アニメ映画『鉄コン筋クリート』の世界観について

最近、『鉄コン筋クリート』という作品を見たが、
全く予備知識なしで見て、見ながら次第に作品の世界観に引き込まれた。

極めて現代的なテーマについて扱っている作品である。

我々日本人にとってはまさに我が身のことであり、
自分の住んでいる街の問題である。

そして、非常に日本を扱った作品であった。

以下はまだ見てない方は読まない方がいいかもしれません。

この作品のテーマは民族主義とグローバリゼーションである。
そして、精神性と物質性の問題も取り扱っている。

「宝町」という小さな町を舞台にして、そこに昔から住んで、
義理と人情で、街を取り仕切ってきた地元のヤクザたち。

そこを大規模に開発して金儲けをしようとする「ヘビ」と
称する謎の人物が登場する。

彼はどう考えても金融ユダヤ人であり、金の力で全てを解決しようとする人物である。

その「ヘビ」は既に地元のヤクザの親分を丸め込んで、住民を追い出して、
街に「子供の城」というレジャー施設を開発することを計画している。

このユダヤ人の「ヘビ」が日本のヤクザやチンピラを下請けのように
使って、自分たちの好きなように街を開発するという構図は、
ベンジャミンフルフォードが指摘する今の日本の現状そのままである。

彼は日本の山口組などもロックフェラーやロスチャイルドの下請けなのだと、
実際、組員からのインサイダー情報として著作の中で公表している。

この街には「クロ」と「シロ」という名前の親のいないストリートチルドレンがいる。「クロ」は大人も顔負けの実力で、街を取り仕切るストリートギャングである。彼は宝町を俺の町と呼んでいる。

その「クロ」が大事に育てる「シロ」という純粋な少年がいる。
「シロ」はヤクザの街の中で、穢れを知らない無垢な少年として奇跡的に育ったのである。

彼らは一人の人間の心の中に潜む光(善)と闇(悪)を象徴して、人格化されており、彼らは2人で一つの存在である。

この街に「ネズミ」と呼ばれる昔堅気のヤクザが戻ってくる。

彼はこの「ヘビ」に丸め込まれたヤクザの親分の指令で、街の住民に嫌がらせをして、土地を地上げしに来たのである。

然し、この街で育ち、生きてきた彼は、町の歓楽街や風俗街など、
昔、自分が世話になり、育ってきた町を破壊するこの「ヘビ」の計画に
賛同できないでいる。

彼にはこの「ヘビ」の計画に逆らうこともできず、運命として、諦めてこの大きな流れを受け入れてしまっているところがあるのである。

従って、この昔堅気の「ネズミ」はもはやグローバリゼーションと闘うことが出来ず、途方に暮れて、人生の残りの余生を過去の思い出に浸りながら過ごしている状態である。

この「ネズミ」の姿は今の自民党そっくりである。
金融ユダヤ人の勢力に逆らうことができず、彼らの日本への影響力の行使を運命として諦めて受け入れてしまっており、金融ユダヤ人と戦う気概もない。
そのため、彼ら外資に日本の国富を売り渡していき、最終的に日本が弱体化していくことを悲観しつつも受け入れている負け犬である。

彼らは新自由主義経済を受け入れた清和会系の自民党議員に比較される。

金融ユダヤ人に屈従し、日本の国民には威張り散らす。
これが彼らの政策であり、政、官、財によってこの計画的な日本の弱体化を招来する政策を進めてきたのである。

この「ネズミ」に育てられたヤクザの「木村」は「クロ」に叩きのめされた失態により、自宅休暇を命じられる。つまり、失業したのである。

困った彼がバーで飲んだくれていた時に「ヘビ」がやってきて、彼らユダヤ人の仲間に誘われるのである。

仕事がない「木村」は結局、「ヘビ」に連絡して、彼らの協力者となってしまう。

そして、「木村」は彼がお世話になったヤクザの先輩である「ネズミ」を「ヘビ」の指令で殺してしまうのである。

最初は「ヘビ」に反発した「木村」であったが、妻を人質に取られている状態で、やむなくお世話になった先輩の「ネズミ」を泣く泣く射殺するのである。

このようにユダヤ人に買収され、彼らの脅しに屈従した「木村」だったが、
最終的に、人を部品のように扱うことしか考えていない「ヘビ」に嫌気が差して、「ヘビ」を銃で撃ち殺すのである。

この辺りは、義理人情の民族主義者がユダヤ人の買収に最後の最後で、踏ん張って、勝利をつかんだ瞬間である。

お金で全てを解決できると考えている彼らに公然と反発し、彼らを捨てた瞬間である。

これは今、世界の中で起こっている国際金融危機を表わしている。

つまり、このサブプライムローンから引き続いて生じるマネーシステムの崩壊が、ユダヤ人の世界に対する金融支配を終わらせるのである。

各国の発展途上国の代表たちはドル基軸通貨体制、IMF-世界銀行体制による支配を終わらせて、新しい、各国が対等で、平等な通貨制度への移行を模索しているのである。

もう彼らが支配に用いているマネーシステムはいらないと各国が主張し始めているのである。これから米ドルの崩壊にあわせて、その動きはさらに加速していくはずである。

この「ヘビ」は3人の得たいのしれない殺し屋を使うのであるが、これらの殺し屋に対して、ユダヤの呪文のようなものを唱えるので、明らかに彼らはユダヤ人という設定なのだろうと思われる。

このユダヤ系金融資本家たちを象徴する「ヘビ」と街のヤクザや警察、住民、そして、実は内心、住民やヤクザや警察にも一目置かれ、彼らの代表者としてみなされているストリートチルドレンの「クロ」と「シロ」との戦いが、主なテーマで、そこに民族主義、地域主義と、グローバリゼーション、国際主義の戦いが展開されるのであるが、これは全てをお金で解決しようとするユダヤ人たち、商業至上主義、新自由主義経済と、義理人情のお金を超えた人間との繋がりや愛を重んじるローカルな地域家族共同体との戦いでもある。

この対立軸で、展開していくが、最後に、殺し屋に「クロ」が殺されそうになった時に、全てを俯瞰して上から見下ろす、「イタチ」という闇の主が、その殺し屋たちを始末して、「クロ」を助けるのである。
そして、「クロ」を闇の勢力、闇の価値観へと誘うのである。

彼らはユダヤ系金融資本家と民族主義者といった現象界の表面的な対立軸を超越して、もっと上の別次元で、光と闇との戦いをおそらく展開しているのである。

彼らにとっては金儲けをする悪徳ユダヤ人でさえも将棋のこまに過ぎない。

彼らは全てを俯瞰して、そして、悪の道への素質のある「クロ」に誘いかけて、闇の世界へと誘うのである。彼らにとっては、「クロ」を闇に引きずり込めれば大勝利であり、そのためにユダヤ人の「ヘビ」などはいつでも捨ててもいい駒に過ぎないのである。

そのために闇の力を見せつけるために「クロ」を助けたのである。

「クロ」は闇の力が幅を利かせて、世界の麻薬や暴力、戦争、堕落、貧困など、あらゆる人間の活動の中に存在する悪の力の表れをビジョンとして、「イタチ」に見せられて、闇の世界に誘われるのである。

そして、そこに引き込まれそうになるが、最後に「シロ」の声により、正気に返って、「シロ」を信じることによって、光の世界に戻り、闇の世界とは決別するのである。

然し、闇は最後に手の傷を見ろ、私はお前についていてお前を助けるだろうといって、自分が存在し続けることを「クロ」に告げるのである。
従って、決して、闇は消滅するわけではなく、その誘惑は存在し続けるのである。

こうした光と闇、善と悪の戦いは、最近の米映画「ダークナイト」でも描かれている。光がなければ闇がなく、闇がなければ光もないということで、闇は存在が許されており、光と闇はお互いに存在を認めあっており、そして闘うべき宿命を背負っているのである。

このような光と闇の戦いは、現象界の目に見える対立を超越して存在しており、決して、ユダヤ系金融資本家=闇(悪)、民族主義者=光(善)という風に考えることも出来ない。

第二次世界大戦では、物質性の勢力(闇)が、ヒトラーやナチスの側近を通じて、顕現し、ヒトラーは物質性の大主に憑依されて、彼らの目的を実現するように操られたようである。

物質性の勢力は世界に恐怖や悪徳をはびこらせることが目的である。

そうした究極の悪の前ではユダヤ系金融資本家自体も、単なる強欲なビジネスマンなのであって、彼ら資本家も、善と悪、光と闇、「クロ」と「シロ」の狭間を揺れ動く存在なのである。

陰謀理論に見られるユダヤ系金融資本家が世界を支配しているという理論において、
現象的な面では、確かにグローバリゼーションを推進する金儲けだけを考える強欲な彼らは悪見えるが、グローバリゼーション⇔民族主義といった対立を超越して、全てを俯瞰する立場から、悪の力を行使する「イタチ」のような存在がいるはずであり、それは形而上の存在であると共に、人格化された実在の存在でもある。

この『鉄コン筋クリート』の最後ではそのような究極の悪や闇が描かれていたと思うのである。
確かに「ヘビ」は悪人なのであるが、最後に出てきた「イタチ」こそが本当の悪であり、光と闇という対立軸の中で、人々の心の中と外部の両方に存在するのである。
















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