西洋哲学、実存主義、認知科学について

最近、本屋に平積みにされていた『村上式シンプル仕事術―厳しい時代を生き抜く14の原理原則』ダイヤモンド社という本を読んだ。

これが非常によい本だった。人にもお勧めしたい本である。

この本の中で紹介されていた哲学者の木田元氏の著作『反哲学入門』という本にもまた非常に教えられた。

これらの著書によって私の頭は最近、大きな刺激を受けている。

これらの本の中で言及されていたことの中の一つとして、西洋哲学というものは一体、何なのかというテーマがあった。

村上憲郎氏の言葉を借りれば、西洋哲学というのは、一言で言えば、プラトンのイデア論のことか、あるいは、その注釈に過ぎないということである。

イデア論というものは、例えば、この世界には沢山の椅子(いす)が存在するが、その個別具体的な椅子は、皆それぞれ、形や色や大きさは違うが、皆、人が座って便利に使うことができる点は同じである。

この椅子を生み出したのは、まず「椅子」というイデア(idea)があって、その後で、それが、質料(自然)を使ってそれぞれ個別具体的な形をとったのだというのである。

そして、椅子のイデアとか、机のイデアとか、様々なイデアがあって、それらのイデアが出てくる源であるイデアのイデアを善のイデアと呼んだのである。

つまり、全てのイデアが出てくる源である。

プラトンは、この自然界を作っているのは、何かその設計図たるイデアというものが先んじて存在しており、そのイデアに基づいて創られたと考えたのである。

木田元氏によれば、この考え方がギリシア(西洋世界)で生まれたのは驚くべきことだったと指摘している。

それまでのプラトン以前の哲学者は、自分たちも自然の中の一部として自然と調和して、自然はただそこに存在するのみであり、自然が創られたものだという発想はなかったのだという。

もし自然が創られたものであるなら、自然とは別に自然を創った超自然的原理が存在しなければならず、プラトンは、それをイデアと名付けたのだというのである。

つまり、何か物が存在するとすれば、その物を構成している具体的な自然界の素材が質料であり、イデアが質料によって具体的な形をとるのである。

このイデアというのは、私たちが日常的に使っているアイデアという言葉の語源である。

私たちも行動を起こしたりする時にアイデアがまずあって、そのアイデアを元に行動する。

物を作れば物を作る前にまずアイデアがあって、そのアイデアを形にするので物が生み出されるのである。

そして、プラトンはこの自然界も、その自然界を生み出したアイデアがあったはずで、そのアイデアに基づいて、創られたに違いないと考えたのである。

そして、プラトンの弟子のアリストテレスやそれ以降の西洋の哲学者たちは、単にこのプラトンのイデア論を独自にとらえ直して考察したに過ぎないのだというのである。

アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルなどは、皆、このプラトンが考案したイデアに該当するものを、純粋形相とか、理性とか、物自体とか、精神などと呼んで、いろいろプラトン哲学に注釈を付けているだけであるという。

哲学とはこの世に存在しているものの全体が、何故、存在しているかを考察する学問であり、自然界の背後にあって、自然界を生み出した原因となる超自然的原理を探究する学問で、それを形而上学と呼ぶのだそうだ。

私はこの定義によって、今までの漠然とした理解が非常にクリアになった気がするのである。

つまり、哲学=超自然学=形而上学であって、それらは皆、同じものである。

そして、キリスト教の教義というのは、このプラトンが考案した「イデア」、あるいは、アリストテレスが考案した「純粋形相」に、アウグスティヌスとか、トマスアクィナスなどの神学者たちが、「神」を代入して作成したものだそうである。

つまり、哲学とキリスト教はほとんど同じものであり、それらは形而上学である。

西洋文明を牽引した西洋哲学とキリスト教の起源とは、実は、このプラトンのイデア論であり、この時に自然とはただ存在し、その中で調和して生きるものではなく、

自然とは単なる質料であってイデアとか神によって創られたものであり、超自然的原理としての人間理性は、その自然をいかようにも操作したり、創り変えたりすることができると考えられ、その考え方が、科学技術による西洋文明の物質的発展をもたらしたというのである。

木田元氏によれば、このプラトン以降の哲学の流れに異議を唱えたのが、フリードリヒ・ニーチェであり、「ツゥアラトゥストラかく語りき」などで、神は死んだと宣言して、プラトン以降の哲学が設定してきた形而上の価値、すなわち、イデア、純粋形相、理性、物自体、精神といったものを否定して、肉体や現実のこの世の世界を重要視することを唱えたという。

そして、哲学はこの地点から、反哲学となり、サルトル、ハイデッカー、メルロポンティ―、フッサールとか、ニーチェ以降の哲学者は皆、反哲学者であって、その後の構造主義やポスト構造主義などの現代思想にもそれは通じているという。

ニーチェによれば、キリスト教というのは、民衆のためのプラトニズムであるとのことである。

形而上学とは、科学では証明できない超自然的原理を探究する学問であり、キリスト教の信者は、この形而上の原理を「神」という言葉によって素朴に理解している。

そんなことでこの村上憲郎氏や木田元氏のおかげで、西洋哲学の大きな流れを俯瞰することができ、今まで個別バラバラに存在していた知識や読書体験が一つとなって、大きな理解に結びついた。

因みにこの哲学者の木田元氏の出生図を作成してみると、木星が牡羊座バラニーに在住して、水星は乙女座で高揚していた。

私のラグナは牡羊座バラニーであるため、そのつながりで、今、私は木田元氏の反哲学の教えによって、多大な知的な刺激を受けている。
今、この木田元氏の牡羊座バラニーの木星にトランジットの木星がリターンして、土星と木星が牡羊座にダブルトランジットしているため、この木田元氏の「反哲学入門」が村上憲郎氏の著作の中で、取り上げられ注目されている。

本屋に行くと木田元氏の「反哲学入門」も平積みのコーナーに置いてあり、注目度が高いことが分かる。

ところで、この木田元氏の「反哲学入門」 (新潮文庫)を読んで、その後で、「哲学は人生の役に立つか」という木田元氏の自伝的作品を読んで、その波瀾の生涯や読書体験や、学習遍歴など知ったのだが、その本の中で、哲学をやるには、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシア語、ラテン語をマスターしなければならず、原書を丹念に読み進めなければならないと書かれていた。

そして、哲学書ばかりでなく、西洋文学や日本文学なども、非常に沢山、読んで教養を身につけている。

哲学者というのは、抽象的な思考をするのに、多くの事実や知識が必要であり、その為、その時代に存在する科学や技術の成果や、社会で起こっている事件など、ありとあらゆる知識を知っていなければならないのであると、このことからよく分かった。

つまり、哲学とは最も抽象度の高い思考をしなければならず、抽象度を高くするには、個別具体的な知識、情報を沢山知っていなければならないのである。その個別具体的な教養から抽象化された思想を紡ぎだすのであり、だから、多くの文学作品にも触れて、質的量的に博学でなければならない。

すると、哲学の学習における表示体は惑星に例えると、何であるかということが気になったのである。

まず、一つ、言えるのは、哲学は木星が強くなければできないということである。

例えば、哲学に必要な教養は、ギリシア、ローマの古典に精通することであり、そのためにギリシア語、ラテン語などの語学にも通じていなければならない。古典の教養が必要である。またその時代の文学などにも通じていなければならない。

これが博識であることをもたらすのである。

私は昨年、『Planet and Education』Naval Sign著(『惑星と教育』ナヴァル・シン著)を読み、教育において、つまり、何を学習するかについての各惑星の表示体について学習したのだが、Naval Sign氏がラオ先生から受け継いだと言われる、惑星と教育の表示体についての対応表によれば、木星の表示体として、歴史や古典、文学、サンスクリット語と、書かれている。

西洋社会では古典教育にはギリシア語、ラテン語が欠かせないが、インドで言えば、英語、サンスクリット語などになると思われる。

そして、哲学はその表の中で、どこに分類されているかというと、木星の”準技術的なカテゴリー”に分類されている。

この表の中では、惑星は技術的な影響の度合いが強い順に、”技術的”、”準技術的”、”非技術的”という3つのカテゴリーに分けられている。

”準”が付くのは、つまり、若干、テクニカルプラネット(土星、火星、ケートゥ、ラーフ)の影響を受けていることが想定されている。

もし木星が純粋に非技術的なカテゴリーに分類されるとしたら、木星は、歴史や古典、文学、サンスクリット語の表示体なのである。

然し、哲学は”準技術的なカテゴリー”に分類されていて、若干、テクニカルプラネットの影響が想定されている。

まず、一つ分かったことは、哲学の表示体は木星なのであるということである。

それでは、木星が単なる古典や文学に対する愛好か、あるいは、それらへの愛好に加えて哲学的探求にまでつながる違いをもたらすのは、どんな要素が必要かと思うのである。

私は、木星に加えて、おそらく強い水星も必要なのではないかと思うのである。

つまり、木星は強い水星の存在の助けを借りて、哲学的探究をもたらすのである。

つまり、哲学的探究とは、知性や教育の表示体である木星と水星という二つの表示体が強くないとできない、最高に抽象度の高い知的探究なのである。

このNaval Sign氏の表によれば、水星は、会計学やジャーナリズム、占星術の表示体であると記されているが、水星が哲学に関係するとはどこにも書かれていない。

然し、ジャイミニ・スートラには、カラカムシャから5室に水星が在住していたら、ミーマンサー(聖典解釈学)における専門家にすると書かれているようである。

ニーチェは、ギリシア・ローマの古典に精通したのであり、初期に取り組んだのは、哲学ではなく、古典文献学(古典を言語や歴史の観点から比較検討する学問であり、現代では言語学がそれを表しているようである)であったが、おそらく、このキャリアは、ニーチェが蠍座ラグナで、5室に高揚する水星がアスペクトしていたためであると思われる。

ニーチェは5室で木星が自室にあり、水星が11室で高揚して5室にアスペクトしている。

つまり、ニーチェのような、それまでの西洋文明で行われてきた哲学的歩みを俯瞰し、さらに反哲学を提唱するだけの知的活動は、強い木星と水星があって可能となったという実例なのである。

そして、この「反哲学入門」を書いた木田元氏も水星が高揚している。

上記において、哲学とキリスト教は全く同じものであると書いたが、キリスト教の表示体は魚座であり、宗教の表示体は木星であり、哲学の表示体もまた木星であるというのは、そうした観点からすると、よく理解することができる。

話がふくらんで来たが、この木田元氏の「反哲学入門」を読んでから、もっと哲学書を読みたくなって、ニーチェに影響されたサルトルの本などに触れて、実存主義哲学を検討してみたのである。

サルトルは、フッサールの現象学をまず学んだのだが、フッサールの現象学に、興味深い概念がある。

それは、エポケーと呼ばれるもので、体験する内容が、過去の概念や環境内での文脈的意味付けを失って、全く違ったように見える体験を指している。

例えば、私たちが、”橋”という漢字をずっとノートに書き続けていると、だんだん疲れてくるのか、”橋”という漢字に本来、備わっていた意味などが、書いている人の頭から失われて、何か見た事もない、線の奇妙な集合のように見えたりするのである。

時々、見ているものが、それが存在している文化や環境の中での意味を失って、全く違ったような異様なものとして見えてくる体験がある。

私は、この上記の漢字の事例の体験もよくしたが、以前、韓国に3日ぐらい旅行して、帰って来たときに、向こうでハングル文字ばかりみていて、誰とも日本語でしゃべらなかったので、日本に帰ってきて、町中に見える日本語の看板を見た時に、そこに書かれている文字が何か、見慣れない奇妙なものに見えたことがある。これなどは、日頃、漢字をみた瞬間に今までの経験から、その意味などが当たり前のように引き出されてくるが、その経験と文字の結びつきが、一時的に引きはがされて全く新しいものとして、体験されたからである。

私たちが日ごろお互いに見ている”人間”の姿も、目が2つあって、足や手が2つあり、鼻の穴が2つあって、指が左右合わせて10本あるという、全く当たり前と思っている経験の前提について、その経験や前提が頭から失われて、全く初めて見るものとして人間を見た時に何か不思議なものを見ている感覚になったりするのである。

何故、人間、あるいは自然界の動物には2本の手があって、2本の足があって、2つの目や鼻の穴があり、1つの口があるのか、という疑問を提示するような人は、認識において、こうした経験をしているものと思われる。

この今まで見慣れて見てきたものが、ある時、全く違ったように見えるという驚きの経験は、フッサールが現象学の中で、エポケーという名称で呼んでいたようである。

私は、以前、テレビか何かで見たのであるが、数学者の秋山仁が、小学生の時に先生から、「このコップの中に水を入れて下さい」と言われて、コップを叩き割ったそうである。

普通のコップの上から水を注ぐのではなく、コップの素材であるガラスに入れるものと思って、コップを叩き割ったそうである。

普通の常識では、コップの上から素直に水を注ぐと思うが、コップのガラス素材の中(表面の内側)に入れると思ったというのである。

これなども、エポケー的な経験であるが、秋山仁が常識的な概念で物を見ていなかったという、ある種の非凡さを示す実例である。

そして、サルトルの実存主義はそのフッサールの現象学の影響を強く受け、私はまだ読んでいないが、彼の初期の作品である『嘔吐』には、主人公のロカンタンが、今まで見ていたものが違ったように見えるという異様な体験が何ども出てくるようである。

この『嘔吐』は実存主義のエッセンスを小説の形で最初に伝えた作品と言われており、おそらく、この今まで当たり前だったことを全く違ったものとして体験するエポケーが、実存主義にとって重要なのである。

つまり、エポケーの例で見られるように物事には最初から意味などはなく、言語や制度や文化(伝統や習慣)などが、その混沌とした意味のない物事に人間的な意味を与えているというのである。

従って、世界は不条理であり、意味はないのであり、人間がその意味がない不条理な世界に意味付けをするのである。

元々、世界は不条理で意味がなく、神もいないのであるから、人間は自由にこの意味のない世界に意味を創造することが出来る。

この不条理な世界に自分で意味を創造することこそが、実存主義的な生き方である。

後で述べるが、この実存主義哲学が、多くの自己啓発セミナーの理論的バックボーンになっているようである。

自己啓発セミナーに何度も通っている知り合いから、以前、世界は「意味なし、空っぽ」なのだとか、そうした考え方をよく聞かされたことがある。

例えば、コップに水が半分、入っていて、それをある人は、「まだこんなに沢山、水が入っている」と考えるが、別のある人は、「もうこんな少ししか水が入っていない」と考える。

私たちが日常、様々な物事に意味を付与している。これはよい、これはわるいと、判断を下している。

然し、この判断は単なる解釈であって、解釈によって意味が付与されたのであり、もともと意味はないのである。

このように人に説得して、もし、その人がその人自身にとって不利となる解釈、意味付けを世界に与えていて、それが事実だと思いこんでいるとしたら、それは間違えであり、それはあなたが自分でそう解釈したに過ぎないことを教えてあげるのが、自己啓発セミナーで行われるトレーニングである。

実存主義者は以下のように説明する。

人間が作った物においては、その実存よりも本質の方が先に存在する。

例えば、物が作られる前にまず、そのアイデアがある。

然し、人間においては実存が本質に先立ち、人間の本質というものは後から決まるのである。

先に人間の本質があるわけではなく、人それぞれが、意味のない不条理な世界の中で、世界にどのような解釈を行い、意味を付与したかで決まるのである。

つまり、人間においては実存が本質に先立つので、その人が何であったかはその人の行動の結果で決まるのである。

どのように行動してどのように世界に意味を創造したかでその人の本質が決まるのである。

この思想が、サルトルを社会主義運動などの政治活動へ強力に動機づけたようである。

この思想は人々を積極的にし、行動に促さずにはおかないのである。

従って、人にその人が生まれつき経験してきた体験によって形成されている偏った思いこみや、消極的な自己概念を捨てさせ、世界の解釈や意味付けを新たにし、人を積極的に今までになかった行動に動機づけるという点から、実存主義は、自己実現セミナーの理論として採用されているのである。

私は以前、3日間の高額な自己実現セミナーを受けたことがあるが、そこで使われている理論も実存主義哲学や精神分析の手法を用いたものであった。

まず、一日目は、参加者全員に過去の父親とか母親や友人たちとの関係で、悲しかったこととか、情動の伴う様々な出来事を思い出させるのである。そして、それを皆の前で発表させる。そこでまず参加者は皆の前で発表して泣いたり、いろいろ感情を発散させることによって、一定の精神分析的なカタルシス(浄化)の効果を得るのである。

つまり、ここでやろうとしていることは過去の経験に基づいた間違った信念などを洗い出す作業であり、その信念が間違っていた可能性を探る試みである。

何かを諦めた経験とか、間違った信念を形成した体験を思い出させ、それを追体験させ、そして、そうした昔の不幸な体験は、実は解釈にすぎないのであり、今ここで対決し、解決できる問題として、その場で、親に連絡させたり、自分が諦めたことをもう一度、やり始めるようにさせたり、いろいろ行動の課題を与えられるのである。

そして、誤った思いこみや信念に導いた心的外傷体験をそこで終了させ、全く新しい可能性を創造するのである。

これらを3日間のセミナーで徹底的にトレーニングさせられる。

まず、自分が今までに経験の中で培ってきた思いこみや信念に気づかせることが、インストラクターの腕の見せ所である。

そして、実存主義的に可能性を創造し、無限の可能性があるということを参加者に気づかせるのである。

その時は、何をしているのかよく分からなかったが、今ではこの自己啓発セミナーの手法が、実存主義に基づいていたとはっきりと理解できる。

もう一度、フッサールの現象学に話を戻すが、実存主義哲学の元となっているのは、フッサールの現象学であり、これは認識論とか、認知心理学に近いものである。あるいは言語学や記号論、比較文化論なども含んでいる。

それで、そうしたニーチェ以降の反哲学、フッサールの現象学や言語学や認知心理学などの最新の成果を応用して開発されているのが、現代の自己啓発セミナーである。

例えば、機能脳科学者の苫米地英人氏がルータイス氏が開発した教育プログラム(TPIE)を日本人向けに改修して、日本に導入し、昨年はルータイス氏と共同でTPIE日本導入記念ライブセミナ―を大々的にやっていたようである。

このセミナーの中で、行われているのも、結局は、フッサールが現象学の中で提起したエポケーを積極的に自己誘発して、既存の固定した概念の枠組みを破壊して、全く新しい可能性に開かせるというものである。

例えば、紙と鉛筆を持たせて、何か通常の常識的な使い方とは全く違った使い方を発明させたり、既存の常識的な自己概念を壊す練習を繰り返すのである。

苫米地氏の著作を読んでいると、いくつかの概念が出てくるが、例えば、認知心理学におけるホメオスタシス(恒常性維持機能)とか、スコトーマ(心理的盲点)、コンフォートゾーンといった概念を用いている。

例えば、人はホメオスターシスによって、自分が居心地のよい認識の枠組み(コンフォートゾーン)を維持しようとするため、例えば、1億円が当たったとしても1億円を使いこなす自己イメージを持たない人は、直ぐに浪費して失ってしまうそうである。

この自己概念を壊すには、全く今の自分からは創造できない高い目標を設定して、ホメオスターシスを無意識に働かせて、新しい自己イメージに順応するしかないのである。

例えば、金持ちになりたかったら、金持ちが住んでいる友人の家にいって、その家に泊まらせてもらい、
臨場感を得て、無意識にそれを刷り込んでいくことを勧めるのである。

そして、金持ちになりたかったら、金持ちの住んでいる場所に住み、金持ちと付き合うようにするのである。

以前、マルチレベルマーケティングのビジネス(ネットワークビジネス)のセミナーに参加した時に講演者がそのようなことを話していたのを覚えている。

実際、この業界には自己啓発セミナーから経済的な豊かさを達成しようという人が多いのだが、

金持ちになりたかったら、金持ちと同じような食べ物を食べ、同じような行動をしてみることだと。
そうすると、おそらく、ホメオスターシスの効果によって、金持ちである自分の方が臨場感が出てくるため、実際に金持ちになっていくのだという。

フッサールは元々哲学者ではなく、数学者であり、認知心理学者に近かったと思われる。

そして、苫米地英人氏は、脳機能学者で、認知心理学者であり、人工知能の研究者であったと思われるが、ノーム・チョムスキーの言語学なども研究していたと思われる。

そして、私が冒頭で紹介した『村上式シンプル仕事術―厳しい時代を生き抜く14の原理原則』の著者である村上憲郎は、人工知能の研究者である。

そして、実存主義を創始したサルトルは、フッサールの現象学に基づいて自分の哲学を構成している。

おそらく、ここに共通しているのは、水星の強さである。

サルトルの出生図を作成すると、水星が双子座で自室に在住している。

哲学をする人でも、認知心理学や言語学などを取り入れて理論を構成する人は皆、水星の影響が見られるのではないかと思われる。

一つ興味深いのは、自己啓発セミナーなどで、教育プログラムを開発する人は、こうした現代の哲学、認知心理学の最新の研究成果をよく知っているのであるが、決してそれらを教養として身につけて満足するのではなく、実際に実践して応用するところである。

そして、こうした自己啓発セミナーではフッサールとかサルトルとかこうした哲学者の名前は一度も出てくることはない。

自己啓発セミナーの主催者や参加者には、射手座の影響が強く見られると私は、以前から書いているのであるが、射手座の支配星は木星である。

哲学の表示体は木星であるため、射手座の人たちは非常に哲学的な探求が好きである。

然し、決して、座って哲学書ばかりを読んでいる人たちではなく、彼らは実践する哲学者なのである。

何を実践しているかと言えば、実存主義哲学や認知行動科学である。

彼らはこうした哲学や認知科学によって実際に自分の人生を変容させようと考える人々である。

教養を身につけるだけで満足する人たちではない。
















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