『ランボー最後の戦場』について

最近、『ランボー最後の戦場』を観に行った。

最後の4作目で、ランボーは円熟して、ある種、全てを諦めている達観した境地に達していたような感じだった。

例えば、ランボーがミャンマーを救いに来たボランティア達がミャンマーの軍事政権に捕らえられ、その救援を要請された後に彼が自分の過去を回想しているシーンが出てくる。

その中で、「俺は生まれついてのファイターだ。
国家の為に戦うのではなく、自分のために戦うのだ。戦闘を楽しむのだ」というようなセリフが出てくる。(セリフの内容を正確に再現できないが、だいたいこのような意味である)

これは、ある種、ランボー第1作から続いている、国家の為に戦ったのに、最後に国に見捨てられたベトナム帰還兵という被害者的な観念を完全に振り捨てて、全く無執着な境地にたち、たた自分は生まれついてのファイターだから、だから戦うんだ、戦うことが自分の本性なんだという、自分の境遇や悲運に対する執着が全くない、ある種、達観した境地にたっているかのような潔さがあるのである。

もうこの『ランボー最後の戦場』の中に出てくるランボーはベトナム帰還兵の心傷ついた兵士ではなく、もはや、自分のファイター(戦士)としての運命(人を殺す)を完全に諦めて受け入れているかのようなのである。全く運命に抵抗せず、ただ無執着に受け入れている潔さが見られ、そこにはもう悩みとか迷いがないかのようである。

バガヴァッドギータの中のクルクシュトラの戦いの前で、勇者アルジュナにクリシュナが、無執着になすべき仕事を為せというカルマヨーガの境地を伝授した時のような無執着の境地なのである。

クリシュナも勇者アルジュナに対して、あなたは、戦士であり、戦うことが本性なのだから、あなたはその本性どおり戦うべきなのだ、それがあなたの仕事なのであり、自分の仕事を無執着で為せばよいのであるというような教えを説いたのである。

このランボーの独白シーンを見ながら、私にはランボーの”自分は戦士であり、戦いを楽しんでいるのであり、自分の為に戦いをしているのだ”という悟りにも似た潔さ、正直さ、運命に対する諦めや、謙虚な姿勢にバガヴァッドギータの勇者アルジュナが重なって見えたのである。

また、ランボーが傭兵たちに対して、

「ムダに生きるか何かのために死ぬかお前が決めろ。」

と言って選択を迫る、非常に印象的で、心に残る名セリフが出てくるのだが、これもランボーのムダに生きるならむしろ、何かの為に死ねという、戦士の高潔な本性から出た言葉であり、戦士を導くリーダーのセリフである。

そして、ランボーは戦闘が終わって、捕虜となったボランティアたちの救出に成功すると、最後のエンディングシーンで、自分の故郷に帰るのである。

故郷というのは4室を象徴しており、故郷に帰るということは、彼が過去から引きずってきた心の傷が癒えたことを象徴しているのである。

心傷ついたベトナム帰還兵のランボーは、第4作にしてついにインド最高峰の霊的教え、カルマヨーガの教えに到達したと私は思うのである。
















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