヨハネ・パウロ2世は通常、必要な死後5年というプロセスを放棄し、死後1年で手続きを開始した。

素晴らしい功績があるとされるひとりの女性には、非難されることなどないと思っているかもしれない。だが、マザー・テレサは生前、悪名高き独裁者と親交があった。ハイチのジャン・クロード・デュヴァリエ(マザー・テレサに1981年、レジオンドヌール勲章を授与した)と、アルバニアのエンヴェル・ホッジャ労働党第1書記だ。

こうしたものはどれも特に目新しくはない。ほとんどは彼女が列福した2003年に浮上した。クリストファー・ヒッチェンスの著述と、タリク・アリのドキュメンタリー「地獄の天使」の中で示されている。これは死者の悪口を言うためのものではない。

しかし、マザー・テレサが時間を経ずして聖人になるのはかなり腹立たしい。私たちは神を想像し、自分たちに似た人の中に神聖さを見いだす。この中で、マザー・テレサのイメージは西側至上主義、白人至上主義の残像として映る。彼女の栄光はインドの精神の犠牲の上に成り立っている。また、10億人のインド人と、分離した人々の犠牲がある。彼らは、自分たちを助ける白人は特別で優秀だとの概念を強制的に植え付けられた。改宗など大したことではないと思わされた。ノーベル賞を受賞した5人の「インド人」のひとりが病気の人を死なせる女性だったという、とんでもない事実を受け入れざるを得なかった。貧困は美しくない。マザー・テレサは時を経て白人にとっての聖人となっても、褐色の肌にとっての聖人とはならないだろう。

この記事はハフポストUS版に掲載されたものを翻訳しました。
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国際主義と民族主義(カント哲学とヘーゲル哲学)

民族主義、ナショナリズムは蟹座と関係がある。

民族指導者は、皆、独裁的で強権を発動して強いリーダーシップで危機を乗り越えようとする。

それは蟹座から見た10室が牡羊座であり、火星が支配星だからである。

彼らのアプローチは、外に向けて展開された場合、帝国主義的となる。

ヒトラー (天秤座ラグナ、10室蟹座)
ムッソリーニ (天秤座ラグナ、10室蟹座)
田中角栄 (蟹座ラグナ、 10室牡羊座)
ガンジー (天秤座ラグナ、10室蟹座)
ジョージブッシュ (蟹座ラグナ、 10室牡羊座)※蟹座惑星集中
小泉純一郎 (蟹座ラグナ、 10室牡羊座)
インディラガンディー (蟹座ラグナ、 10室牡羊座)
安倍晋三 (蟹座ラグナ、 10室牡羊座)

因みに私が以前、調べた所によれば、インドで全体主義の危険が生じた時は、皆、蟹座にダブルトランジットが生じた時だった。

全体主義や帝国主義は同じ蟹座を源としている。
例えば、9.11同時多発テロの時、土星は牡牛座、木星は双子座をトランジットしていた。

2001年10月7日、アフガニスタン侵攻、10月26日に米国愛国者法が可決し、全体主義的な体制が強化される。

その後、2002年7月5日に木星が蟹座に入室すると、土星は牡牛座から蟹座にアスペクトして、蟹座にダブルトランジットが生じた。

この間、アメリカ市民の間に星条旗がはためき、愛国的熱狂に包まれ、戦争に反対するものは非国民であるといった風潮が支配した。

2003年3月にジョージブッシュはイラク侵攻を命じた。

この木星が蟹座に入室し、土星が牡牛座から蟹座にアスペクトして、蟹座にダブルトランジットが成立した2003年前後に米国を支配した愛国的熱狂、帝国主義、全体主義は、蟹座がもたらしたものである。

ブッシュ政権下のブッシュの側近たち(新保守主義者:ネオコンサバティブ)が、21世紀プロジェクトを立ち上げて、アメリカの力で世界を統治していくという方針が打ち出された。
アメリカの覇権が世界を統治する、世界に民主主義をもたらすという考え方である。
当時のブッシュ政権の国防長官ドナルド・ラムズフェルド(ネオコン)は、EUのことを古いヨーロッパと呼んで小馬鹿にした。

このネオコンの人々は、元々はトロツキーの革命理論を信じる左翼青年の集まりで、元々は民主党であったが、ジョンソン大統領の提唱する〈偉大な社会〉に失望し、民主党に失望して、共和党に寝返った人々であるという。
因みにジョンソン大統領の<偉大な社会>とは、公民権法の制定、貧困撲滅、社会保障の拡充、学校教育に対する連邦の援助などの政策を次々に実現化した点で、社会主義的であった。
※ジョンソン大統領は、64年に圧倒的な支持で当選すると、投資減税と所得税率の引下げによる大幅減税が実施し、予想以上の効果を収めたという。

そして、それに続いて積極的に民間経済に介入し始め、不況時の財政支出の増加や、教育、福祉、人種差別廃止、環境保全、都市開発など広範にわたる<偉大な社会>政策を提唱した。(wikipediaより)
このジョンソン大統領の政策は、大衆の福祉にとっては非常に善いもので、現在の貧富の差が拡大した悲惨な現状から比較すると、比較にならない程、福祉の充実した暮らしやすい社会であった。

然し、ネオコンの人々は、元々社会主義が肌に合わない人々なのである。そして、好戦的である。
ジョージ・ブッシュの蟹座ラグナに金星、土星、水星などが惑星集中していたが、これらの惑星はブッシュ政権の側近であるネオコンの人々を象徴している。

つまり、ネオコンは蟹座の人々であり、社会主義政策が、どんなに人々の福祉にとって良いものであってもそれが、肌に合わないのである。
蟹座の人々は、本質的に資本主義であり、新自由主義であり、<公共>とか<社会>という概念をもたない人々である。

彼らは非常に自己中心的であり、自分自身の自由を至上のものとし、自分の自由を妨げる他の一切の社会に対する責任を認めようとしない。

蟹座の人々は、例え世界革命をもたらす場合であっても、自分の力で個人的に実現したいと考えるのである。

これが、ネオコンの人々の本質的な特徴である。
例えば、安倍晋三も民主党の管直人との政策討論の中で、うまく機能していない国民年金に税金を投入してカバーしようという民主党の管直人の主張に対して、国民年金は基本的に支払った人だけがもらうべきであり、税金の投入はするべきではないと断固として主張した。

蟹座の人物は、基本的に税金によって政府の力で、公共の福祉を実現しようという考え方に乗り気ではない。つまり、社会主義が嫌いなのである。
つまり、蟹座の人にとっては、貧乏になるのも金持ちになるのも本人の努力次第、弱肉強食の自由主義を好むのである。然し、皮肉なことに蟹座から見ると水瓶座は8室であるため、最も公的な社会の恩恵を個人的に利用する人々でもある。
彼らの社会政策の特徴は、世界を自分たちの実力で、自分たちの覇権によって変えてゆこうという積極的な姿勢である。

元々トロツキーの革命理論を信奉していただけあって、戦闘的な革命論者である。
因みにネオコンの軍事・外交政策をwikipediaから引用すると、その特徴がよく出ている。

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ネオコンの軍事・外交政策

ネオコンは、自由主義を世界に広めることと自由化・民主化を理想とし、軍事政策や外交政策は新現実主義路線を採る。また、自由民主主義は人類普遍の価値観であると考え、その啓蒙と拡大に努めている。
また、ネオコンは核戦略において、元トロツキストでランド研究所の重鎮アルバート・ウォルステッター (w:Albert Wohlstetter)の予防的戦争や限定核戦争などの議論に強い影響を受けている。
「緊急時(同時多発テロなど)にはアメリカの国防に何ら寄与しない」として、国際連合に極めて批判的である(ジョン・ボルトンの発言に端的に現れている)。国際連合の枠外による国活動を主張するが、それは単独行動主義的であるとして、同盟諸国から批判されることも多い。「有志連合」などは、国際連合の影響力の及ばない多国籍からなる一時的な国際組織として注目されたが、アメリカ合衆国はこの有志連合を恒久的に維持する姿勢を現時点では見せていない。
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つまり、自由という価値観を史上のものと考えており、予防的戦争とか限定核戦争といった好戦的な思想をもっている。

そして、自分たちを上から押さえつける可能性のある国際連合というものに極めて批判的で、国連嫌いである。

つまり、他の人々との協調とか妥協、責任の分担といったことが全く嫌いで、自分は自由で、他の人を主導する立場に立ちたいという自己中心的な姿勢がその特徴である。
蟹座にとって、行為の10室は牡羊座であるため、そのような特徴は理解できるのである。牡羊座はNO.1になりたいのであり、人の下に従属することを嫌う。
然し、アイン・ランドの『肩をすくめるアトラス』を米国民が愛読しているように、米国民は、元々このような蟹座-牡羊座ラインの思想や理想を抱く国民である。

※『肩をすくめるアトラス』は蟹座的な主人公の物語。自由主義、リバータリアニズムを体現する小説。

話をネオコンに戻すと、このネオコンを代表する思想家が、「歴史の終わり」を書いて一世を風靡したフランシス・フクヤマである。

「歴史の終わり」を翻訳したのが、日本の保守的知識人の筆頭である渡部昇一である。
渡部昇一は、政治・歴史に関する評論については、保守系オピニオン誌である『正論』や『諸君!』『WiLL』『voice』『致知』などへの寄稿が多いという。(wikipediaより)

つまり、保守言論人の代表格である。
元外務省・ロシア外交官でロシア通の佐藤優によれば、このフランシス・フクヤマの歴史の終わりは、ロシアのヘーゲル研究者の思想を焼き直したものであると、フクヤマ氏自身が認めているのだという。
ヘーゲルはカントの「永久平和論」を馬鹿にした態度で、覇権国家がなければ世界の秩序は保てないと考えていたようである。
それで、覇権国家は自らの利益を追求すれば、それで世界の秩序が保てると考えていたようである。
ヘーゲルは、「精神現象学」の中で、歴史とは精神が自由を得ていく過程であると考えていたが、プロイセンに凱旋した英雄ナポレオンの中に「世界精神」の顕現を見出したということである。

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(略)しかし1806年、イエナ・アウエルシュタットの戦いに破れたプロイセンがナポレオンに征服されると、イェーナ大学は閉鎖せざるを得なくなった。
ナポレオンはイェーナに入城し、それをヘーゲルは見た。ヘーゲルはこの時の事を「世界精神が馬に乗って通る」と表現している。(wikipediaより)
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つまり、元々、力に対する崇拝があり、意志や力を美徳と考えているのである。
佐藤優によれば、プーチンの側近の中にもヘーゲル研究者がいて、プーチン政権の国家政策に影響を及ぼしているという。

それで佐藤優は、プーチンのロシアが、目指しているのはロシア帝国の復活であり、帝国主義的な政策がとられることを予想している。

プーチン自身が自らを「世界精神」の顕現であることを意識し、自らの覇権によって世界に秩序を与えていくという考え方であることが分かる。

最近のウクライナへの進行や、イスラム国へのミサイル攻撃などは、その考え方を反映している。
この帝国が自らの覇権によって、世界を統一し、秩序をもたらすという考え方は、そのまま「新世界秩序」に置き換えてもいいのかもしれない。
陰謀論の著作で使われる「新世界秩序」という言葉は、帝国主義の観点から解釈されている。
須藤元気のダンスユニット『World Order』が『Imperialism』(帝国主義)の中で、新世界秩序は、帝国主義そのものではないかと皮肉っている。


これは蟹座や蟹座の行為を表す蟹座から10室の牡羊座のアプローチである。
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民族主義・全体主義・ネオコン
トロツキーの革命理論・ヘーゲル・新世界秩序
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これらは武力や力によって世界を統一し、秩序をもたらそうとする、蟹座-牡羊座的アプローチであり、競争に勝つこと前提にしているため、市場原理を至上のものとする。

こうした市場原理の信奉から、国防長官ドナルド・ラムズフェルド(ネオコン)は米軍を民営化したようである。
蟹座の生き様は自己中心的であり、市場原理の中で勝利することが彼の生き様なのである。

従って、安倍晋三がTPPを導入し、安保法を改正したのは、蟹座ラグナで、競争が好きで、市場原理が元々肌にあっているからである。

因みに第1次世界大戦の反省に立って、国際連盟が設立され、第二次世界大戦の反省から国際連合が設立されたが、これらは水瓶座がもたらしたものである。

水瓶座は、グループワークをもたらす星座であり、ナチュラルゾーディアックで、11番目の星座であることから11室の象意を持っている。

11室は同好会、クラブ活動、サークルなどのグループを表している。友人関係のハウスである。
グループの原理とは、フリッチョフ・カプラなどによって唱えられたエコロジーの思想と同じで、全体とは個々の総和以上のものであるという原理を持っている。

つまり、国際連盟や国際連合とは、個々の国家の総和以上の実体を持つ何かである。それはグループとして実体を持っている。
今は国際連合は大国が自らの利益を引き出すために利用する手段と化しているが、特にアメリカにおいてその傾向が顕著である。

アメリカの力が弱体化し、各国の力が対等な位に均衡してくると、国際連合のグループとしての実体が力を持ち始めると考えられる。
それはつまり水瓶座の力が増大し、一方、水瓶座から見た6室目である蟹座が弱体化するということである。
それは民族主義やナショナリズムを強める蟹座が弱体化してゆくのであり、つまり、国家が国益を追求していく力が弱くなっていく。
蟹座から見て水瓶座が8室なので、蟹座にとっての支配者(8室)が強くなることを表している。
つまり、相対的に蟹座は国際連合に依存するようになり、国家は国際連合の全体の管理に従うようになる。
このような変化が春分点が水瓶座に近づくにつれて起こっていくはずである。
因みにネオコンは国連嫌いで知られている。
ヘーゲル主義者(ネオコン)は国連嫌いなのである。
それは蟹座にとって水瓶座は8室であり、水瓶座の行為のハウスである蠍座は牡羊座から見て8室だからである。
ネオコンの面々(ヘーゲル主義者)が大量破壊兵器がある証拠の写真を見せて国連を説得するのに苦労していたが、蟹座にとって水瓶座は自分を束縛する嫌な相手であり、自分が勝てないやっかいな相手である。
最終的に米国は国連を説得するのを諦めて、単独でイラクへの武力行使に踏み切ったが、それは既にアメリカの指導力や影響力が国連に及ばなかったことを露呈したのである。
米国がもはや国連をコントロールできない証拠なのである。

資本主義で貧富の格差が拡大したり、不況が襲いかかり、社会が危機の時にその危機を乗り越える手段として共産主義が出現した。
この共産主義とは、水瓶座のイデオロギーであり、アプローチである。
この共産主義に対抗して出てきたのが、ファシズムであり、全体主義である。

ムッソリーニもヒトラーも天秤座ラグナで、行為の10室が蟹座である。
蟹座は共産主義(水瓶座)が嫌いなので、自らの覇権によって実力によってその危機を乗り越えようとする。
むしろ、自分の国家、民族が世界を征服し、統一することによって危機を乗り越えようとしたのである。
——————————————————————————————-
水瓶座・共産主義・国際連合・国際連盟
グループ活動・同好会・クラブ・友人
——————————————————————————————-
因みに柄谷公人氏によれば、国際連盟や国際連合は、カントの『永遠平和のために』の理想が実現したものだという。

そして、ヘーゲルは国際連盟や国際連合のようなものを馬鹿にして、覇権国家がなければ世界の秩序が保てないと考えており、

覇権国家が自らの利益を追求し、世界を征服し、統治することによって世界の秩序が保てると考えていたようである。

つまり、ヘーゲルの思想は、蟹座-牡羊座の人々が、ネオコンの思想という形に結実し、カントの思想は、水瓶座の理想であり、国際連盟、国際連合という形で結実したことになる。

民族主義やナショナリズムは、社会が危機的状況に陥った時に強いリーダーシップを取る指導力のある人物にその危機の打開を頼る現象であり、大衆的な現象である。
因みにヘーゲルの哲学は悪しき理性主義と呼ばれており、西洋合理主義思想の典型である。
従って、キリスト教(神学)ともつながりがあり、西洋中心主義思想である。
この西洋合理主義、西洋中心主義思想が、火の星座(牡羊座)の力によって推進されたのが過去の歴史ではないかと思われる。

ジョージアダムスキーの著作を翻訳した久保田八郎氏は、カントの哲学のことを「宇宙的」と評価している。
因みにUFO現象とは、他の惑星の人々との交流を表しているため、それは水瓶座(11室)の理想の体現である。
従って、ジョージアダムスキーの出生図でも射手座ラグナで金星と木星は水瓶座に在住していた。
国際連盟や国際連合の元となる思想を創ったカントを久保田氏が「宇宙的」と評したのは、そこに水瓶座の理想が見られるからである。
また『これからの「正義」の話をしよう: いまを生き延びるための哲学』のマイケル・サンデル教授は、コミュニタリアニズム(共同体主義)、共通善を提唱しているが、彼が参考にしているのがカント哲学やアリストテレスであり、ヘーゲル哲学は参考にしていない。
むしろ、ヘーゲル哲学の中には、倫理学がないとされている。
つまり、倫理学が一切ないことが逆に戦争好きな人々にとっては、都合がよく、歴史というものが西洋合理主義を世界に拡大していく、そして、その為には戦争さえも合理化されるという思想を生み出したと考えられる。

帝国主義や覇権主義ではなく、国連中心主義が倫理的で正しいアプローチとなる。
またそうした意味で、蟹座が好む、新自由主義(市場原理)も時代に合ったアプローチではない。
水瓶座のアプローチこそが、新しい時代の福音なのである。
イエスキリストが弟子たちに「かめを持った男について行きなさい」と言ったのはそういう意味である。
因みに私自身は、蟹座に月と太陽が在住し、また牡羊座にラグナが在住しているので、むしろヘーゲル主義者であり、何でも自分の力で成し遂げようとするタイプであり、個人主義者、独裁者タイプである。
昔から競争心旺盛で、人と協調できないと、学校の先生から通信簿に書かれたりした。
しかし、一方で、私は双子座に惑星が集中しているので、水瓶座の理念やアプローチの正しさや時代性をよく理解できる。
そして、水瓶座へ移行する活動が正しいと知っている。

しかし、私の蟹座に在住する月と太陽は、水瓶座の世界をあまり楽しいと感じないようである。
むしろ、退屈であると感じるようである。
私は自分の中に常にこの矛盾を抱えて生活してきたのであるが、最近、私の中のこの矛盾が耐え難い程、拡大してきたのを感じるのである。
だから私は自分は水瓶座があまり好きではないが、理性では水瓶座の理念が正しいと、グループアプローチが正しいと言わねばならない。
群雄割拠する国家や個人が互いに競争する社会が好ましいと感じているのは、蟹座であり、パーソナリティーの方である。
ヘーゲルは、弁証法によって歴史は正-反の相対する矛盾を合によって、超越的に解決する運動であるとしたが、それは歴史が巨大なドラマであり、葛藤であったことを表している。
その矛盾が様々な生のドラマをダイナミックに生み出してきた。それは人類の青春時代と言えるかもしれない。
それは神の芸術作品であり、神の文学作品である。
様々な登場人物を登場させて、ドラマチックな物語を描いたのである。

もし水瓶座の世界が訪れて、平和な世界になったら、退屈な世界になるのではないかと若干、思うのである。(それは杞憂に過ぎないかもしれないが)
これはフランシス・フクヤマが「歴史の終わり」の中で書いている寂寥感のある心情に近いのではないかと思われる。
人間の政府の最終形態としての自由民主主義」「自由主義国家」「政治的自由主義」「経済的自由主義」が最終的な勝利を収めることで社会制度の発展が終わり、人類発展としての歴史が終わり、人々はただ淡々と日常生活を過ごすだけであると書いている。
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フクヤマは、歴史終結論を単純な「アメリカ勝利論」や「民主主義万歳論」と言うよりも、むしろ寂寥感のあるイメージで語っている。歴史の終わりとは、壮大な歴史の動きの終わりであり、もはや革命も戦争もおき得ない。カエサルやチンギス・ハン、ナポレオンのような英雄も現れない。ベトナム戦争下の学生運動のような大きな政治的ムーブメントもおきず、人々はただ淡々と日常生活を過ごすだけ。歴史の終わり以前の歴史とは、誇り高い英雄たちの闘いの叙事詩だったが、歴史の終わり以後の歴史は、ただの記録の羅列でしかない。しかし、それが果たして本当に人間を幸せにしていると言えるのか? 近代化を完成させ、すべての歴史のプロセスを終えてしまった人間の寂しさ、ニヒリズムの到来もフクヤマは指摘しているのである。(wikipediaより)
————————————————————————————————————————————–

この心情を生み出しているのは、私の蟹座や牡羊座の性質が生み出しているのである。
柄谷行人氏の「世界共和国へ」という作品に刺激されて、このようなヘーゲルとカントの違い、水瓶座と蟹座のアプローチの違いについて考えた。
「新世界秩序」(New World Order)という言葉は、元々、アリスベイリーの「ハイアラキーの外的顕現」の中で、何度も出てくる用語であり、そこには帝国主義も覇権主義によって建設される世界政府という意味は全くない。
むしろ、国際連合や世界共和国という概念の方があっている。
各国が民主的に協働して秩序が生み出されることを元々は表していたのである。

ヘーゲル主義者が新世界秩序という言葉の意味を曲解してしまったのではないかと思われる。

柄谷行人氏の「世界共和国へ」の中で、興味深いのは、国家の「主権の揚棄」について語っている点である。
国家というものは内部に対して国家なのではなく他の国家に対して、外部に対して、国家なのであると解説している。

従って、マルクスは、社会主義革命を成し遂げれば、国家は自然消滅すると考えていたが、実際は、社会主義革命を成し遂げても、国家は自然消滅することはなく、
革命を外部の国家から守るために官僚体制や常備軍という体制をより強化し、維持してしまう。
国家を解体するには、より上位の存在である国際連合に対して、各国が主権を揚棄することによって可能となるのだと論じている。
国家を解体して世界共和国を生み出す方法論が非常に興味深い。
つまり、これは水瓶座のグループ活動の理念に他ならないからである。

グループがうまく機能するには、自分自身のためから、グループのためにという観点の転換が必要である。

その過程で、個人の自我のグループに対する放棄が必要となる。
つまり、柄谷公人氏の「主権の揚棄」の問題とは、水瓶座がもたらすグループ活動の行動原理について語っているのである。















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11室の支配星-何故、最悪の機能的凶意を持っているのか-

11室の支配星は貪欲な人の表示体である。

それは他人を利用しようとする貪りの人である。

あるいは、激しい嫉妬心や競争心を燃やしてくる安らぎを得られない相手である。
11室は基本的に6室からみた6室目のハウスであり、6室の本質のハウスである。

そこには暴力性があり、常に安らぎのない競争や闘争がある。
11室の支配星に影響される時、急激に人脈や交友が広がるが、様々な人たちが自分のことを利用しようとして接して来ると同時に自分自身もそうした人々との人脈を活用したいとか、何かそうした人脈から利益を得たい、そうした人々から評価され、認知を得たいという下心が出てくる。
それが自分自身の心に芽生えた途端に心に苦しみが生じ、また貪欲な貪りの人によって利用され、貪られてしまうので注意が必要である。

そのような時、貪りの人の誘いに乗らずに全てを捨ててしまえば、苦しみは無くなり、心の平穏がやってくる。

それには高い心的スキルが要求される。

大抵は貪りの人が接近してくると同時に自分も認知や地位や評価や利益を求めて貪りの人に変貌する。

その過程は同時的である。
例えば、国連難民高等弁務官の緒方貞子さんは、何故、小泉純一郎からの外務大臣への就任要請を断ることが出来たのか考えてみたい。

時の首相から直々に外務大臣就任への要請を受けたのである。

そのポストは貪りの人であれば、喉から手が出るほど欲しい肩書き、ステータスである。

然し、緒方貞子さんがその要請を断れたのは、心的スキルが高いことを示している。

真の価値というものについて理解していることを示している。
小泉内閣は、元々緒方貞子さんの国連での立派な業績や知名度、人気を利用したかっただけである。

それは緒方さんを利用し尽くし、貪るという行為であった。
もし緒方さんが外務大臣になったら、くだらない国会での答弁の為にそして、不本意な政権を維持するためにその身を何度もメディアや公衆に晒さなければならなか
った。

緒方さんは、肩書きやポストを貪る気持ちがなかったために晩節を汚がさずに済んだのである。

政治の世界では人を利用する人間ばかりである。利用価値のある人間に近づいていくのが政治である。

そんな中で、緒方さんは真の価値を理解していて、つまらない人間の欲望の渦に巻き込まれないで済んだ。これは稀な現象である。

例えば、何故、英国のブレア首相(元)は、ジョージブッシュの呼びかけに応えて、イラク戦争を始めたのか考えてみたい。

ブレアは当時、米政権の中枢にあったネオコン幹部と米国民の愛国的熱狂の中で、自分がジョージ・ブッシュと共にヒーローとなり、世界のプリンスになることを望
んだ。

そこには権威のあるエスタブリッシュメントな者からの評価、認知、利益を求める欲求があったに違いない。

それは地位や名声を求める貪りの心である。
ジョージブッシュは、英国のブレア人気や英国の同盟国としての価値を利用したかったのであり、それは貪り以外の何ものでもなかった。

それはブレアからその生のエキスを搾り取り、徹底的に貪る行為に等しかった。
然し、ブレア自身も評価や名声を求める欲求が強かったためにエスタブリッシュメントで権威ある者からの認知や評価といったものを捨てることが出来ず、それらの
貪りの渦に巻き込まれた。

結果として、ブレアはその経歴を傷つけ、歴史に不名誉を刻み、英国人から最も嫌われている男となった。

彼の残りの人生はひどく惨めなものになった。
彼は今頃、何故、自分がその時、そうした選択をしたかを悩んでいるかもしれない。

真の価値が分からず、捨てることが出来なかったために彼は貪り、そして、貪られた。

最後に映画監督のウッディ・アレンが何故、アカデミー賞の授賞式に顔を出さないのかを考えてみたい。

(※以前、アカデミー賞の授賞式に出席しないことで有名であった。最近は分からない。)

彼はアカデミー賞の授賞式に出席せず、代わりに自身のクラリネットの演奏会に出演していた。

そんなエピソードが伝えられている。

彼にとってはアカデミー賞よりもクラリネットの演奏会の方が大事だったのである。

権威ある筋から認められ、評価を受けたり、人々から賞賛されることに全く興味がなかった。
それは彼が真の創造的な芸術家であったからである。

彼にとっては作品を創ること自体が喜びであり、報酬であった。

アカデミー賞で、その権威筋から評価され、称号やトロフィーを与えられることなど、彼にとってはどうでもいいことだった。

彼の芸術家としての大きさの方が、アカデミー賞の権威筋よりも大きかったため、それらの人々を足蹴に出来たという面もある。
一方で、アカデミー賞の方は、ウッディ・アレンに出席してもらえずに大きな権威の失墜と損失を味わったのである。

ウッディ・アレンを授賞式に参加させることは権威筋にとって利益であり、またウッディ・アレンという名声の利用であり、貪りであるといえる。

然し、ウッディ・アレンは真の価値を知っていたがためにアカデミー賞から利用されることは無かった。

受賞スピーチに気をもんだり、称号と引き換えに忍耐を強いられることもなかった。

彼はクラリネットの演奏会で真に幸福な楽しいひと時を過ごしたのである。
その貴重な時間を貪欲な人間たちに奪い取られる(貪られる)ことはなかった。

何が真の価値であるか、日頃からの心がけが重要である。
自分が人からの認知を求めている時、そこから災いがスタートする。
人からの認知を捨ててしまう時、苦悩から解放される。
但し、これらは容易ではない。

ミイラ取りがミイラにならないようにしなければならない。
貪欲である人は、貪欲な人に利用されるのである。
貪り、貪られることに気を付けなければならない。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。    ――― ニーチェ『善悪の彼岸』146節より















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努力をしなければならないのでしょうか

ジョーティッシュでは運命がほとんど決まっており、僅かしか変えることが出来ないと考えています。

そうすると「運命が決まっていて変えられないのであれば人は努力しなくてもよいのか」といった質問をする方が時々います。今までも何人かの方からそうした質問を受けたことがあります。

こうした質問を発する人は、どうせ運命が決まっているのであれば努力をしなくてもいいのではないかと考える一方で、やはり努力をしなければいけないのではないかと、どこかで不安に思っている訳です。

つまり、努力をしたくないと思う一方で、努力をしなければならないのではないかと一方で思う心理は、二つの衝動がせめぎ合って、葛藤している状態なのです。

これを人間の二重性と呼びます。

この場合、運命が決まっているのであれば出来れば努力をしたくないと、考えているのが肉体人間(パーソナリティー)です。

そして、努力をしなければならないと、努力することへの衝動を喚起しているのが魂なのです。

魂は常に真・善・美を志向し、それを追求する衝動を持っています。より善くなることを志向しています。

肉体人間は惰性を喚起し、快楽を追及することを求めます。

この二つの方向性の衝突が「努力をしなければならないのか」という問いとして出てくるのです。

これは道徳に関しても同様です。

不道徳な行為に浸る時に一抹の不安を感じるのは、その魂の衝動と惰性との葛藤が生じるからです。

人間が理性の萌芽を備えて動物から分離していく過程で、この葛藤が始まりました。

アダムとイブの原罪の物語です。知恵の木の実をかじって善悪を知るものとなったというのはそういうことです。

運命学的には、運命を変えることは、ほとんど出来ないと考えられているにも関わらず、魂と肉体人間のどちらの欲求に従うかということは、常に人間の選択にさらされています。

従って、毎回、魂の衝動に従う人と、毎回、肉体人間の衝動に従う人がいた場合、長い間にはそれが積み重なって大きな違いとなってきます。

そして、努力をする場合、それが正しい価値に対して努力しているかといった方向性も重要です。

努力というのは、単に「力、エネルギーを投入して頑張る」といった意味です。

方向性は意味していません。

正しくない方向への努力であれば、それは盲目的な努力であり、それは無駄になります。

無駄というよりもマイナスになるかもしれません。

但し、不活動や怠惰よりはそれでもましなのです。

正しい方向への努力、つまり、真善美へ向けての努力が最もよいものですが、それはサットヴァ(純性)と呼びます。

正しくない方向への努力も伴う、盲目的な努力は、ラジャス(激性)と呼びます。

不活動、怠惰をタマス(鈍性)と呼びます。

タマス(鈍性)が最もよくないものであり、ラジャス(激性)はタマス(鈍性)よりも良く、サットヴァ(純性)が最も良いものです。

ですから、「人は努力しなければならない」というのは、最も基本的な正しい教えです。

これはバガヴァッドギータの中で、御者に扮したクリシュナがアルジュナに諭した教えです。

仮に正しくない方向へ努力していたとしても、正しい方向に気が付いた後は、瞬く間にそれを軌道修正する力も持っています。

そうした点で、タマス(鈍性)よりも、ラジャス(激性)の方が優れています。

何もしないこと(不活動)は、間違えることもなく、それ故、間違いから学ぶこともありません。

失敗は成功の元という昔からの諺も、成功哲学などで見られる「この世の中には失敗などない」という考えも、このラジャスの価値について語ったものだと思います。

とにかく行動する人は、失敗から学ぶので、この世の中には失敗などないということです。

そういう意味で、とにかく「努力しなければならない」というのは、正しいのです。そこには間違いはありません。

但し、「努力しなくてもよい」という教えもあります。

「人は自然体のままでいいんだ」という考え方とセットで教えられる場合もあります。

これは何を意味しているのでしょうか。

この教えは、努力をするのはよいが正しい方向への努力でなければ意味がなく、害になるという教えなのです。

これはラジャス(激性)の段階にいる人への教えです。

例えば、夜眠れない不眠症の人がいるとします。

その人は寝ようとして頑張ると、ますます眠れなくなります。

そういう時、眠らなくてもいいんだと、眠ることを諦めた時に眠りがやってきます。
悟りを開こうとしている人がいるとします。

悟りを開こうとして力んでいるうちは、悟りを開けません。

悟りを開くことなどどうでも良くなった時、つまりは自分の自我に意識が集中しなくなった時に悟りがやってきます。

そんなことが言われたりします。

このように努力しても仕方がない領域、正しい努力でなければ意味がない、害になるというステージがあります。
それは、ラジャスの段階にいる人に教えられなければなりません。

例えば、富や名声を得れば幸せになれると思い込んでいる人がいるとします。

その人はがむしゃらに頑張って富や名声を掴みとりましたが、何か満たされない不幸を感じているとします。

そうした人は、努力の方向が間違っているという認識になります。

ラジャスの段階にいて、もう少し質の高い教えを必要としている訳です。

そういう段階にいる人は「富や名声があっても幸せになれる訳ではない」「本当の幸せとは何か」という教え、あるいは気づきが必要になります。

然し、富や名声を得たこともないし、それに向けて努力もしたことがない人が、

「富や名声があっても幸せになれる訳ではない」「本当の幸せとは何か」という教えや認識に辿りつくことは出来ません。

ですから、タマス(鈍性)の段階の人への教えが、「努力しなければならない」という教えです。

これが最も基本的な教えです。

その次のラジャスの段階の人に対しては、努力の方向性を問題にします。

従って、「努力しなくてもいい」とか「自然体で生きなさい」といった教えになります。

親鸞和尚が、 「善人なほもて往生をとぐ、 いわんや悪人をや」と言いました。

善人ですらこの世を去って極楽へ行けるのだから悪人は言うまでもなく極楽へ行ける、といった意味です。

この逆説的な教えは何を意味しているのでしょうか。

私の考えでは、これは明らかにラジャスの段階にいる人への教えではないかと思います。

タマス(鈍性)の人への教えは、「善人でなければ極楽へ行けないので極楽に行くために善人になるよう努力しなさい」という教えでなければならない訳です。

そういう形式でなければなりません。

然し、逆説の体裁を取っているのは、これは善人になるように努力している人への教えなのです。

善人になるように努力している人というのは、自分の徳を強く意識している人のことであり、自我に集中しています。

従って、そのことがむしろ善人になることを妨げている訳です。

善人になろうとしている人は絶えず、自分のことが気になっており、忘我の状態になることが出来ません。

自分の徳を意識している徳は徳ではないのです。

インドの哲人・クリシュナムルティが「自分の徳を意識しているのは徳だろうか」と言っています。

従って、ここでも自分の徳を全く意識していない悪人の方が、むしろ、逆に往生する(悟りを得る)可能性を秘めているということです。

私はそのように解釈しました。

従って、教えというものは、その人のいる段階によって変わらなければなりません。

タマスの段階の人へは、努力を喚起し、不活動や惰性から、活動へと駆り立てなければなりません。

ラジャスの段階の人へは、努力の方向性が正しいのかを再検討するように促さなければなりません。

それで、最初に戻りますが、「努力をしなければならないのでしょうか」という質問は、それを発している人が、出来れば努力をしたくないと考えていることが分かります。

従って、それに対する答えは、「努力しなければなりません」というものでなければならないのです。

自分の運命を改善するために常に努力を怠ってはなりませんと伝えます。

然し、既に努力していて自分の自由意志や努力によって運命が切り開けると信じている人に対しては、

逆に「努力をしなくてもよい」とか「自然体でいけばいい」といったことをむしろ伝えたり、また努力の方向性が正しいのかどうかを再検討することを促すような場合も出てきます。

運命を受け入れた方が、楽になるといったことを伝える場合もあるし、また本人にもそうした考え方が必要な場合があります。

このように人によって、必要としている教えが変わってきます。

このことは真理とは、その人にとっての真理であって、他人の真理ではないことを意味します。

人が真理だとして主張して来ることを自分の真理として受け入れる必要はないのです。

然し、「努力をしなければならないのでしょうか」と質問している人が、どのようなタイプの人で何を考えているのか分からない場合もあります。

そのような場合はどのように伝えたらよいのか迷うことがあります。

努力をすることが害になる人もいて、安易に努力したした方がいいとも言うことが出来ません。

また頑張ってくださいとも言うことが出来ません。

人によっては努力しなくてもいいし、自然体でいればいいと言うことを伝えることが必要な場合が出てきます。

そして、ジョーティッシュにおいては、むしろ運命を受け入れて自然体でいることによる恩恵の方が大きいと思います。

それは、現代の人は皆、十分に努力しており、怠惰な人は少ないからです。

特にジョーティッシュを受けるような人は、洗練された文明人であり、大抵は、間違った方向に努力しているという問題を抱えがちです。

本能を自我で抑え込んで、克服しようとしています。

従って、私も努力をすすめることはそれ程、多くはありません。

淡々と何が起こるのかを伝えていきます。

そして、何をしても無駄であると言った話の方がその人にとっては新鮮な場合があります。

受け入れる以外にはないといった話もします。

然し、時々、まれに努力した方がいいということを伝える場合がありますが、やはり、それは相手を見て話をしているということです。

不活動から活動に喚起した方がいいような場合は、努力して頑張って下さいということになる訳です。















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価値の源泉はどこにあるか(続き)

ジャイミニの技法で、アートマカラカがナヴァムシャで在住する星座(カラカムシャ)が今生での中心的な試練を表すというものがある。

この中で、唯一、天秤座と水瓶座だけが、肯定的な意味づけがなされている。
例えば、天秤座の場合、「ビジネスや商売を通じて、お金を稼ぎ、それを通じて、成功する」という良い意味付けがなされている。

そして、水瓶座の場合、「慈善活動、寺院の建立などを行う」という意味となる。
何故、こうした風の星座に肯定的な意味づけがなされているかと考えると、アーユルヴェーダのドーシャ理論を考えれば納得がいく。
ヴァータ(風)とピッタ(火)、カパ(土と水)というドーシャがあるが、このうち、ヴァータは純性、ピッタは激性、カパは鈍性に対応している。

精神的な成長においては、ヴァータ体質を優勢にしていくことがよいとされている。
この3つのドーシャのバランスが、サットヴァなのであり、特にサットヴァはヴァータ体質固有の属性ではないと主張している人もいるようだが、私が以前、アマチの本を読んだ時にこのように書いてあった。

この風の星座の中で、双子座に肯定的な意味づけが成されていなかったのが興味深い。

双子座は過去の検証によれば、それは金融とか株式市場と関係している。

最近、株式市場が実体経済よりも遥かに肥大し、余剰マネーがバブルを生み出していたのが、リーマンショックで破裂し、真面目に職について働いている人たちにも多大な迷惑をかけた。

このことから考えると、双子座には肯定的な意味づけがなされなかったことがなんとなく分かる。

因みに双子座は、「思想や概念、思考形態を収集しすぎて情報過多に陥り、特定の信念に凝り固まる傾向がある」という。

まさに市場メカニズムを過信してしまう理論家の問題ではないかと思われる。

例えば、特定の信念に凝り固まった経済学者などもこのタイプかもしれない。

ジャイミニの秘儀的な技法の中で、双子座はややマイナスの意味合いがあるとしても風の星座(水瓶座、天秤座)に肯定的な意味が付与されているというのは興味深い。

そして、現在、春分点が魚座から水瓶座へ向かって移動しており、現在、魚座の6度付近にある。

であるから、現在は、魚座の時代と呼ばれる。

魚座の時代とはキリスト教の暗黒時代に見られるように科学を否定して迷信や無知が流行ったり、宗教やイデオロギーで人間が殺しあった時代であり、今もまだその中にいるのであるが、魚座は水の星座であり、水はカパであり、鈍性(タマス)であることを考えると、ドーシャ理論やトリグナの概念で説明できる。

これからやってくる水瓶座の時代とは、水瓶座が風の星座で、ヴァータであり、純性(サットヴァ)であることを考えると明るい時代である。

ジャイミニのカラカムシャの概念では、水瓶座には「慈善活動、寺院の建立などを行う」という意味があるというが、これは治水、灌漑事業などを表しており、公共の福祉を表している。

また水瓶座とは社会主義や共産主義を生み出した星座である。

私の過去の鑑定経験の中でも水瓶座に惑星が在住している人は、かなり相互扶助の共同体とか、コミュニティーと関わって仕事をしている人が多く、共産主義的な思想を持っている人が多かったのである。

政府のカテゴリーにも企業のカテゴリーにも入らない第三セクターと呼ばれるNGOとかNPOなどの組織が世界的に広がっているのも、この水瓶座の表現である。

因みに前回の「価値の源泉はどこにあるか」という記事の中で、マルクスの理論では、労働に価値の源泉があるということなのだが、唯物的には労働が商品に価値を付加しているということなのだが、本当はアイデアの方が重要で、それが価値の源泉であると書いた。

実際、ヘーゲル哲学の弁証法的歴史観の中では、精神が自由になっていく過程が、歴史である。アイデアとは精神の表現である。

「労働」とは、惰性(タマス)であり、労働者が大量に存在する社会が、水の星座(カパ)の時代に存在してきたというのは納得できる。

それは惰性であり、結局、「労働」とはどう肯定的に見積もったとしても他に選択肢がない人が携わるのが「労働」である。

「労働」とは惰性なのである。「食欲」「性欲」「睡眠欲」などの本能に従って、盲目的に生きている、その延長線上にあるのが「労働」である。

アイデアが豊富にあり、やりたいことが沢山ある人は、「労働」はしないのである。

仮に労働者から「労働」を奪ってしまうと、毎日、何をすればよいのか困ってしまう人が発生することが想定される。

その場合、社会的には余暇の問題というものが出てくる。余暇をどう過ごすか、学習や自己実現、成長というものがテーマになってくる。

実際、現在、労働はどんどん機械が肩代わりするようになっており、大量の失業者が発生している。

先進国では、若者のかなりのパーセンテージ(40%)が、仕事に就けないという。

これは否定的にもとらえられれば、肯定的にもとらえられる。

何故ならば、企業で雇用されて「労働者」として働くのは、人間の本来のあり方ではないからである。

皆、小規模でもいいので、自分のアイデアを形にして、そして、社会にサービスや商品を提供して生きていくべきである。

つまり、水瓶座の時代とは、「労働者」がいなくなる時代である。

労働はコンピューターや機械が肩代わりし、アイデアを生み出すことこそが、仕事になりつつあるのである。

将来的には、我々は思考しただけで、物を作り出すことができるようである。

例えば、3Dプリンタというものがあるが、今ではコンピューターとソフトがあれば、自分のイメージしたものを形にすることが出来る。

将来的にはキーボードやマウスがなくても、思考した時の脳波の変化を入力装置にインプットして、それでコンピューターが計算して、それを画像化してから、物に具体化することが出来るのだろうと思われる。

コンピューターや機械が全ての労働を肩代わりしてくれるので、アイデアさえあれば皆、手頃に自分のアイデアを形にすることが出来るようになってきている。

これは将来的には全ての人がアイデアによって仕事をすることを意味している。

また思考しただけで、物を作り出すことができるというのは、我々が神になるということでもある。

つまり、神は思考(言葉)なのである。

この世の全ての顕現は、言葉、すなわち、神の思考のことである。

因みにノームチョムスキーの分類について以下のように示した。(柄谷行人氏の「世界共和国へ」を参照)

1. 福祉国家資本主義(社会民主主義)
2. 国家社会主義(共産主義)
3. リベラリズム(新自由主義)
4. リバタリアン社会主義(アソシエーショニズム)

nations_list
私たちの社会が、リバタリアン社会主義に向かって歩んでいくのは、ヘーゲルの歴史哲学から考えて必然である。

より平等で正義があり、より自由が満喫できる社会が、リバタリアン社会主義だからである。

このリバタリアン社会主義がどのように実現できるかというと、私たちが一人ひとりが最終的に自分のアイデアを生かして、仕事をすることができるようにならなければならない。

例えば、現在の資本主義社会では、余程、優れたアイデアがないと、資本が得られないし、商品化も出来ない。

またアイデアは、資本家に利用されてしまうだけである。

これからの社会においては、小さなアイデアや、小さな活動でもそれが交換できるような仕組みが必要である。

そうすれば、常に市場に不足しているのが必然であるような国家通貨を利用しなくても物々交換に近いような相互扶助で生活することができるようになる。

それを実現するための手段としては、地域通貨のような物々交換を促進するような交換手段が流行っていく必要があると思われる。

またインターネットの世界で最近、流行っているマッチングビジネスなども鍵ではないだろうかと思うのである。

つまり、売りたい人と買いたい人を引き合わせたり、教えたい人と、学びたい人を引き合わせたりする仕組みである。

こうしたことが促進されると、企業に寄生しないで、専門知識や熟練技術によって生きる自由人(リバータリアン)が増えてくるだろうと思われる。

そうしたリバータリアンが増えて相互交流し、共働していくことが、リバタリアン社会主義を生み出していくことにつながるのである。















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価値の源泉はどこにあるか

最近、佐藤優の『いま生きる「資本論」』新潮社を読んだ。

そこでマルクスが「資本論」の中で述べた階級という概念について解説している。

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「第五二章 諸階級

労働賃金、利潤、地代を各自の所得源泉とする、単なる労働力の所有者、資本の所有者、
土地所有者、すなわち賃金労働者、資本家、土地所有者は、近代の、資本主義的生産様式に立脚する社会の三大階級をなす。」
われわれの社会は、資本家と労働者と地主だけいれば動くのです。
しかし、そのうち価値を生産するのは労働者だけ。あとはその上前をハネて、搾取しています。(略)

(『いま生きる「資本論」』P.236~P.237より)
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その後、レーニンの「帝国主義論」が出て来て、国家の問題を扱ったという。

「資本論」には、税金の話がでて来ないが、官僚は資本家と労働者と地主から収奪することによって成り立っているので、

つまり、マルクス、レーニンと続くことで、

資本家、労働者、地主、官僚という4つの階級が想定されたことになる。
私は興味深く思ったのは、唯物論(唯物史観、唯物弁証法)の中では、この4つの階級しか存在しないとし、

このうち、労働者階級だけが価値の源泉であると見なしているというのである。
佐藤優によるマルクスの解説はそのようになっているようだった。
私が思うに労働者が生産する訳であるが、その労働者が生産している生産物(商品)のアイデアはどこから生まれたのかということである。

それはプラトン哲学のイデア論にも出てくるが、それは大本を辿れば、神から来ているアイデア(善のイデア)である。
労働者はただ単純に労働しているだけであり、そのアイデアが存在するからこそ、労働者は商品を生産することができる。

従って、価値の源泉とは労働ではなく、アイデア(イデア)である。
そして、このアイデアを豊富に携えている人間こそが、神の代理人として、この地上で「創造」を行うことができる。
インド占星術的に言えば、5室が創造のハウスであり、5室に豊かな才能を携えている人は、神の代わりに人類社会の中で「創造」を行うことができる。
つまり、神の創造の一部を肩代わりするのである。
つまり、全ての価値の源泉とは労働ではなく、才能であり、アイデアである。
だから米国などでは知的財産権によって高額な報酬を得ている訳である。

日本がその知的財産を応用して、技術革新し、質の高い生産物を大量に短時間で生産することによって、

そこから利益を得たとしても米国の知的財産権の所有者に報酬を支払わなければならない。

それはある程度、合理的である。

何故なら、アイデアの方が上位であり、労働よりも強力だからである。

つまり、全ての価値の源泉が「労働」にあるとするのは、唯物的な観点から見た場合ではないかと思うのである。
であるから、階級とは、本当は、
資本家、労働者、地主、官僚だけではない。

その他に神のイデアを体現し、人類社会に様々な「創造」を行うことのできる才能溢れた人々、

すなわち、人類の中で、あるいは人類より進化した霊的巨人という階級が存在する。
これらの人々の優れたアイデアが文化や文明の創造の青写真を提供し、それに応じて、労働者が労働によって「創造」を具体的な形へと実現していくのである。
つまり、アイデア(イデア)の方が実際の具体的な肉体労働よりも強力であり、それこそが価値の源泉である。

価値の源泉というのが労働の中にあるとするのは、あくまでも唯物的な発想によるものである。

私は佐藤優の著作を通じて、価値の源泉が労働にあるとしたマルクスのこの唯物的な考え方についてよく理解できた気がする。

この唯物的な経済分析からは、

プラトンのイデア論から始まって、ヘーゲルの弁証法哲学、歴史哲学に至るドイツ観念論哲学の成果が全く抜け落ちてしまっている。
歴史を人間の精神が自由を達成していく過程であると考えたヘーゲル哲学の方が霊的であり、スピリチャルである。

それは魂の存在を想起させる。

魂が自由、平等、博愛というものを求めて、歴史を進歩発展させてきているのである。

そして、こちらの考え方の方が、実際に社会を動かしている原理を説明できる。
上野千鶴子という社会学者が、マルクス主義フェミニズム論(唯物的フェミニズム論)を教えていて、私も学生時代によく著作を読まされた。

彼女の言説によれば、掃除機や洗濯機の普及が女性を家事労働から解放させ、女性の自由と権利を促進したのだと分析しているが、

その掃除機や洗濯機が誰によって、どんな考えで発明されたのか、そのことについては全く考えていない。
善意ある技術者が、女性を家事労働から解放させたいという意図を持って、そうした考えの元に発明が生まれたのである。

それはそのアイデアに価値があるのであって、それは善のイデアと呼べるものである。

神から来ている神聖なアイデアであって、それを発案するに値する名誉ある人物のアイデアとして生みだされた訳である。
唯物論の中では、そうした人間の精神の価値については、あまり評価されないようである。
だからか、「ドクトル・ジバゴ」などのソ連の共産主義革命の頃の映画を見ると、革命直後に極端な平等思想によって、各人の才能の違いが軽視されていたように
思われる。
人間は才能において全く平等ではない。機会においては平等ではあっても才能は各人の進化の歩み、そして、神からの恩寵によって異なってくる。

giftには、贈り物という意味だが、天から与えられたものという意味、つまり、才能という意味がある。
インド占星術的に言えば、才能(5室)とは、過去世の功徳によって、神から与えられた贈り物(才能)のことである。

それを豊富に携えている人は、神の代理人として、「創造」を行うことができる。

従って、優れたアイデアが社会を先導し、人類を先導していくのは必然なのである。
革命によって労働者階級によるプロレタリア独裁が完了した後にその独裁政権を解散して、階級のない社会を作るとした考えは、全く実現不可能であったのはよく分
かる。

何故なら、労働者階級は社会を先導するだけのアイデアがないからである。

従って、革命は力のある人間、権力のある人間によって管理され、その革命を管理するための官僚という階級が出現した。

秘教的な観点からすると、人間は進化の過程で、意志、愛、知性という属性を発展させていく。

そのどれか一つでも一般人よりも抜きんでていれば、人類一般を先導していく力を持つのである。

結局、労働者階級は、そのいずれも持たないが為に革命闘争を勝ち抜いて巨大な意志を示した革命家たちに管理されることになった。

これは必然である。何故なら、力、意志というものも神の偉大な属性の一つだからである。

またプロレタリア独裁の後に階級のない社会を作るとした考えも、唯物論の観点で考えられた狭い考えであったと思われる。

結局、人間は才能において平等ではないのであり、進化の度合いは各人それぞれで異なっている。

従って、進化の度合いに応じた階級というものが、必ず、存在するのである。

それこそが、霊ヒエラルキーというものである。

従って、神智学では、来るべき時代には、霊的貴族が出現すると予言している。

意志、愛、知性という属性を高度に進化させたそうした霊的巨人が、文化、文明の青写真を提供し、機会において平等な高度な福祉社会が実現していくのである。

ヘーゲル哲学によって完成をみた弁証法的歴史観、つまり、精神の進化史が、マルクスの唯物的歴史観の中では抜け落ちてしまい、才能の違いの問題や、モチベーションの問題など人間の精神(魂)の問題を軽視して、物にだけ注目していた為に全く不完全であったと言わざるを得ない。

従って、唯物的な共産主義者が行う行為は、しばしば立派な福祉活動であることも多いのだが、そうした視点を失っているために物足りないのである。

彼らにはリアリティーの一部しか見えていないのである。

つまり、真の階級とは以下のようになっている。

Hierarchy
現在では、アイデアや才能があれば、資本を銀行から調達して、労働力や土地を市場から調達して、優れた「商品」を創造することができる。

資本を誰が持っているかは関係ない。

それを利用できるのは、アイデアがある人である。

つまり、労働が全ての価値の源泉という考え方はおかしいと言わざるを得ない。
やはり、労働よりもアイデアの方が強力であり、それが価値の源泉であり、労働はアイデアに仕えるだけである。
従って、既に述べたが、共産主義革命は不可能なのである。

労働者は、革命後に権力の主体になることができないし、アイデアの源泉にもなることが出来ないからである。
現在の問題は、才能もなく、アイデアもないのに資本、あるいは資本や土地を持っている人が、他人のアイデアや才能を利用して、自らの収益、利潤としてしまう所
にある。

つまり、才能やアイデアをお金で買ってしまうのである。
然し、真の階級というものは、現前として、今、ここに存在するものである。
私たちの人類文明は、霊的巨人の恩恵によって成り立っている。

従って、宇宙の豊かな恩寵が霊的巨人を通じて我々に降り注いでいると言えるのである。
『いま生きる「資本論」』の中で佐藤優が、「世界共和国へ-資本=ネーション=国家を超えて-」柄谷行人著 という本を紹介していたので、

それを読んでみたのだが、その中で、柄谷行人氏によれば、
ノームチョムスキーは、国家が取りうる4つの形態を示したそうである。
1. 福祉国家資本主義(社会民主主義)
2. 国家社会主義(共産主義)
3. リベラリズム(新自由主義)
4. リバタリアン社会主義(アソシエーショニズム)

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その中で、リバタリアン社会主義を理想としたそうである。

つまり、自由と平等が最も実現されているからである。
ヘーゲル哲学の精神の自由への発展の過程こそが、歴史なのであるという観点からすると、

いかにして、このリバタリアン社会主義に移行するかがテーマなのである。

これは、国家統制の主体が、現在の資本家や地主から霊的巨人とその賛同者に移行し、

更に社会の中で、自由に経済活動をして生きる人が増えていくことによって可能になる。

つまり、既に存在する真の階級における霊的巨人のそのビジョンと青写真が、その現実の世界でも力を持つようになる必要があるのである。

それは資本主義の修正という形で進められると思われる。

例えば、最近、ビルゲイツが、富豪40人にその資産の50%を寄付するように呼びかけたそうである。

資本というものは実際、誰のものでもなく、実際は神からやってくるアイデア(イデア)を豊富に携えた人が、人類社会を豊かに発展させるために使用されるものである。

そうした資本が、こうした資本家の改心や、また霊的巨人に導かれた世界中のワーカーの仕事によって、

最も優れた世界の救済の計画に使われるようになっていくというのが、進行していく過程である。
それは国家や国連レベルの共同作業によって政治的に進められるべきである。

そして、そうした過程がある程度、進行した後で、まず、国家レベル、国際レベルで、世界を救済し、またエネルギー問題が解決されて、最終的には、大本教のお筆先が言ったような水晶世界が到来するのである。

その世界においては、エネルギーが無尽蔵に供給されるため、誰もお金が不足することがなくなる社会であり、蓄財自体に意味がなくなる社会である。

国家は、国防、水道、ガス、交通などのインフラ面の管理維持という仕事を主に担い、個々人が自由に経済活動をしていくリバタリアン社会主義の社会が到来する。
そうした社会においては、創造性のみが、最も重要なものになる。

従って、人々はその創造性を目指すが故に、社会に奉仕し、そして、進化の旅路をより速やかに歩むことを望むのである。

救済はどこにあるかと言えば、労働者が搾取されるのを辞め、自らの才能を使って、それで報酬を得て生活を始めることの中にある。

会社の単純労働や、やりたくない仕事を辞めて、自分が本当にやりたいこと、-すなわち、それは5室の表現であるが-で、生活し始めた時にそれがその人にとっての精神の革命なのである。

もはや単純労働はできないし、好きでもない仕事をすることもできないと覚醒した精神が、もはや忍耐できなくなった時が、その人にとっての革命である。
その人は、自分の才能を表現したいと思うし、もっと精神的で価値あることを学びたいと思うし、好きなことをして生きていきたいと思うのである。

つまり、5室や9室の表現である。
労働というものは、6-8の関係であり、それはカルマであり、人間の原罪であると言えるかもしれない。

何故なら、昔、霊的巨人たちは、人間に指示をして、使役させることで文化や文明を実現し、人類を教え導いたと言われる。

そのように秘教文献に書かれている。
つまり、そのように使役されなければ、何もできない程、人間には主体性がなかったと言える。

そして、今では、霊的巨人たちは、人類との関係において6-8の関係をやめたのである。

神聖な自由意志を侵すのをやめ、人類の主体性に任せることにしたのである。

つまり、人類は大人として扱われたということである。
6-8の関係から5-9の関係への移行である。

従って、受動的であるのではなく、主体性を示していくことが人類の定めである。

選挙に行って政治に参加し、意見やアイデアを表明して、それを実行する。

そのような主体性が鍵なのである。



【創造と5室について】


「ラオ先生のやさしいインド占星術」などに、5室がマントラ(言霊)と関係しているという記述があるのを知って、最初は不思議に思ったが、聖書には、以下のように記されている。

「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」
従って、神とはマントラであり、マントラによって創造が実現されると分かる。

秘教的な文献によれば、将来的には音とか波動によって全ての物を創造することができるようなのである。

つまり、私たち自身も波動であり、言なのであり、宇宙の波動(神)が私たち(波動)を経由して、私たちが自分が持っている5室の状態に応じて、その神のマント
ラによって創造を行うということである。
因みにヴェーダの一節にも同じような記述があり、以下のように書かれているという。

「太初にプラジャパティ、ブラフマンがあった。言がそれとともにあった。言はまさに最高のブラフマンであった」















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wikipedia、量子コンピュータ、論理学について

先日、諸葛亮孔明の経歴について調べるためにwikipediaを利用した。

よくwikipediaの情報は正しくないとか、ケチを付ける人がいるが、私はこれを活用することに何らためらいは感じない。

何故なら100%正確な情報は求めていないからである。

情報はほぼ正確であればそれでよく100%正しくなくてもかまわない。

高確率で正しさが保証されていればいいのである。

そうした情報を短期間で仕入れて、その情報を使って有意義な100%でなくても確率性の高い答えを導き出せればそれでいいのである。

おそらくwikipediaにあるテーマについての事実確定について複数人で議論、論争し、記述を洗練させるような人たちは、知的プライドもあり、同業者の視線も意識していることから、間違ったことは書かないと思われる。

多人数で議論されているテーマであればある程、その記述の正確性については高まるはずである。

そのような心理学的観点によって、wikipediaの情報は確率的に正しく100%正しくなくとも有用である。

それらの情報を使って非常に多くのことが可能となる。

wikipediaの情報について、正確性に疑問を差し挟む人に対しての反論として、100%正しい情報を求める必要はなく、100%に近い形で正しい情報であれば、
それでよいと思うのである。
量子コンピューターをカナダの会社が実用化したらしいが、古典コンピューター(現在のコンピュータ)におけるビットは0と1どちらかの情報しか持てないが、量子コンピューターというのは、量子ビットと呼ばれるものが、0と1の情報を同時に複数保持できるらしいのである。

従って、一回の演算で多数の計算を行えることになり、コンピュータの処理速度が格段に向上する。

スーパーコンピューターで1000年かかるような計算を数10秒で処理できるようになるという。

その際に量子には不確定原理があるので、位置と速度を同時に求めて、ある時点からその後の運動を予測することができない。

だから量子が原子核の周辺のどこに存在しているかは確定的にしか分からないということがある。

量子コンピューターはこのように量子の運動には不確定性があることから、何度も計算を繰り返して確率的に正しい答えを導き出すという。

その確率的に導き出した答えはある一定の範囲内に収まることが確実であることから、正しい解答が導き出せるという論理のようである。

こうした考え方は興味深い。
不確定性原理自体がミステリアスな分野であり、神とか宗教、自由意思、運命などを考えざるを得ないスピリチャルな領域である。

アインシュタインは「神がサイコロを振るはずがない」と考えて古典物理学と、量子力学を統一して説明できる統一理論を考え続けたらしいが、
答えは見つからなかった。

この物理学のこの分野は、非常に哲学的であり、宗教的である。

そうした量子力学を応用したコンピューターというだけで非常に興味深いのである。
現在のコンピューターは0と1の2進数の計算によって厳格に計算結果は一つしか出てこないが、量子コンピューターでは論理学自体が変わるようである。

確率的に出された答えはある範囲内に収まることは確実であると考えるようである。
wikipediaの情報は間違っているとか、正確でないとか、専門家が指摘する機会が多いようであるが、

100%正しくなくとも確率的に100%に近い正しい情報であれば、それでよいのではないかと思うのである。

wikipediaの情報は情報処理の観点から考えて、そのように実用的に考えればいいのである。

昔、ファジー理論という言葉が流行したが、ある真理があり、真理であれば1、真理でなければ0というように考える必要はないのである。

1ではないが、限りなく1に近ければそれでよしとするような論理があってもいいのである。
そして、占星学はそのような論理学によって、結果を出すことができる分野である。















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『神経言語プログラミング』について

リチャード・バンドラー著『神経言語プログラミング』(東京図書, 酒井一夫訳)を読んだ。

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最近、身の回りに神経言語プログラミング技法のライセンスを取得したという肩書を持つ人たちが、やたらと増えて来たので、
今更という感じであるが、読んでみたのである。

因みにこの本を購入した時に同時に自己啓発コーナーに並んでいるような本をまとめ買いしてきた。

おそらく私が現在、金星/ラーフ期で、ラーフが射手座に在住しているからである。
読んでみたらもっと早く読んでいればよかったという印象である。

この本の中では、様々な映像をイメージして、操作することで望ましい行動変容を起すテクニックを紹介しているが、例えば、煙草の習慣を止める際のオペレーションが非常に印象的である。

例えば、煙草を吸うときの自分の主観的映像をイメージして、その時の経験を映像として思い浮かべるが、その映像のサイズを暗くして小さくして窮屈な居心地の悪い感じにするのである。それと同時に自分が煙草を止めた際の清々しく楽しく明るい状況を客観的な視点から見た映像をイメージするのである。そしてその明るいイメージのサイズは大きくする。

そうすると、煙草を吸わないことで楽しい状況へと行動が方向付けられるのである。

何十年も煙草を止められなかったという人がこの視覚化のオペレーションによってものの10分程で煙草を止めることに成功したというのである。
こうした視覚化のオペレーションによる成果には非常に大きいものがあるので、何年治療しても成果が上がらない既存の精神分析や心理療法などが色あせて見えてしまうようである。

このリチャード・バンドラ自身は、元々数学や情報科学を専攻していた学生であったようで、偶々財政難で学部の設置が2年程遅れた際に、心理学を学んでみたという。

この元々数学や情報科学を専攻していたという所で思い浮んだのは、苫米地英人氏である。

本来、精神分析とは最も遠いと思われていた認知心理学の分野が人間の心や動機づけを解明するための主役に躍り出たという印象である。

伝統的にフロイトの精神分析を学んで精神科病棟やカウンセリング室で臨床を積んで来たような人々よりも、数学や情報科学を専攻しているような人が、認知心理学や行動主義理論と視覚化により、大きな行動変容という成果をもたらしているようなのである。

私は何年か前にCIAがMKウルトラ作戦という極秘の臨床実験により、人を洗脳する技術を開発していたということに衝撃を受けた。

これについては苫米地英人氏が訳した『CIA洗脳実験室 父は人体実験の犠牲になった』ハービー・M・ワインスタイン (著)という本がある。

苫米地英人氏の解説によれば、人にLSDなどの覚醒剤を投与して、変性意識状態になった時に繰り返し何らかのメッセージや指令などを聞かせることによって、それが潜在意識に刷り込まれて、その人が正常に覚醒した後にも、そのメッセージや指令に影響されるようになるという。

そのような手法によって人に全く違う記憶を埋め込んだり、全く違う別人であると思いこませることが可能になるようである。

そして、こうした手法がオウム真理教内でも行われていたということが後に分かって、非常に衝撃を受けた。
記憶を消したり、別の記憶を刷り込んだり、人格そのものが変容してしまうのである。

それは視覚から取り込まれる映像や音声によって行われるのであって、フロイトの精神分析などの臨床から得られた知識とは全く質が異なるのであって、人間を認知する機械と同じように考えて、行動主義理論のような条件づけ理論に基づいて、力づくで人間の潜在意識を変容させる。
この苫米地英人氏の自己啓発本にもミルトン・エリクソンや神経言語プログラミングの影響が見られるように思える。

そして、苫米地氏の本は売れているようであるし、神経言語プログラミングも盛況であることから、

今は古典的な精神分析家や心理療法家よりも、認知心理学者が、一躍脚光を浴びているということが分かる。

リチャード・バンドラーが、フリッツ・パールズのゲシュタルト療法から始まって、ノームチョムスキーの言語理論を研究していたジョン・グリンダーと出会い、『魔術の構造』1~2巻を刊行し、「ダブルバインド」のグレゴリー・ベイトソンが、ミルトン・エリクソンを彼らに紹介したという経緯は、非常に興味深い。

フリッツ・パールズと言えば、エサレン研究所であり、そして、そこと交流のあったラジニーシにも繋がってくる。

そして、苫米地英人氏もこれらの人々から影響をおそらく受けている。
リチャード・バンドラーが「魔術の構造」という本を刊行していることには驚いたが、おそらく魔術という言葉が出てきたのは、神経言語プログラミングが、マインドの科学であるからである。

結局、魔術というものは、マインドの科学に他ならない。それは視覚化によって動機付けや行動に変容をもたらすのである。
ナポレオンヒルの『思考は実現化する』と同じ流れの中にある。

西洋人は、既存の精神分析理論や心理療法の理論、実存主義哲学などを用いて、自己啓発の教育プログラムをパッケージ化し、ビジネスとして構築するのが非常に上手である。

マインドの科学を用いて、経済的成功や自分の幸福の実現というゴールに導こうとするのが、自己啓発セミナーである。

あくまでもマインドの科学を自分自身の経済的成功や富や幸福に利用しようとするのである。

因みにマインドの科学を利己的な目的に使おうとする場合、むしろ、それは黒魔術と呼ばれるのである。
様々な自己啓発プログラムが存在するが、神経言語プログラミングも、西洋人によって上手く商品化されたプログラムである。

その西洋のビジネスマンが作った商品のライセンスを取得することに皆、熱中しているが、リチャードバンドラーが、フリッツ・パールズやミルトン・エリクソンなどの既存の臨床家の学問的研究を元にそれらを生み出したのであるから、フリッツ・パールズやミルトン・エリクソンの臨床をもっと研究すべきであると思う。

私が感じた印象としては、神経言語プログラミングも、何度も映像を操作して、実際に試した人が最もこの技術を体得できるのではないかと思うのである。

それは全くインド占星術で、ハウス、星座、惑星といった要素を何度も頭の中で視覚化して操作し、マインドを訓練した人が最も占星術の応用に通じるのと同じである。
神経言語プログラムに戻るが、煙草を止めさせるメカニズムは喫煙を不快と思う主観的映像と、喫煙しない自分を快く体験する客観的映像を意識、無意識の中で入れ替えて条件づける操作である。

但し、この神経言語プログラムによってもたらされる行動の変容は、呼吸法や瞑想によって真我を経験することによっても可能である。

呼吸法や瞑想によって、肉体、感情体、メンタル体に同一化して没頭している状態から客観的に自分を見る余裕が生じることで、習慣や依存行動を変容させることが出来る。呼吸法や瞑想は、神経言語プログラミングと同じ効果が期待できる。
また瞑想や呼吸法と同じように占星術で、ハウス、星座、惑星といった要素を何度も頭の中で視覚化して操作することは、自分自身の主観的な体験世界を外側の宇宙の視点から、客観視することの訓練である。

主観的経験を宇宙という最も高みから俯瞰するのであり、このことは瞑想と同じような効果があると言ってもいいと思われる。

実際、占星術の象徴操作というのは、魔術の基礎的な訓練の一部である。
またインド占星術を使って、自分の体験世界を理解することは、こうした自己啓発以上の視点をも提供する。

何故なら、例えば、神経言語プログラミングをよく駆使するトレーナーに出会って、自分の人生を好転することが可能になり、神経言語プログラミングが、人生の変容に役立つことは分かったとして、そもそも何故、その人が、優秀なトレーナーと出会い、人生が変容することが出来たのかという疑問に答えるのが、インド占星術だからである。

インド占星術はカルマの生起の順序やタイミングが分かることによって、形而上の世界(超自然)の存在を垣間見せる。

従って、通常の科学が扱う因果と比較すると、メタレベルが一つ上の科学であると言うことができる。
因みにフロイトの精神分析で外傷体験という言葉があるが、幼少時に受けた心の傷のことを指している。

米国で親に性的虐待を受けたと主張する子供の中に全く親から性的虐待を受けていない事例が多々見つかり、そうした虚偽の性的虐待の被害者体験をスクリーン メモリーと呼んでいる。つまり、その人の欲動が投映された記憶という意味である。

このことから分かることは、外傷体験は実際の事実というよりも、感情体が生み出した主観的経験であり、妄想に過ぎないのである。

人生の一時期に妄想を抱いたことによってそれが後々に影響力を振るう外傷体験となってしまうというのは、外傷体験というのは、ある一時期に自分で設定して潜在意識に刷り込まれた思考習慣に他ならない。

それは神経言語プログラミングで、イメージを視覚化して行う操作と同じものである。

外傷体験というものが、人生の一時期にその人自身の思い込みによって、その人自身に埋め込まれた印象であるにすぎないのであれば、それは、もう一度、それをイメージ操作によって変容することが可能なはずである。

そういう意味で、精神分析の外傷体験(トラウマ)という用語自体が、認知心理学の用語で置き換えられている現状なのである。
今は精神分析理論が時代遅れになりつつあり、数学や情報科学を用いた認知心理学が、人間の心を解明する方法として脚光を浴びている。

神経言語プログラミングの流行は、そうした流れの中にあることが分かる。















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狙撃手の物語

米海軍の特殊部隊の狙撃手が射殺されたというニュースが報じられていた。

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米海軍特殊部隊「最強の狙撃手」、テキサス州で射殺される

ロイター 2月4日(月)8時49分配信

[3日 ロイター] 米海軍特殊部隊の元隊員で、自身のスナイパーとしての従軍体験を記した「ネイビー・シールズ最強の狙撃手」の著者クリス・カイルさん(38)が2日、テキサス州グレンローズの射撃場で銃で撃たれて死亡した。同州公安局が3日明らかにした。

この事件で、警察はエディー・レイ・ルース容疑者(25)を、カイルさんとその知人(35)を殺害した容疑で逮捕した。当局によると、2人は至近距離から撃たれたという。

特殊部隊員として160人を殺害したと告白したカイルさんは、米国で最も多くを射殺したスナイパーとされ、1999年から2009年までの軍務体験記を出版した。

地元メディアによると、ルース容疑者は海軍に所属した経験があり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていたという。事件発生から数時間後に州内の自宅で逮捕された。

米特殊作戦部隊の情報サイトによると、カイルさんはPTSDを患う元海軍兵を支援するためのボランティア活動を行っていた。この日は、元兵士らを射撃場に連れて来ていたという。
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二重性について

プラトンは、この世の出来事というのは、あたかも洞窟の中の壁に外の光景が太陽の光によってシルエットとして映し出されたようなものではないかと書いている。つまり、私たちは現象界の出来事を見て、それが真実だと考えているが、それらは真実の影絵劇にしか過ぎないのであり、本当の実在の世界があるということである。

このプラトンが記述していることは、プラトン自身が単に思弁的に考えたことではなく、実際に現実世界の中で生きていて、現実の世界をそのように体験していたということを意味しているのである。それを比喩的に言ったものが、洞窟の中の影絵劇の話である。

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カントの「純粋理性批判」について

最近、「カント『純粋理性批判』入門」黒崎正男著を読み、カントの哲学の要点を理解することが出来た。

この本は「村上式シンプル仕事術―厳しい時代を生き抜く14の原理原則」村上憲郎著の中で、カント哲学を理解する為の良書として紹介していたので読んだのであるが、非常に読みやすくて分かりやすい本である。

カントの「純粋理性批判」は書店で読み開いても、何が書いてあるのか今まで全く理解できなかったが、この本は、青年時代にカント哲学で扱うような問いを自ら生み出しており、まさにカント哲学にのめりこむことが運命だったと思われる黒崎氏による本だからこそ、これだけ、分かりやすくカント哲学を解説できるのであると思われる。

村上憲郎氏が上記の著書の中で書いていたが、原書を読むということは必ずしも賢いことだとは言えないのである。

何かを学習する時にその一次資料(古典や原典)で学習しようとするのは、研究に関して高い水準を求める専門家にとっては必須かもしれないが、一次資料で研究を深めた専門家が書いた分かりやすい本を手早く読んで要点を掴んでしまうというのは、むしろ、効率的で賢い方法なのであるという意見には非常に同感できた。

カントについて勉強するのであればカントについての専門家に聞くのが一番、手っ取り早いのであり、人生をカントの理解に費やしているのだから、その人の話は参考になるというのは確かである。

カントの凄い所は、私たちが日頃、実在していると思っている時間と空間が、実際には、私たちの認識主観の形式であり、私たちの認識主観を離れた所では存在しないと主張している点である。

また私たちの理性が自然を観察する時にその中に原因と結果を見たり、物が単一であるか、複数存在するかなど、自動的に認識が生じるが、これは理性のカテゴリーであって、これらもまた私たちの認識主観の形式なのであると主張している。

カントによれば私たちが物を体験する時には感性と理性によって認識するが、その感性と理性によって認識された現象は”物自体”ではなく、私たちの認識主観に備わっている、時間と空間という形式や、因果律などの理性のカテゴリーによって、主観に現れ出てきた現象なのであり、私たちは”物自体”は認識できないということである。

私たちは認識できるのは、時間や空間という形式や因果律などの理性のカテゴリーを通して、主観が認識した現象だけであり、”物自体”は時間と空間の中にあるのではなく、また”物自体”においては、通常、認識している因果律などがどうなっているのかは分からないということである。

つまり、人間が何かを認識する時は、理性、感性というフィルターを通してしか認識できず、”物自体”がそのフィルターを通過する過程で、時間と空間や、因果関係などが与えられるのである。

だから”物自体”の世界では、時間的な時系列はなく、空間的広がりもなく、また因果関係などもどうなっているかは分からず、人間が直接認識することも出来ないし、想像することも出来ないというのである。

 

まず、私たちは時間と空間が実在していると思い込んでいる。

もし認識する私たちが存在しなくなっても、時間と空間というものがそこにあり、物はその中に存在すると思い込んでいる。

然し、カントはこの時間と空間が私たちが認識する時の形式であって、つまり、認識の仕方なのだというのである。

認識の仕方なのだということは、時間と空間という形式によらない物の認識の仕方が存在するということである。

そうすると、実は私たちの人生というものは、通常は時系列で展開されているが、人間の主観の形式である時間と空間に限定されない”物自体”の世界では、過去、現在、未来といった全ての経験内容が、全く同時的に存在しているのかもしれないのである。

ただ私たちの理性の形式が、時間と空間という形でしか、物を認識出来ないので、経験は時系列で生じているだけであり、この人間が用いている主観のフィルターを取り去ると、本当の実在の世界では過去、現在、未来は同時に存在しているかもしれないということである。

例えば○○さんには過去、現在、未来があって、今は『現在』にいると○○さん自身考えていても、物自体としては○○さんは過去と現在と未来が全て一体で同時的であるかもしれないのである。

私たちの認識主観が時間という形式を持っているので、『現在』しか認識できないのであるが、本当は過去、現在、未来が同時に存在しているあり方の方が本当かもしれないのである。

この物自体という概念から様々な考えが膨らんでくる。

カントの「対象が主観を決めるのではなく、主観が対象を決める」という発想の転換は、コペルニクス的転換として、哲学至上の最大の金字塔とされているらしいが、これは本当にそうだと思う。

これは例えば、花を見る場合にエーテル視力がある人は、花を取り囲むオーラなどが色鮮やかに見えるのであり、人間の認識の限界が対象を規定してしまう一例である。

私たちの感覚器官には限りがあるので、真の実在(物自体)の世界を見ることは出来ないのである。

上記の例で言えば、花の本当の姿は、輝くオーラーに取り囲まれた姿なのである。

人間の感覚器官に限りがあるので、その花の本当の姿(物自体)が私たちには見えないのである。

然し、更に高度な感性(感覚器官)があるとすれば、花は更に異なった姿を明らかにするかもしれないのである。

まず、私にとっては、時間と空間が認識主観の形式であるというカントの考えには非常に驚かされた。

私たちは、日々、何かを認識しているが、カントはその認識する対象について考えるのではなく、認識それ自体が、どのような構造になっていて認識とは一体、何であるかを考えたのである。

自分自身が時間と空間の中で物(現象)を当たり前のように認識している時に、その時間と空間が認識主観の形式であると考えるのは、自分が参加して経験している限定された活動領域を飛び越えて上から俯瞰して観察する能力が必要である。

つまり、カントの純粋理性批判とは、理性による理性の仕組みについての考察、あるいは問題提起なのである。

このような理性がその批判の対象を理性それ自身に向けるような場合、これを”超越論的”と呼ぶようである。

従って、カントの純粋理性批判は、超越論的認識論なのだという。

そして、こうした認知の認知といったものは、メタ認知と呼ぶようである。

wikipediaから以下に引用するが、メタ認知というのは、知性の極めて非凡なあり方である。

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メタ認知出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

メタ認知(メタにんち)とは認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。それをおこなう能力をメタ認知能力という。

 メタ認知能力(メタにんちのうりょく: Metacognitive Ability)

現在進行中の自分の思考や行動そのものを対象化して認識することにより、自分自身の認知行動を把握することができる能力を言う。 自分の認知行動を正しく知る上で必要な心理的能力。

Knowing about knowing.(知っているということを知っている)、 Cognition about congnition.(認知していることを認知している)、

Understanding what I understand.(私は理解しているということを理解している)

現代において、メタ認知能力の育成は、教育、とくに学校教育において特定の教科教育を越えた重要な課題のひとつとなっている。
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私たちはこの世界で情報(知識)を収集すれば、物知りにはなるが、然し、知識をかき集めても、知性は得られないのである。

だから誰もが哲学者にはなれる訳ではないというのは、そんな所から言われることではないかと思われる。

特に哲学とは単に事実を蓄積することではなく、常に目の前にある事物に対して超越論的に思考することである。

 

古代ギリシアのプラトンは、「存在」について考えた最初の人である。

例えば、定番として椅子をテーマに挙げれば、目の前の事実である「この椅子」が、本当は、何であるかと、その本質を問うたのであり、個別具体的な様々な椅子があるとしたら、椅子の本質である椅子のイデアが存在し、そちらの方が価値が高い、真の実在であると考たのである。

つまり、具体物のそれぞれよりも、具体物から抽象化した「概念」(イデア)が実在しており、そちらの方が価値が高いと考えたのである。

具体的な個物のそれぞれは、このイデアが質料を得て、具体的なそれぞれの形を取ったのであり、このイデアの方が、個々の事物に先立って存在している本体であると考えた。

木田元氏の「反哲学入門」の中で述べられていたが、ハイデッカーによれば、この目の前の個別具体的な事実存在と、イデアとしての本質存在を区別した時に哲学が始まったのだという。

プラトンは、「存在」についてのメタ思考を行ったのであり、様々な物が存在しているが、そもそも、「存在」とはなんだろうかという問題提起をしたのである。

ここに一段階上位レベルの超越論的な抽象思考があり、この抽象化、メタ思考こそが、哲学者の知性なのである。

つまり、知性の最も高度な表れとは、形而上学であり、超越論的なメタ思考である。

秘教によれば、アトランティス時代においては感情・情緒体(アストラル体)を完成させるのが人類の目標で、この時代の人類を第四根本人種と呼び、現代の人類は、メンタル体を完成させることを目的とした第五根本人種であり、西洋人が主にそれに該当するという。従って、現代の西洋人のマインドの活動、知性の表現の中にこの第五根本人種の特徴が出ていると思われるが、

古代ギリシアのプラトンから始まり、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルに受け継がれてきたこの形而上学の流れは、まさに第五根本人種の知的営みの歴史であると考えられる。

第五根本人種を代表したこれらの天才たちが、人類が到達できる最高度の抽象思考、超越論的思考に辿り着いたのである。

プラトンの”イデア”→アリストテレスの”純粋形相”→キリスト教の”神”、デカルトの”理性”→カントの”物自体”→ヘーゲルの”精神”などは皆、同じものを指しており、形而上の世界についての抽象思考である。

哲学者の木田元氏によれば、プラトンの「存在」を質料と形相に分ける思考こそが、近代科学を生み出した思考方式なのだという。

こうした形而上学が土台となって、近代科学が生まれ、西洋近代社会が誕生するのであるが、東洋においては、形而上学も、近代科学も生まれなかったので、西洋近代社会からそれを輸入することになった。

再び、カントに戻るが、この時間と空間が認識主観の形式であるという考えは、飛びぬけたメタ認知である。

カントはエマヌエル・スヴェーデンボルグという当時の霊能者の超感覚的体験を参考に時間も空間もなく考えたことがそのまま現実となるような、そのような物自体の世界について考えたのだと思われる。

このカントの理性批判は、現象や認識について語っており、その後のフッサールの現象学やサルトルの実存主義哲学などにもつながって来る。

カントの「純粋理性批判」は理性の及ぶ範囲を厳密に検討することで、逆に人間理性の及ばない”物自体”の世界について想像を膨らませることにつながる点で、超感覚的な世界について洞察する霊的直観に優れた、神秘家のようにさえも思えてくる。

実際、カントの生年月日は、1724年4月22日であり、日数が22で、数秘術では、秘教的な直観や霊感と、現実的な能力の両方を表す数である。

 

カント哲学から学んだことをまとめると以下のようになる。

・時間と空間は認識主観の形式である

・因果律などは認識主観のカテゴリーである

・私たちは『物自体』を直接認識できず、私たちの認識主観によって、
時間や空間といった形式や因果律などのカテゴリーを与えられた『現象』のみ認識できる

だからシッディーを開発した人が、人の過去や未来の映像を一瞬、垣間見るのは、元々、物自体においては人間は過去と現在と未来が一体となった存在だからであり、そちらの方が本当の姿であり、その本当の姿を垣間見たということではないかと思われる。

もし物自体を直接、認識できるとしたら、私たちの過去と現在、未来が一瞬で見ることが出来るのである。

あるいは物自体は時間と空間という限定がないのであれば、思った瞬間、その必要な場所に移動できるのである。そもそも『移動』という概念自体が、人間の時間と空間という認識主観の形式がもたらしたものである。

ある場所からある場所へ瞬間移動できる聖者がいたとして、その人はものすごい高速で移動したのではないのである。それは人間の発想である。

そもそも人間の認識主観が空間という形式でしか物を認識することが出来ないから、瞬間移動というのも、人間の視点での考えであり、物自体としては『移動』しているという概念にはならないかもしれない。

ジョーティッシュで、ある人の月の度数から一生分のヴィムショッタリダシャーの時系列を作成してそれを時系列の表にすると、それで一生の流れについて同時的に見渡すことが出来る。

ジョーティッシュのダシャーシステムとは、本来、物自体としては同時的に存在している過去、現在、未来を、時系列によらず、一瞥で一望できる点では、物自体を直接認識することのアナロジー(類比)になっている。

本来、同時的に存在している過去、現在、未来をこの限定された人間理性(悟性)でも見る方法がジョーティッシュ、あるいは運命学一般なのだろうと思われる。

そして、もし過去、現在、未来が同時的に存在していて、そちらの方が真の実在なのであれば、私たちはやはり、意思次第で、自分の運命を変えることが出来るという発想につながって来る。

何故なら、『現在』の中に『過去、現在、未来』が同時に存在しているからである。

『現在』に決断したことが『過去、現在、未来』を創ると、考えると、現在がとても重要になってくる。

人間が物質界に転生してきた時に、時間と空間という形式や因果律などのカテゴリーに縛られるのであるが、輪廻とは過去を原因として現在があり、現在を原因として未来があるという時系列の牢獄の中に限定することなのかもしれないのである。

例えば、輪廻する前の魂の世界というのは、物自体の世界であって、そこでは『過去、現在、未来』は同時に存在していて、全て『現在』の中にあり、その『現在』の決断が、過去と未来も更新するようなそういうあり方だって考えられるのである。

物自体がどうなっているのかは全く分からず、人間が人間的な視点から形而上のことについて考えても全く意味がないが、真実は私たちが考えているのとは全く違っているのかもしれないということが、カントの哲学を学習すると、薄っすらと感じられてくる。

 















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ニーチェについて

以前、本屋で立ち読みをしていて、ふと『図解でよくわかるニーチェの哲学』(中経出版 富増章成著)というピンク色の読みやすそうな本が目に留まって、 ニーチェの思想と経歴が簡潔にまとめられているよい本だと思えたため、購入して家に置いておいた。 

最近、ニーチェ本が何冊か出版されており、2010年~2011年にかけて、 
ニーチェブームが起こっていて、著作も100万部を超えたそうである。 
http://nietzschewords.jp/ 

それはおそらく、木星と土星がニーチェの出生図の5-11室の軸で5室の支配星や11室の支配星にダブルトランジットしていたからであると思われる。 

昨年はニーチェの解説本が出版され(5室)、高い評価を受ける(11室)ことを表していたのである。 

マリリン・モンローもそうだが、人は死してなおその出生図は生き続けるのである。 


経歴を検証してみると、チャートとの対応で数々の事実関係が解釈できる。 
http://jyotish007.blog71.fc2.com/ 

例えば、ニーチェの父親はキリスト教・ルター派の牧師であったが、ニーチェが5歳の時に玄関先で転んで頭を強く打ち、35歳にして逝ってしまう。 

ニーチェは父親の表示体である太陽が12室で減衰し、パーパカルタリヨーガで、土星からアスペクトされて傷ついている。 

また9室支配の月は1室で減衰し、同じく減衰するラーフと接合しており、父親の表示体である太陽や9Lが弱くて傷ついている。 


太陽は視力を表すが、その太陽がD1だけでなく、D3、D4、D7、D9、D10、D12、D27、D60などで減衰していて弱い配置にある。 

ニーチェは強度の近視であり、また頭髪も薄いのである。 

特にD3で太陽が減衰しているということは肉体面で太陽の弱さが出てくる可能性を示唆しているが、それはここで確認できる。 

ニーチェには弟と妹がいたが、弟は幼くして亡くなってしまう。 

D3を見ると、11Lの水星が3Hに在住して3Lで3Hの自室に在住する土星と接合している。3Lが3Hは弟、妹の存在の可能性を高めるが、11Lが3Hに在住しているので、兄弟姉妹のうち最年長か最年少になる配置が形成されている。 

ニーチェは長男であることからこれも適用される。 

末っ子の弟が2歳で亡くなってしまったのは、D3で3Hと3Lに8Lが絡んでいたからではないかと思われる。 


偏頭痛持ちで、晩年は精神錯乱状態にあったというのも、1室で減するする月とラーフの絡みでよく説明できる。 

元々肉体を表す1室で惑星が減衰して健康にはよくない配置である。 

眼病、頭痛、胃の障害、猛烈な発作など、病に蝕まれて苦しんだことが記されている。 

ラグナロードの火星が8室支配の水星と接合していることも、また肉体の表示体である太陽が傷ついていることも健康に問題が出る配置である。 


このようにニーチェのチャートは個性的で特徴が多く、彼の身辺の事実関係とチャートの対応関係は非常に参考となる。 

ニーチェは幼い頃は父親が牧師だった影響で、キリスト教に信頼を寄せ、周りから「小さな牧師さん」と呼ばれていたそうである。 

聖書の文句や賛美歌をよく暗唱してそれが上手であったと妹のエリザベートが回想している。 

また大学入学前のギムナジウム(中・高校教育機関)でギリシア・ローマの古典学習を進めたようである。 

ニーチェの思想は、ギリシャ・ローマの古典から、キリスト教や、ゾロアスター教などの東洋思想まで、幅広い古典の知識に裏付けられた教養がその背景となっている。 

ラグナ、月から見た5室に在住する自室で強い木星がこの古典の知識を表している。 

この木星に対して、4室支配の土星がアスペクトしており、土星が絡むことで哲学的傾向を与えている。 

更にこの木星と、11室で高揚する8室支配の水星が相互アスペクトしているが、8室支配の強い水星との絡みは研究にとってよい配置である。 

この水星は明らかに古典解釈学を表しており、P.S.シャストリのジャイミニスートラにも、5室に絡む水星はミーマンサー(聖典解釈学)における専門家にすると書かれているようである。 

また強い水星は詩的センスや、レトリック(修辞学)の才能を与え、ニーチェの独特な散文的な文体を作り上げたと思われる。 

この木星と水星の5-11室の軸での相互のアスペクトが、哲学、思想の世界において、創造性を発揮し、高い評価と成功をもたらしたと思われる。 

然し、ニーチェは既に16歳の頃に「もしとらわれのない自由な目でキリスト教の教義や教会史を眺めるならば、一般の考え方に逆らう多くの見解を表明せざるを得ないだろう」というキリスト教への疑いを示したと記されている。 

この若さで、キリスト教的な世界観についての懐疑を示し、キリスト教の勉強も途中で辞めてしまったようである。 

これは5室在住の木星が逆行していることが関係しているのではないかと思われる。 
5室自室の木星は明らかにキリスト教の教えを表しているが、木星が逆行しているので、気まぐれな象意として表れてくるのである。 

また木星はGK(グナティカラカ)でもあるが、これはニーチェが自らの思想の中で、キリスト教を批判し、最終的には、「ツァラトゥストラかく語りき」の中で、「神は死んだ」と宣言して、キリスト教的な世界観を放棄してしまう。 

このキリスト教との奮闘が木星の逆行やGKとしてよく表れている。 

またニーチェのラグナロードの火星は8室支配の水星と11室で接合して、5室にアスペクトしている。この11室で形成される6室と8室の絡みが5室にアスペクトして5室を傷つけている配置も、聖典解釈学など、分析的にキリスト教にメスを入れたと考えることが出来る。 

6室と8室が絡むため、ここで物議が生じるのである。 

火星は水星と絡むと、知的情熱をもたらし、思考のスピードを早くしたり、論理的でシャープな思考をもたらすようである。 

ニーチェが、アポロンに対するディオニュソス、イエスに対するツァラトゥストラを生み出して、世間の常識的な世界観をひっくり返したのは、8室支配の水星の仕事である。 

8室は法則を損失するハウスであるが、世界を構成する12ハウスの1つとして、また法則の一部でもある。 

従って、8室の仕事とは何か法則をひっくり返すようなことをして、法則を機能させることである。 

彼は、何故、真、善、美を求めることが正しいという前提があるのかと問い、アポロン的な秩序や価値の前提に疑問を提示し、またキリスト教によって与えられた道徳や価値観にも疑問を提示する。 

世間に通用している常識というものを徹底的に鋭い懐疑の視線を投げかけることがニーチェの思想の特徴である。それは最終的に真理とは解釈に過ぎないとして認識論にも及んでいる。 

ニーチェはマハダシャー水星、ケートゥ、金星期にほとんど全ての著作を書き上げ、マハダシャー太陽期になると、病状が悪化して、錯乱傾向が出て、母親の元で介護を受けて余生を送っている。 

この時期になると、ニーチェは非常に高く評価されるようになっていたが、本人であるニーチェには、もはやそうしたことも分からなくなっていたようである。 

友人がいなかったり、他者からの評価に苦しんだり、母親や妹との不和など、人間関係のトラブルが多かったのも、おそらく6室支配の火星と8室支配の水星が社交を表す11室で接合したり、6室支配の火星が家族を表す2室支配の木星や2室にアスペクトしているからである。 

このように見ていくと、このニーチェの出生図は正しいのではないかと思える。















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ジョーティッシュ―論理的思考と創造的思考の結合―

インドへの旅行から帰ってきて、ようやく落ち着いて来たが、インドの各所を身軽に巡るために向こうで購入した書籍や土産物を国際スピード郵便(EMS)で先に日本に送ってしまったのだが、それが1/30現在、まだ届いていないのである。

デリーで送付の手続きを依頼した日本人ホテルマンのY氏によると容量が40kgを超えて大き過ぎたり、荷物が書籍と、土産物が分けて梱包されていないなどの理由で送り返されて来たらしく、二度ほど梱包し直して、再送しているようなのである。

それで到着が遅れているということなのだが、4日程前に再度、送り直したとのことなので、もう直ぐ届くはずである。

私としては、この荷物が届くまでは今回の旅行が完了したという気分にはなれないでいる。

今はただ出来る事と言えば、待つ事ぐらいである。

1/29 16:00現在(この文章を書いていた頃)、ダシャーが金星/太陽/ケートゥであり、第5レベルまで書けば、金星/太陽/ケートゥ/水星/ラーフである。

プラティアンタルが太陽から見て12室に在住するケートゥのため、帰国してからも静かにひっそりと生活しているのがここ最近の現状である。

予測としては、1/30 22:14以降に金星/太陽/金星/金星/金星に以降するので、この頃にインドから送付した土産類が届くのではないかと考えている。

おそらく金星は太陽からみて4、11室支配で、2室に在住し、ラグナからみて2室支配で5室に在住しているので、土産類が実家(2室)に届くため、久しぶりに実家に帰り、そして、両親、家族(2室)と今年に入って初めて会うことになるのである。

土産類の中には衣服、布製品、神像(statue)などが混じっているが、これらは金星の象意である。

この金星が所有の2室に在住しているので、やっと土産類を手にすることができるのかもしれない。

荷物の到着が大幅に遅れている状況の中で、最悪でも1/30以降の金星/太陽/金星には届くのではないかというシナリオを頭に描いている。

帰国してから最近、M.S.Mehta氏の「PLANET AND TRAVEL ABROAD」を読んでいて、最近、旅行を経験した自分に関連させてみて、非常に興味深い記述があった。

この本によれば、

12室は9室から4室目であるため、外国での住居を表わすそうである。

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Twelfth House

The twelfth house has been given a major role for residence in a foreign country.
It being 4th from the 9th, it can mean living in a house which is 4th from the 9th.(foreign travel) (P.13)
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そして、9室の支配星が12室に在住していると、外国でグルのアシュラムに住むことを表わす、とある。

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The 9th lord in the 12th may mean living in a guru’s ashram in a foreign country.(P.17)
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現在、私の9室支配の木星が、魚座12室にトランジットしているため、まさに外国に行って、グルのアシュラムに住むような時期にいたようである。

これにはグルの近くにホテルを借りて生活し、毎日、グルのもとに通うことも含まれる。

そして、これはスピリチュアルな宗教的なグルに限らず、自分の専門分野を研究するためにその分野の指導的な立場にいる教授のもとで学生生活を送る留学生や研究生なども含まれてくると思われる。

私の12室には火星が在住しているので、射手座9室から見ると5、12室支配の火星が4室に在住している。

そのためか、私は海外に行くと良いホテルに泊まりたいという欲求が強く、そのために大きく出費をしてしまう。

今回の宿泊ホテルも私の強い希望で決めたのだが、ホテル代に予算をかなり割いてしまったのは、5室(娯楽、趣味、威厳)と12室(出費)を支配する火星(不動産、土地)が4室(住居)に在住していたからであると、改めて思われた。

このM.S.Mehta氏の非常にためになる本の中にさらに興味深い記述があるが、12室の支配星が6室の支配星と一緒にラグナに在住して、さらに8室が凶星に傷つけられていると、人は外国で投獄される(P.15)、とある。

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1. The 12th lord should be in the lagna.
2. Such a 12th lord should be with the 6th lord.
3. The 8th house should be afflicted.

If these conditions are fulfilled, the person concerned will be imprisoned in a foreign country and, therefore, it implies, he will have to travel, go abroad and then his destiny will land him in a foreign jail. (P.15)
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1. 12室の支配星がラグナに在住している
2. その12室の支配星が6室の支配星と同室している
3. 8室が凶星から傷つけられている

この3つの条件が整ったチャートを私たちが見た場合に、”外国で投獄される”とクリアに具体的に描写するのは、なかなか大変なことである。

ラオ先生の「運命と時輪」(Astrology, destiny, the wheel of time)を読んで、「ラグーパラシャリ」(LAGHU PARASARI)や「ウッタラカーラムリタ」(UTTARA KALAMRITA)に書かれている惑星の機能的吉凶や、強さを決める原則などを一通り把握した人であれば、肉体を表わすラグナに6室の支配星や12室の支配星が在住していることは、肉体が暴力や批判(6室)を受け、出費、消耗したり(12室)、監禁されたり(12室)するという悪い意味合いを抽象的にイメージすることはできるし、それらが絡むダシャーの時期が、よくない事も理解できるが、その6室の支配星、12室の支配星のラグナへの絡みと8室の傷つきから、”外国で投獄される”と具体的に描写するには、さらに上級のステップが必要である。

そして、このステップは、ロジカルシンキングが効かない領域である。

例えば、①古典のシュローカを沢山知っている(博識である)とか、②直観が優れていて、惑星、ハウス、星座の結合から、何か具体的な状況がイメージ(インスピレーションが下りてくる)できたり、あるいは、③経験豊富で、過去に鑑定した事例から、惑星、ハウス、星座の結合と、具体的事象の対応関係を記憶から簡単に引き出すことができる、などの能力が必要である。

②に関しては、日頃から霊的に正しく生きている人にしか与えられないとされている能力であり、これを持っている人を、人は”天才”と呼ぶのである。

そういう意味では、ジョーティッシュというのは、論理的思考と直感的インスピレーション(創造的思考)の結合物なのであり、そのどちらか一方ではないのである。

「運命と時輪」や「ラグーパラシャリ」などの知識を厳密に誠実に適用して、惑星の生来的、機能的吉凶や強さなどを検討して、その吉凶の発現時期などを特定することは、こうした原理原則を熱心に学んだ多くの人々にとって可能である。

このステージにおいては、ジョーティッシュは非常に論理的である。

そして、このステージまでは、ロジカルシンキングによって到達できるようである。

しかし、ロジカル思考で得られた惑星、ハウス、星座、それらの吉凶や強さといった情報を結合し、具体的な状況や出来事として、凝結させ、シンプルに表現する能力は、”創造的思考”の領域であり、直観や霊感、精神性が関与する、アート(芸術)の世界である。

ロジカル思考によって、パラシャラの原理原則で、全く同じ情報をかき集めて来ても、この最後の創造的過程で、10人いれば、10人が違う描写や結論を導き出してしまうのは、このステージにおいてである。

繰り返すが、この最後の創造的過程が優れている人は、”天才”と呼ばれるようである。

極端に言えば、論理的思考とタロット的な解釈が結合したものがジョーティッシュである。

一方で、”私は直観がとりわけて優れているから、チャートを見ただけで色々とその人のことが分かる”といった創造的直感的思考を過度に強調する主張も、また逆の意味で不完全である。

ジョーティッシュにおける直観とは、パラシャラの原理原則の厳密な論理的な適用をベースとして、その後で、もたらされるものだからである。決して、この順番は先ではないのである。

もし直観が先になってしまったら、信用のおけない霊感占い師になってしまうのであり、ジョーティッシュというのは、そのようなものではないと言える。

こうしたことを考える上で、興味深い事例が、「Timing Events through Vimshottary Dasha」K.N.RAO著の中(P.54)に出てくる。

獅子座ラグナ(D/1)
1室:ケートゥ
2室:月、土星
7室:ラーフ、木星、太陽、水星
8室:金星、火星

ここで、上記のようなチャートが図示されているが、1994年にアメリカで、このようなチャートを手に入れた時に、ラオ先生は一瞬で、この人が船の建造の仕事(造船業)をしていると、ひらめいたそうである。

そして、そのひらめきがあった後で、その占星術的根拠(理由)について考えたと書いている。

その占星術的理由としては、10室の支配星が金星で、金星が水の星座である魚座8室に在住し、金星は船(水上の乗り物)を表わして、火星は建設の仕事を表わす4室を支配して金星と絡んでいる。そして、そこにテクニカルスキルを表わす土星がアスペクトして、月のアスペクトは彼の仕事が水に関係する仕事であることを説明すると言うのである。

ところで、このような説明があったとしても、私たちがこのチャートにパラシャラの原理原則を当てはめて、この人(native)が、船の建造の仕事をしていると結論づけるのは至難の業である。

同じ材料がそろっていたとしても、この人の仕事が船の建造の仕事であると分かることは、大変、難しいのである。

現にラオ先生自身がロジックよりも先に結論がひらめいたということが、それを物語っている。

逆に言えば、ロジックがいくら正しくても、最後のひらめきがなければ、結局、分からないということである。

このエピソードは、この「Timing Events through Vimshottary Dasha」の中(P.50)のIPCプロシージャーについて説明するくだりで出てくるのだが、IPCというのは、

Inference(推論)
Perception(知覚)
Clarity(明快さ)

の頭文字を取ったものである。

そして、ここで説明されていることは、

例えば、Perception(知覚、理解)というものは、人間のマインドから全く予期しない時に放射されるイルミネーションであると説明されている。

そして、例えば、Clarity(明快さ)に関しては、この特質を持つ人は、どんな詳細にも迷い込む必要なく、即座に予言が可能であると説明されている。

この能力は占星術が神聖な(神授の)イルミネーションとなった段階にある占星術師のもので、正直で道徳的に正しい占星術師は、しばしば突然ぱっとひらめく、このイルミネーションを経験するのだと書かれている。

非常に霊的、宗教的な解説であり、イルミネーションという用語は、パタンジャリの『ヨガスートラ』を解説したアリスベイリーの『魂の光』という書籍で一度、目にしていたが、あたかも、そうした類の本を読んでいるような感覚である。

このような解説を読んでいると、ジョーティッシュというものは、ある段階までは論理的で訓練によって身につけることが可能であっても、さらにそれを超えたステージでは、神の祝福を受けた神授の才能が必要となるのである。

そして、それを多く携えた人は、”天才”と評価されるのである。

ラオ先生はその”天才”の一人である。

古典の知識の蓄積や、豊富な経験も、ものを言うかもしれないが、最も貴重で得がたいものは、やはり、こうしたことが直感的にひらめく能力であろうと思われる。

然し、天才ではなく、普通の人間である私たちがとるべきアプローチとしては、まず、パラシャラの原理原則をきちんと身につけて、それらを使いこなすことである。

そして、その後で、インスピレーションが下りてくるかどうかは、その人次第である。















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