超越論的問い

最近、ある習い事をしているのだが、先日、スークシュマ/プラーナダシャーは、木星/金星期だった。

正確に言えば、金星/火星/ラーフ/木星/金星期であった。

講師はすこぶる機嫌がよく私のしつこい質問にも笑顔で応えた。
むしろ、もっと質問はないんですかというノリでサービス精神に溢れていた。

金星は山羊座の木星からみて5、10Lで8Hに在住していた。金星はヨーガカラカである。獅子座に在住しているので現在、トランジットの土星(天秤座)からアスペクトされていない。8Hがヨーガカラカの在住で強くなっていたのでそれでサービス精神に溢れていたのだ。

しかし翌日は木星/太陽期だった。

金星/火星/ラーフ/木星/太陽期である。

太陽は木星から見て8Lで7Hに在住し、現在、トランジットの土星からアスペクトされている。

私にとってその日、プラーナダシャーの太陽は8Lで土星からアスペクトされていたことがポイントである。

そして、更にその日はトランジットの月がラグナから8室の蠍座を運行中であった。

その日、その同じ講師が、私の質問に対して『同じことを何度も聞くな』と言って、突然、怒り出した。

それはかなり唐突であった。

分からないから何度も質問しているのであって別にわざとしている訳ではないのであるが・・・。

前日とその翌日の違いように驚いたものだった。

この出来事は正直に言って私をかなり落胆させたが、明らかに私との相性問題が露呈しているといった印象であった。

そして暫くしてから、なぜこれが起こったのかを理解した。

つまりは今日はプラーナダシャーが一つ上のダシャーから見て8Lの太陽であり、そこに土星がアスペクトしているからだと。

太陽が土星から傷つけられていて8Lなので法則、正義を損失した不合理な怒りであり、支配であったと。そして太陽はプライドを表すため、若干、私のブライドが傷つき、その後で講師に対する悪意が生じた。

これらは全くもって惑星通り、ダシャー通りの出来事である。

同じ講師がダシャーによってあり得ないぐらいにころころと態度を変える。それは人間の恣意性を超えて完全に惑星がもたらした化学反応に過ぎないと言える。

この些細なつまらないエピソードでさえ、惑星がもたらす宇宙的なドラマの一部に過ぎないのだ。

そう思ったらその出来事は、もはや私と講師の間の感情を伴う私的エピソードを超えて、ただの川が流れ、海が波打つのと変わらない自然界の一現象に過ぎなくなってしまった。

こんなことをその出来事が起こった時に考えているのは占星術師ぐらいなものだろう。

私の頭の中でそのような考えが閃いたことなどその場にいた誰も知るまい。


占星術師は同じ事実や現象を全く通常の一般人とは別の仕方で理解し始める。

それは全く人間界の文脈や意味付け、解釈とは別のものだ。

原因と結果の理解も一般人とはかけ離れている。


一般人ならば何かその状況で自分の態度に非があったとして自分を責めるか、あるいは相手が不合理であり、スキルが足りなかったとして相手を責めるかして、その場で自分なりの因果の理由づけをする。

しかし、それはそうしたその場の因果を超えた別の所に原因がある。

原因は現象界(物質界)とは別の場所からやって来たのだ。

その別の場所とは人間存在の意味にまで迫るようなそうした世界である。

そこには過去も未来もなく現象界の時系列が存在しない超越論的世界である。


この世界では過去も現在も全ての時系列が同時的に存在しているのである。

それら全てを一望できる人にとってはそれらは一度に見渡すことができる。


霊的に開眼した人であれば透視力によって人の未来や過去の映像が一瞬、垣間見えたりするのだが、それはその同時的に存在している全体の中の一部を見たということである。

占星術師は人の人生の流れをダシャーバランスによって象徴的な形で俯瞰することができるが、おそらく完全な透視力を持った人であれば、全く完全なかたちであたかも映画のフィルムを横に広げて全て視界に収めるかのようにして人生全体の表象を一望できるのだ。

それは同時的にそこに存在しているからである。

そして、そちらの世界の方がリアルなのである。

私たちが慣れ親しんでいる現象界の時系列は非リアルである。

その世界について一度でも垣間見た人は現象(物質界)の世界で生きるということの意味づけや解釈が変わってしまうことだろう。


ところで、その講師は当初、授業の進め方について多くの生徒から抗議を受けたため、生徒の要望に従って講義方法を修正したのであった。

つまり、おそらく5室の支配星が6室に在住していたり、5室や5室の支配星が傷ついているのである。

つまり、生徒との関係においてstruggleがあるということである。


一方、私は今はどんな時期かというと、MDL/ADLが金星/火星期である。

火星は金星から見ると4、9室支配で8室に在住して土星からアスペクトされている。火星はラグナからみても8室の支配星である。

今は9室と8室が絡んでいるので講師運が悪いのである。

どう考えても理不尽としか思えない怒りを買ったり、これは完全にダシャー通りの展開であると理解した。

つまりは、生徒運がわるい講師と講師運がわるい生徒がカルマ的に出会ったということである。

この8室の支配星の時期や8室の在住星の時期というのは深い精神的苦悩を伴う試練の時期である。

また8室であるから過去世の業が対人関係を通じて表面化していると考えることができるかもしれない。8室はどうしても勝てない相手、支配者であることから、そうとうな苦悩や精神的苦しみを与える。

然し、それを甘んじて享受するしかないのである。

それに対してどうすることが一番、知恵ある対応なのかと考えると、やはり、その試練に対する自分自身の反応を変える以外にはないのではないかと思う。

人間は自動機械だから条件付けによって反応もほとんど自動的なのである。

不愉快な目にあえば怒りの感情が起こり、理不尽な目にあえば復讐心さえ沸き起こるかもしれない。

然し、気をつけなければならないのは、8室の象意によって苦しんでいる時、ついつい、怒りや不満、恨みの感情で心がいっぱいになってしまうのだが、それは罠である。


それこそ、悪魔の思う壺なのである。

クリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズの『ダークナイト』という映画があったが、光と闇の戦いについてその辺りのことを実に上手く表現していた。

悪魔は人間がお互いの信頼を失い、悪意に満ちる時、勝利を掴むのである。


ニーチェがこういう箴言を残している。

『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。』


つまり、8室を経験しているうちに自分がまさに8室そのものになってしまわないように気をつけなければならない。

もし、怒りや不満、恨みで心が満たされると、カルマは何倍にも増幅されてしまうことだろう。

こういう時こそ、生きて日々を過ごせているだけでよしとするべき時である。

また深い業の相手を許すことが必要である。

全ては自分を浄化せんがために仕組まれていることなのだと自分を説得することも大切である。

そうすることによって、カルマの連鎖から脱出することが可能なのである。

またこういう時にはやはり瞑想をすることによって気持ちをリフレッシュすることが効果的にも思う。

瞑想をして否定的な感情などを全てリセットして、昨日に対して死にまた日々新しく生まれ変わるのである。


というようなことは誰に対して言っている訳でもなく、自分自身に対して言い聞かせている。

以前どこかで聞いたことのあるような教えを思い出して自分自身を説得する。


このように書いていることは少し前の話であり、少し時間が経過した為にこのように記している。

あまりにも新しい出来事だと、当事者達がその出来事にまつわる記憶や感情を強く保持しているので、あまり書く気持ちになれない。そのため、少しコラムにして投稿するのにはタイムラグがある。


然し、本日、このことに関連して私の予測を裏付ける非常に面白い経験があった。


トランジットの月と水星と火星が乙女座から6室目の水瓶座をトランジットしている本日、授業の満足度や講師の交代に関するアンケートが一生徒の発案によって全員に配布された。

これは講師の教え方、授業の進め方に不満があることが背景にあるのだが、乙女座から6室にトランジットの惑星が集中しているタイミングで、このような動議が起こされたのは分かりやすい現象であった。

つまり、講師が批判され、奮闘するタイミングである。

この月が水瓶座をトランジットする今日、講師は非常に攻撃的で奮闘していた。

6室の象意の中にいることが完全に確認できる。

つまり、講師は乙女座ラグナであることが今日の経験から分かった。

私は既に講師が乙女座ラグナではないかと思っていたが、今日の経験はその予想を裏付けて、はっきりとした確信につながるものだった。


だから以前から私との間で摩擦が生じ、私の質問や問いかけに対して講師は苦しそうな表情を示し、苦手意識を露呈していたのだ。

実際、私の接触がかなり苦痛だったのだろうと推察された。


然し、私には講師がこの批判を退けて、何とか奮闘してこの試練を乗り切るだろうことは推測できる。

何故なら、6室は奮闘しつつ何とか試練をやり過ごすハウスだからである。


今日はそうした意味で非常に興味深い1日であった。

他に乙女座ラグナであることが推察される人物が体調不良らしく見えたのも6室に月がトランジットしていたからこそである。

そうしたことを常に観察しながら、私は一日を過ごしている。

常に身の回り全てのことが占星学的観察対象である。

こうした文章を当事者に見られる恐れもないとは言えないが、おそらく当事者がこの文章を見ても何のことだか暗号のようで全く分からないだろう。

 

 


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